開成学園バレーボール部OB会

新着情報

2022/7/30

1.昭和48年卒業の矢澤さんの七回忌に当たり、ご家族および親しかった方々から
  寄稿をいただきました。(以下トップページ)

  ⇒「矢澤さんを想う」昭和49年卒業 老川 知永さん
  
「矢澤俊彦さんの特集記事について」昭和49年卒業 松原 秀彰さん
  「父の七回忌法要に結婚報告を」矢澤 佑紀子さん
  「矢澤先輩にお世話になったこと(法信寺の思い出)」昭和54年卒業 関 茂和
    さん

  
「故矢沢俊彦君のこと」昭和48年卒業 小泉 哲郎さん(70年史より抜粋、
    再掲載)


2.昭和45年卒業の竹内 雄一さんから寄稿をいただきました。

  ⇒活躍>「日本の財政に関して-1,000兆円の国債残高があっても健全な日本の
       財政-」


3.昭和45年卒業の山本 惠一さんから寄稿をいただきました。
  ⇒活躍>「SDGsしてますか?」

2022/6/29

1.「2021年度OB会総会資料、質疑応答と審議結果」を掲載いたしました

  ⇒最新のOB会活動>「2021年度総会資料」

2.昭和49年卒業の井上 秀雄さんにOB会総会で講演していただきました。

  ⇒最新のOB会活動「私の履歴書;自動車における安全技術の進化と深化」

3.2021年度OB会総会後の集合写真を掲載いたしました。

4.昭和54年卒業の熊谷 達範さん、興村 義孝さんから近況報告をいただきました。
  ⇒近況>「S54年卒業熊谷
さん、興村さん近況」

5.皆さまからいただいた近況短信を掲載いたしました。
  ⇒OB会からの報告と近況短信> 近況短信

2022/5/28

1.「2021年度OB会総会開催のお知らせ」を掲載いたしました

  ⇒トップページ>「2021年度OB会総会開催のお知らせ」

2.平成18年卒業の小泉 達彦さんから近況報告をいただきました。

  ⇒近況>「H18年卒小泉さん近況

3.令和3年度OB会費納入者名簿を修正いたしました。

2022/4/22

1.昭和56年卒業の天明 宏之さんから「第38回開成麻布定期戦報告」をいただき
 ました。

  ⇒特集:開成・麻布戦>第38回開成麻布定期戦報告

2.昭和45年卒業の竹内 雄一さんからコロナに関する考察第2弾をいただきました。

  ⇒活躍>「新型コロナウイルスの感染状況についての考察(2)

3.「令和4年度会費納入のお願い」を掲載いたしました。
  ⇒会費納入について>
「令和4年度会費納入のお願い」

4.令和3年度OB会費納入者名簿を更新いたしました。

矢澤さんを想う

副会長 昭和49年卒 老川 知永

先日矢澤さんのご自宅(法真寺)に矢澤さんと中村先生親子のお墓参りに行ってまいりました。ご存じの方も多いと思いますが法真寺さんは中村先生の菩提寺でもあります。現在は矢澤さんのご長男が立派なご住職となっています。その折矢澤さんの奥様と矢澤さんの思い出をいろいろお話しさせていただきました。

実は私が30代前半からしばらくのあいだ目の病におかされたことがありました。半ばヤケになっていた時期、矢澤さんがことあるごとに連絡をくれて「老川大丈夫か?絶対あせるなよ!時間をかけてもしっかり治すんだ!」と何度も励ましていただきました。本当にうれしかったのを覚えています。そこからあきらめずに治療できたのも矢澤さんのおかげだと思っています。

矢澤さん:70年史より抜粋、再掲載

とにかく矢澤さんは魅力たっぷりの方でした。そしてなによりお茶目です。
ご存命中に自宅に伺った時、矢澤さんの自家用車がおいてありナンバーが『193』でした。矢澤さんに「193ってこれなんか意味あるんですか?」と聞きましたら「よくぞ聞いてくれた。俺は坊さんだから一休(いっきゅう)さんにしたんだよ!」といたずらっぽい笑顔をうかべていたのを思い出します。

また超のつく子煩悩な人で、ことあるごとにお子様たちの自慢をされていました。ある宴席でウニが出たときそれをつまみながら「これウーニーちゃん。うちの娘はムーニーちゃん(オムツ)」と言った後「みんな子供は本当にかわいいぞ―!どんどんつくれよ。」と満面の笑顔をされていました。お子様たちをバレー部の夏合宿にもよく連れてこられていました。 

そんな思い出話を奥様としていくうちに当会ホームページの話題になりました。矢澤さんはアーカイブのあちこちに登場しています。そこで私は奥様にお願いしました。「矢澤さんには多くの後輩がお世話になりました。七回忌という節目に矢澤さん追悼集を是非やりたいと思います。ご家族にも慕われていた矢澤さんです。できれば奥様かご家族に『矢澤さんの思い出』を書いていただけないでしょうか?」

そうしたところ「そういうことなら娘が得意なので娘に書かせましょう。」と快くお受けいただきました。その後お嬢さんから連絡を頂き今回の追悼集に『父の七回忌法要に結婚報告を』というとても素敵な文章を書いていただけることになりました。本当に愛される父親だったんですね。
これを読んだ天国の矢澤さんもきっと喜んでいらっしゃると思います。

矢澤さんはご家族はもちろんのこと多くの開成排球部の先輩後輩の心の中にこれからもずっと生き続けていくことでしょう。あの強い正義感、豪快な笑い、人を引き付ける優しさ。唯一無二ではないでしょうか。

編集者注:掲載した矢澤さんのお写真は、お人柄をよく表していると思いましたので、開成バレー部OB70年史から抜粋し、再掲載させていただきました。

 2022年7月掲載

矢澤俊彦さんの特集記事について 

会長 昭和49年卒 松原 秀彰

上記のように同期の老川さんが矢澤さんのお嬢さんの文章をこのホームページに掲載していただけるように動いてくれました。
私としては、せっかくなので、他の記事もいっしょにホームページに載せたいと思い、一つは関さん(昭和54年卒)に頼んで、矢澤さんのお宅(法真寺)を使わせていただいてOB会の作業をさせてもらったことを書いてもらうことにしました。もう一つは矢澤さんの同期の小泉さんが創部70周年史に書かれた文章と写真を転載することにしました。 

矢澤さんは私達の1年上の先輩で、長きに亘ってたいへんお世話になりました。現役の時、私は矢澤さんには勝手なことを言ってずいぶん迷惑をかけたせいだと思いますが、私にとっては厳しい方でした、かなり叱られました。OBになって矢澤さんがこんなに優しい人なんだと思いました。私も何度かお宅にお邪魔したり、また奥様(久子さん)ともご一緒に飲み会などもさせてもらい、私のことを親身になって心配して(私の結婚?など)いただきました。

OB会会長になることに関しても、背中を強く押してくれました。60歳でお亡くなりになってしまい、もっともっとお付き合いさせていただきたかったです。OB会の活動を、関さんなどが若手OBを集めて作業することを支えてくれたことは、ほんとうにありがたいと思っております。 

今回の特集に関して、矢澤さんの想い出を書いてみたいという方、是非、幹事会に連絡を下さい。

父の七回忌法要に結婚報告を

矢澤佑紀子

2016年の春、2週間で退院すると聞いていた父は入院からたった1ヶ月という短い期間で突如いなくなってしまいました。
亡くなる当日、私たち家族は覚悟をする時間を与えられ、母とわたしは容態が急変したらすぐに駆けつけられるよう病院に泊まることが出来ました。
「交代で寝ようね。」そんな決め事をして、母が意識のない父に寄り添い、わたしは別の部屋で仮眠をとりました。それから数時間後、看護師さんから「容態が急変したら鳴らすからそれが鳴ったらすぐに来るように。」と渡されていたブザーの音で目覚め、急いでICUに駆け付けたものの、父の死に目に会うことはできませんでした。今思えば、母のことが大好きだった父はこの世での最期の時間を母と2人きりで過ごしたかったのだろうと思います。

結婚記念日に大好きな赤ワインと
グラスをプレゼント

わたしの父は、とにかく厳格で頑固な昭和親父でした。
「将来はお見合い結婚をしたらいい」「就職なんてしなくていいから花嫁修行をしなさい」「お父さんみたいな人と結婚してほしいな」そんな時代にそぐわない発言をよくしてくる人でした(笑)

とにかくわたしが、幸せな家庭を築き良き妻として良き母として人生を謳歌することを望んでいたのでしょう。わたしは働きたかったので、父の意向に沿うような人生を送る気は微塵もありませんでしたが、交際相手は自分では自覚のないままに父が求めるような人、父に似たところがある人を選んでいました。
父が認めてくれる人と結婚して、実家のお寺で式を挙げ、白無垢姿を父に見せること、いつしかそんなことがわたしの夢になっていました。
父が亡くなった年、わたしは長年付き合っていた彼と別れることにしました。彼とはわたしが25歳になったら結婚すると言う話までしていましたが、25歳の誕生日を迎える5ヶ月前に父が亡くなりました。
父を亡くし、どんなに足掻いてもわたしが夢見ていた姿は実現できないんだ、と思うと急に恋愛にも結婚にも興味が無くなっていきました。
それから6年間、過労で入院通院するほど馬車馬のように働き、寂しさを紛らすことに徹しました。

まだまだ結婚なんて先の話!と思っていましたが、父の七回忌を迎えた今年、仕事でしか紛らわすことが出来なかった寂しさをすっかり忘れさせてくれるような人と婚約することが出来ました。
結局、わたしが旦那に選んだ人は、父のように優しくてボケもツッコミもできる表情豊かな人です。ただ、身長は父より20センチ高く太っていない、というのは似ても似つかないところです(笑)

カメラを向けるとこのポーズ

心臓の手術で入院中、ハロウィンだったので
お見舞いで仮面をプレゼントして喜んでいる様子

ちょっと変わった話にはなりますが、父はわたしに関わる男の人に、必ずといっていいほどよく球の体積の求め方を質問していました。なぜそんな質問をするのか、なぜ球の体積なのかは誰にもわからないのですが、ふとそんな質問をしていたことを思い出し、試しに旦那に聞いてみたところ、すんなり公式を答えた上にさっぱり分かってないわたしに向かって「この公式は証明が難しくてさ」とダラダラ語ってくるような人でした。きっと父が生きていたら、球の体積の話で盛り上がる、と言う異質な時間が生まれていたことでしょう。
こうして父の7回忌というタイミングで、父が気にいるであろう人と婚約結婚ができたことは、今でも父が「ちゃんと見守ってるよ」と言ってくれているようでなんだか嬉しい出来事でした。

近いうちに、実家で仏前式を挙げる予定です。目立ちたがり屋な父はきっと生きていたら座れないようなど真ん中の特等席を陣取って見ててくれると信じて、長年の夢を叶えたいと思います。

今回このように父との思い出を振り返る機会を下さった、老川さん。貴重な機会をありがとうございました! 私事且つ拙文でお恥ずかしい限りですが、父が大好きだった開成バレー部にこうして関わらせていただけたこと、大変嬉しく思います。きっと父も喜んでいると思います。改めて、ありがとうございました。

私のお誕生日に三人でご飯

成人式の前撮りを三人で 兄は仕事で来れず

矢澤先輩にお世話になったこと(法真寺の思い出) 

昭和54年卒 関 茂和

OB会が矢澤先輩にとてもお世話になったことをホームページに書くように松原会長から依頼されましたので、私が関わったことを思い出して綴ることにしました。

矢澤さんには1994年頃から約20年間にわたりOB会の副会長を務めていただき、OB会全体の運営にご尽力いただきました。会報などの作成や郵送などの作業は、1991年までは松原さんが勤務する東大の研究室に集まってやっていたのですが、松原さんがイギリス留学さらには名古屋転居になってしまい、それができなくなりました。矢澤さんが、「うちに来てやっていいよ。」ということになり、矢澤さんのお宅(赤羽の法真寺)にお邪魔して、約20年間の長い期間、たいへんお世話になりました。次のような段取り(順番)で作業をしたと記憶しています。 

・朝10時頃に赤羽駅の改札口に集合
・(中村先生がお亡くなりになった後は)全員で先生のお墓にお参りして庫裏に集合。
・プリントした会報をホチキス止め。印刷屋に製本を頼んでいた時代はこの作業は無し。
・会員毎に、会費納入状況を確認して、会費納入のお願いまたは会費納入済みのお礼の紙を同封。
・その他、幹事会の葉書等あれば一緒に添付。
・封筒に住所シールを添付してのりづけ(最初は手書き)
・出来上がった封筒を赤羽の中央郵便局まで運んで発送(最初の数年は切手貼り、最後の数年は宅配便
 に取りに来てもらって発送)
 

以上の作業を庫裏の一部屋をお借りして、多い時で10人、少ない時で5人程で10時頃から夕方までの間、作業を行っていました。人選は、その時の幹事長(現役の学生または若手OB)に頼んでいます。学生がほとんどです。現幹事のうち、清水君(昭和59年卒)の代以降の学年の人は一度は参加したことがある人が多いかと思います。
他に参加してくれたOB(平成卒以降)で私が覚えているのは、篠田君、神波君、古野君、今井君、鈴木(大)君、鈴木(周)君、川治君、宮君の代、楓君、石岡君、松尾君、森君、浅川君、小泉君、藤井君、松本君、岡田君等です。(スミマセン、還暦過ぎて記憶力が低下しているので適当な羅列です。) そう、川原&米内三兄弟(の一部?)も参加してくれたと思います。

作業の途中、お昼に出前の中華料理を取っていただき、ご馳走になっていました。「喰いたいだけ何頼んでもいいぞ」、という矢澤さんの言葉に甘えて、若手がとてつもない量を注文するので内心ハラハラしていた記憶があります。ただしいつもきれいに完食です。ちなみに、手伝ってくれた若手OBにはOB会から事務費として3,000円~5,000円程度のアルバイト代を支払っていました。

作業終了後、打ち上げに毎回赤羽の街に全員で繰り出していました。(この飲食代はOB会からは出していません。) 最初の数年は矢澤さんに引き連れられてご馳走になった覚えがあります。平成9年頃から、山本純一さん(昭和38年卒)が参加することが何度かあり、宮君前後の卒業したてのOBとたらふく飲んで、二次会に当時赤羽で有名だった大人の社交場(?)に繰り出した覚えがあります。
赤羽の後も、山本さんはホームグラウンド
(錦糸町近辺)に若手OBを引き連れて三次会。外国語の勉強(?)をしていたと聞いています。

平成14~15年頃からは、私が若手を連れて主に白頭山という焼肉屋に行きました。参加されない矢澤さんから、毎回 “軍資金”として「聖徳太子」今は「福沢諭吉」をいただいていました。ここでも、昼飯をあれだけ喰ったのにまだ喰うか、と感心するほど注文していたような覚えがあります。

矢澤さんがお亡くなりになった後も、「是非お使いください」との奥様の言葉に甘えて、何度か庫裏をお借りしてこの作業を続けました。最後は平成27年か28年頃だったと思います。

最近のOB会からの各人への連絡は、一部郵送が残っていますが、ほとんどはメール連絡になりました。みんなで集まって作業するということはしなくて済むようになったわけですが、矢澤さん、山本さん、松原さんらが若手OB(私は中堅?)と集まって一緒に作業したり飲んだりしたことは、今にして思えばとてもOB会らしい活動だったと思います。

長い期間、作業場を提供していただき、またご馳走してもらった矢澤先輩は精神的にも、物理的にもOB会の太い柱でした。個人的な相談も何度かさせていただき大変お世話になりました。あらためて心からお礼申し上げる次第です。

「創部70周年史(平成29年)からの抜粋、再掲載」

故矢澤俊彦君のこと

昭和48年卒 小泉 哲郎

中学、私学大会3位

矢澤とは50年前にお互い新入部員として、中学校舎前のバレーコートで会って以来の付き合いでした。『クリクリとした目で坊主頭が似合うな』と思ったら、それもそのはずお寺の息子。

バレーコートといっても屋外で地面はコンクリート。フライイングレシーブをすると、ユニフォームが破けたり顎を傷つけたり・・。上下の学年の強力な陣容に比べ、僕らは矢澤以外からっきし弱体で歯がゆかったことと思います。 

矢澤のポジションは、中学では9人制の要であるハーフセンター、高校は6人制のセッター、もちろん中高とも頼りになるキャプテンでした。
岩井の合宿でエロ次(失礼。故中村先生)にどんなにしごかれても、当時の全国高校三冠王中大付属との試合で完膚なきまでにやられても、いつも笑顔で僕らを奮い立たせ引っ張ってくれたことを思いだします。 

昨年3月中旬に開成の同級生から『矢澤君が本日肺の手術を受け無事終了。1週間位したら退院』とのメール。3月23日に『すぐに良くなるだろう』と気楽な気持ちで見舞ったので、1時間以上2人でとりとめのない話をしました。
今考えると、彼は最後のつもりで付き合ってくれたのかもしれません。『リハビリ準備だ』と言って、病室から歩いてエレベーターまでいつもの笑顔で見送ってくれました。

4月15日の告別式当日、少し早めに行って彼が住職をしていたお寺(法真寺)のまわりを見て回りました。これだけ付き合っていながら仕事の話はほとんどしなかったので、開山500年近い法真寺の由来を初めて知りました。
式の最後の挨拶でご子息が参列者に対し、『父の底力と温かさに支えられてここまで来た』と話しておられたのが心に残ります。 

通夜の帰りに高校卒業同期6組の何人かで飲んだ時、誰かが『矢澤はみんなのアイドルだった』と言っていました。本当にいるだけで、みんなが明るく楽しくなる奴でした。