本ページでは、お亡くなりになった方々を追悼する文章や偲ぶ文章などを、お亡くなりになった順に掲載しています。

昭和39年卒 石川喜一郎さんご逝去

・昭和39年卒の石川喜一郎さんが令和41217日にお亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。 

 高校からの開成入学は我々の1年上の学年から始まったばかりでした。石川さんはそのクラスの一人で、穏やかな人柄で、小太りの体に人懐こい丸顔で、いつも冗談っぽい話し方をする、人気者でした。卒業以来は一度位しかお会いしていませんが、在学中は同期の者と一緒にお宅まで遊びにいって、そのころはまだ珍しい機械だった「ステレオ」でレコードを聴かせてもらったりしたのが懐かしい思い出です。

宮崎 直樹(昭和39年卒)

昭和31年卒 明渡久和さんご逝去

昭和31年卒の明渡久和さんが令和4年9月8日にお亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

昭和38年卒 山本純一さんご逝去

 山本純一先輩(昭和38年卒)、通称「ハッチャン」あるいは「ハチ」は本年(2021年)1月にお亡くなりになりました。松原と関が、最後に山本先輩にお会いしたのは、平成31511日、ご自宅にお邪魔して、OB会の設立の時期についてお話をお伺いしました。その内容は、本ホームページのアーカイブのところに「OB会の設立の時期について」という記事を掲載してあります。山本先輩のその時のご様子は、とにかく私達の来訪を大歓迎してくれたこと、OB会に関する段ボールいっぱいの資料を私達に見せてくれたこと、それらをいったん松原が預かってホームページにできるだけ掲載して欲しいと頼まれたこと、そして松原が持参した仙台のお酒と笹かまぼこで楽しく談笑しました。確かその後、幹事会があるのでお名残り惜しく失礼しました。

 山本先輩のこれまでのOB会への貢献は絶大です。どれだけ多くのOBが山本先輩の激励を受けたり、またご馳走してもらったか、数えきれない多さです。何より、山本先輩はこの開成バレー部OB会を心底愛してくれていたと思います。そこで、それらに対する感謝の意を込めて「山本純一氏追悼文集」を企画することにしました。そして、まず山本先輩と同期である芥川先輩に寄稿文をお願いしました。芥川先輩から原稿をいただきましたので、まずそれをホームページに掲載させていただきます。そして、他のOBの方々から是非、山本先輩の想い出話を追悼文集にお寄せいただきたいと思います。麻布学園の同期の嶋田先輩にも芥川先輩の後にすぐ書いていただけることを承っています。松原も、山本先輩から貸していただいた膨大な資料の中から、何か山本先輩らしいものを見つけてホームページに載せて行きたいと思います。多くの皆様からの寄稿をお待ちしております。

松原 秀彰(昭和49年卒)、関 茂和(昭和54年卒)

20217月掲載

山本純一先輩 追悼の辞 

昭和39年卒 宮崎 直樹 

今年の3月、市川市東菅野の山本純一先輩のお宅のあった場所にお伺いしてみた。住宅地の中の正方形に近い一軒分の敷地が、何もないきれいな赤土の更地になって、茫然とたたずむ私の前に静かに広がっていた。隣家の軒先の樹脂波板の一部が溶融し、溶け落ちて、火事と言う思いがけない事故の名残をとどめていた。

山本先輩は誰に別れを告げることもなく、突然世を去ってしまいました。

私の実家は同じ町内の10分とかからぬところにあり、今は弟一家が住んでいますが、私は開成時代はそこから、学校に通いました。

芥川先輩の書かれた追悼文にもありますように、今からもう60年前になりますが、開成バレー部のチームメートの中で、市川や船橋から総武線で秋葉原に出て、田端まで通う山本先輩を中心とする数人のグループの中に私も加わらせてもらい、高度成長期に向かう世の中のどこまでも明るい未来を体感しながら、練習帰りの満員電車の中で語りあった日々を懐かしく思い出します。 

開成バレー部で山本先輩たちの、昭和38年卒の年代は中学も高校も、ともかく強かった。従って我々39年卒のチームは新チームになるたびにやっていけるのだろうか、と不安になったものです。そのころは(今でもそうだろうが)2学年くらいにわたってレギュラーメンバーが組まれ、9人制において私のポジションは主にバックライトであり、ハーフライトの一人をおいて、その先にエースアタッカーのフォワードライトの山本先輩の大きな姿が見えていることが多かった。

試合に於いて劣勢となり、タイムをとって中村先生が山本先輩らのフォワード陣に、「なぜブロックできないのだ! 出来ないはずはないだろう!見事ブロックしてみろ!!」と声を枯らして檄を飛ばす。プレーが再開され、直後にそれまでどうしても止められなかった相手のエーススパイカーの猛スパイクを見事にシャットアウトし、高らかに雄たけびを上げる「ハチ」の姿に、相手チームは、はた目にも明らかなほど戦意喪失し、そのまま逆転してそのセットを開成がとる姿を何度見てきたことか。

現代のゲームでもよくある情景かもしれない。でもブロック(当時はストップと呼ばれていた)の際のオーバーネットはまだ認められていない時代である。簡単ではないことを、分かって欲しい。

私は多感な十代に文字通り、山本先輩の背中を見て育ち、バレーボールとはこういうものだ、と無意識のうちに叩き込まれていたと思う。山本先輩は部活動において先輩達にはきちんと礼をつくして、我々のお手本となり、厳しく指導してくれた。そして、それ以上に、後輩の面倒を見ることを、生涯を通じて、実践してきた。OB会の際も、特にその後の懇親会においては、上着を脱ぎ棄て、白いワイシャツの袖をまくり上げ、後輩たちのグループの輪の中に飛び込み、肩を抱き、口角泡をとばして、話しまくった。

これは特にどの年度に対して、と言うことは全く無く、すべての年度の新しいメンバーに出会うたびに、おそらく最近まで、数十年にわたって続けられてきた。

もし開成バレー部が厳しい上下関係のもと、仲の悪い学年同士があったりしても猛練習の甲斐あって奇跡の全国制覇を成し遂げた場合と、先輩や上級生が後輩、下級生の面倒をよくみて、上級生、下級生の仲の良いクラブである場合(今みたいに。)と、山本先輩はどちらをよしとしたであろうか。答えは火を見るより明らかです。上級生が下級生の中に溶け込もうとしない部活動、タテの関係の希薄な部活動はいくら強くても意味が無い、と心から思っているはずです。

同時に、中学、高校時代の部活動はこうあるべきだ、という信念を明確に持って、それを実践してきました。バレーは人気スポーツだからといってただ健康の為のりクレーション、同好会では意味が無い、と。

勉強や受験と両立させながら、毎年メンバーが入れ替わり、人数も減ることに悩みながら、開成の名前を背負ってコートに立つ以上、強くなければならない。そのような部活動であり続けることを、山本先輩は我々に教え、要求し、後輩たちに伝え続けてきました。

中村先生はしばしば言っていました。「ハチよ、先生になれ。」教師か講師として開成の教壇に立つ姿を見たかったのは私だけではないでしょう。

 私は私的なことでも、山本先輩に大変お世話になった。もし今、山本先輩にお会いしたら、「おう、宮崎。なにやってるんだ。しっかりしろよ。」と豪快に笑い飛ばされるのだろうか。いや、山本先輩は絶対にそんなことは言わない。きっと「おう、久しぶりだな、その後どうしてた、」とにこやかに語り掛けてくれるだろう。そして「. . . .そうか、いろいろ大変だな。」と親身に話を聞いてくれるであろう。私にとって山本先輩はそういう人です。そしておそらく、誰に対しても。 

開成バレー部とOB会は開成のクラブの中で、もっとも上級生と下級生の仲が良く、先輩が後輩の面倒を見る、タテの絆の強いクラブの一つだと思います。このようなクラブに山本先輩が作り上げてくれたのです。 

山本純一先輩、心から申し上げます。有難うございました。 

          2021年10月9日(土)

                                    2021年11月掲載

我(我々?)の青春時代に多大なる影響を頂いた山本純一先輩を偲んで

平成8年卒 鈴木 周

喜怒哀楽・・・

 

山本先輩を語るにはこれほどふさわしい言葉がありますでしょうか。中途半端を知らず、人間であるがゆえの理性というものに邪魔されることのない、常に極限まで喜怒哀楽を振り切って表現する唯一無二の存在(…あくまでも私の所感ですが、皆様はどうでしょう)、それが山本先輩でした。

 

喜・・・。

感情に任せて恥ずかしがることなく素直に喜びを表現する。

山本先輩自身のことというよりは、開成バレー部の後輩である我々の生活の中にある喜びに対して公私に関わらず自分のことのように真剣に喜んでくれる方でした。練習で何かを学び取ったとき、試合に勝った時、就職した時、彼女ができた時、結婚した時、子供ができた時…、山本先輩は何故かいつも傍で真剣な眼差し(ちょっと怖いくらいの目力でしたが…)で自分事のように話を聞き、私たち自身よりもはしゃいで喜んでくれました。

 

怒・・・。

確かに怒ると相当恐い。

OBの皆様も“山本先輩は恐い“というイメージを持っていらっしゃる方が多いと思います。新宿の繁華街では、山本先輩が歩くとモーゼの十戒のように道が開けたことは否定しません(笑)。ですが、山本先輩は決して一生懸命取り組んでいる相手に対しては怒ることがなかったように思います。自分が真剣であるがゆえに、他人の中途半端な姿勢が許せないという気持ちを素直に表す方だったのだと思います。私も何度か怒られたことがありますが、いつも結局は自分の行動に対する気持ちの甘さを痛感させられることが多かったような気がします。

 

哀・・・。

彼が流す涙は真剣そのもの。

私は山本先輩の涙を何回か拝見しました。いずれも開成バレー部の練習や試合の後で、「開成バレー部を強くするには?」「開成バレー部の部員を本気にさせるには?」というテーマで夜通し語り合い、現役が試合に負けたことへの悔しさや、開成バレー部がOBを含めて本気で取り組んでいないことへの口惜しさを本気で悲しむ姿でした。我々は山本先輩の開成バレー部への真剣な姿勢を目の当たりにする中で、OBとしてできることをしなければならないという気持ちにさせられていた気がします。

 

楽・・・。

ここについては、開成バレー部からは少し離れてしまいますし、詳しくは語れないことが多いので、詳しくは割愛しますが、とにかく山本先輩には色々な裏の世界を教えていただきましたし、その世界の中でも常に子供のように楽しむ姿はすごく印象的でした。

 

今思えば、あんな大先輩が20代そこそこの若造の我々に公私ともに真正面から接してくれたことは、本当に感謝しかありません。当時は、まっすぐな眼差しで「周、どう思う?俺ほんとに頭悪いからわからないんだけど、俺が言っていることって正しい?」と問いかけてくると、自分も真剣に考えなきゃと緊張が走る毎日でしたが、青春時代の真っ只中、あのまっすぐな生き方の傍らでご一緒させて頂いたことは、その後の経験にすごく活かされているような気がします。本当に感謝しかないです。ありがとうございました!色々と勉強になりました!超楽しかったです!

 

ご冥福をお祈りいたします。

2021年11月掲載

旧友 山本さん 

麻布学園 昭和38年卒 嶋田 駿太郎

今年の2月末、開成学園バレーボール部OBHPへの寄稿文原稿をお送りしたところ松原開成OB会長から私と同期の山本純一さんの訃報をお聞きしました。

正月4日、火事による不慮の死とのこと。

今年もいつもと変りなく年賀状を頂いていたのに・・信じ難いことでした。

我々も陰では「ハッチャン」とも呼ばせて頂いた山本さんとこの様なお別れをするとは思いがけないことでしたが、その出会いもやはり印象深いものでした。

中学の当時、私は九人制のFCでした。眼前、至近距離で出合い頭にあの気合を浴びた、まさに衝撃的な出会いは忘れ難いものでありました。

その後時が経ちOBとして再会し、開成・麻布定期戦が始まってからはほぼ毎年顔を合わせるようになりました。

私の会社のある渋谷までわざわざ出向かれて夜遅くまで酒を酌み交わしたこともありましたが、基本的には年に一度の交流・・・・でも、中学で出会い、好敵手としてしのぎを削り、バレーボールきちがいが故に無条件に信頼できる、表も裏もなく付き合える同期の仲間、まさに得難い旧友の一人でありました。

これまで「山本さん居るかな、来るのかな」と思いながら定期戦に出かけたものでしたがそれも叶わなくなってしまいました。

麻布バレーボール部同期の故大堀君が生前に言った言葉・・「減ることはあっても増えることのない旧友を大事にしたい」が心に沁みます。

今はただご冥福を祈るのみです。「山本さん、ハッチャン、どうぞ安らかに」

                                     2021年8月掲載

山本純一先輩の写真集

昭和49年卒 松原 秀彰

 山本純一先輩から、ホームページ掲載のために預かった大量の書類から、いくつかの写真を取り上げてみました。

 中学時代、高校時代、OB時代と、山本先輩が我がバレー部をいかに過ごされてきたかが、垣間見える写真だと思います。

 それぞれの写真に簡単なコメントをつけておきましたが、もっと詳しいことが分かる方は、是非、その説明文を幹事会までお寄せ下さい。

                                     2021年8月掲載

   上は山本純一先輩が中学の頃の写真。昭和34年。みんな初々しい(可愛い?)です。

下は三校リーグ(麻布)、昭和36年。

山本純一先輩が高校を卒業直後の写真。     上は中村先生のお葬式の時の記念写真のようです。
昭和39年。みんなほんと若々しい。       下は、同年代の方々との記念写真ですね。

山本純一先輩が若手のOBと豪遊(?)しているときの写真のようです。みんな、楽しそう! 

これも、山本純一先輩が若手OBと飲み会をしているときの写真と思われます。右は、カラオケでしょうか。ただ、左の写真のおどけた様子とは違って、何か悲しい演歌でも歌っているような表情ですね。             

掲載山本純一君(愛称:ハッチャン)を偲んで

昭和38年卒 芥川 修

山本純一君 … 彼からの電話の第一声はいつも「ハチですー!」と、何やらはにかんだ顔を連想させるような調子の声で、自らを愛称の「ハチ」と名乗ったあの声を突然聴く事が出来なくなった。嘘であってほしい現実を未だ信じていないと言う同期の友もいる。

「ハチ」…彼の愛称の由来は当時(昭和30年代)のプロ野球東映フライヤーズ(現日本ハム)の人気捕手として活躍していた山本八郎選手に因んで付けられたものだが、山本八郎選手は稀代の暴れん坊として名をはせており、普段礼儀正しいがけんかっ早く、個性派、暴れん坊で名が知られていて「ケンカはち」「ケンカ八郎」のニックネームで多くのファンを集めていた。

中学3年の夏合宿時、高校の先輩達の誰かは定かでないが、少々気が短くてカッとしやすい中学のキャプテンだった彼に付けた愛称だった。多分指導する先輩達も彼の気迫にてこずっていたのだろう。最初「俺は乱暴者じゃない!」と反発していた彼も、やがて観念したのか自分から「ハチ」と名乗るようになって行った。同時に後輩たちは親しみを持って「ハッチャン」と呼ぶようになった。

私は彼と開成中学入学1年生時同じクラスで、お互い背格好が似ており、同じ市川市内の出身だった為か自然と行動を共にする存在となったが、最初から妙に人懐っこく積極的で、私としては初めて出会った人種で正直ちょっと苦手な感じではあった。

中学2年のバレーボールの授業で〝ヘルシンキオリンピック銀・銅メダリストの上迫忠夫先生″におだてられて?彼を含む何人かの仲間と一緒にバレー部に入部したが、楽しい部活動の意識しかなかったと思われる我々他の部員と比べて、(ハチ)はバレーに関しては実に生真面目で、自然とチームの中心的存在になって行った。

彼のプレースタイルは、常に肩を怒らせて口先をとんがらせ、大声を張り上げてチームを鼓舞し、相手にプレッシャーをかける姿に象徴されるように、試合中彼の声が聞こえないことはなかった。少々オーバーネット気味なのが気になったが、フォワードライトの位置で角度鋭いカミソリパンチが売りの切り込み隊長であった。

彼が更なる真価を発揮したのは中学3年になって監督が上迫先生から新任の中村博次先生に代わってからと言えるだろう。突然練習内容が厳しくなった上、部員全員が頻繁に体育教官室に呼ばれるようになり、色々と問題が投げかけられるようになったが、(ハチ)が常に中村先生の矢面に立ち、我々は彼の後ろで首をすくめて嵐が過ぎ去るのを待つという構図が日常となった。 (ハチ)申し訳なかった…!

しかし、現役時代ファイトあふれる姿でチームを引っ張っていた(ハチ)だが、彼の本当の価値は卒業後の姿にあると私は思う。開成バレー部草創以来の先輩諸氏に礼を尽くす姿勢は当然の事ながら、「俺は開成を卒業したんじゃなくて、開成バレー部を卒業したんだ!」と公言し、卒業後も長い間OBとして部の面倒を見続けた姿に頭が下がる。

開成バレー部70年史を読むと、卒業後30年以上たっても合宿等に度々顔を出した怖い先輩(ハッチャン)の思い出が何件も綴られている。そのスパルタ的指導ぶりは現代では少々問題になるかもしれないが…「名物OB」として親しまれ、厳しい指導が良き思い出として書かれているものばかりである。

きつい練習を課した(ハチ)だが、普段は親身になって相談にも乗り、面倒見の良さに恩恵を受けた後輩も多いと思う。OB会後彼と一緒に帰宅する電車の中で、指導した多くの後輩達のその後の社会での活躍等について嬉しそうに語る(ハチ)の姿に思わず笑みが出てしまう自分がいた。(ハチ)は単にバレーボールが好きと言うよりは、開成バレー部を愛しているんだといつも思えたものである。

開成バレー部の歴史の中に彼が残した足跡は実に長きに渡り、その功績は比類なく大きい。これからは「伝説のOB:ハッチャン」として語り継がれて行くと思う。

 合掌。

                                     2021年7月掲載

          訃報 伊藤清一先生ご逝去 

OB会名誉顧問の伊藤清一先生が、令和311日にお亡くなりになりました。この悲しい知らせは当OB会には、開成バレー部の現役生徒のお母さまからお寄せいただき、また私と同期(昭和49年卒)の柔道部のOB、そして本OB会員の後閑先輩(昭和47年卒)からもご連絡をいただきました。

私が現役の頃、中村先生に呼び出されて体育教官室に入ったとき、伊藤先生の優しい表情に接したことをよく覚えています。また、本年、OB総会の資料を郵便でお送りしたことについての返信のはがきをいただきました。昨年6月に先生が書かれた文面を載せましたので、是非皆さまにも読んでいただきたいと思います。開成バレーボール部OB会として、伊藤先生の当OB会へのご貢献を心から感謝いたしますとともに、在りし日の伊藤先生のお姿を偲びつつ、ご冥福をお祈りいたします。

 

令和31月 松原秀彰(会長)

           昭和49年卒 故岡本氏を偲ぶ会

【昭和49卒 故岡本君を偲ぶ会開催】

2020年118()2019年に亡くなった同期の岡本君を偲ぶ会開催しました。
テーブル奥に岡本君の遺影を飾り、昔の写真や資料を見ながら懐かしみました。
【同期14名出席】

2020年7月掲載

 

              岡本洋君を偲ぶ

昭和49年卒 堀口 健一

 岡本さんとバレー部関係のことは皆さんが書くでしょうからバレー以外のことを。

 私は1987年から1994年までロスアンゼルスに赴任していたのですが、岡本さんは同時期にノースカロライナ州のシャーロッテに転勤してきて、同じ家族帯同の米国勤務という境遇で、会社への不満や米国生活の苦労、家族の悩み等、けっこう頻繁にやり取りし、岡本さんも辛い立場だったでしょうけれど、ひたすら私の立場を慮って聞き手に回ってくれ、それが当時の私にとって大きな支えになっていました。「道灌山の坂ダッシュ10本の後のバレーコートうさぎ跳び2周を思い出せばどうってことないじゃん」。改めて岡本さんのユーモアと誠実さに感謝です。

 もっと若い時ですが、ひときわ鮮明な思い出は、岡本さん、清水さん、丹治さんと堀口の四人で高校2年の春休みに四国一周旅行を決行したことです。誰が言い出したのか、なぜこのメンバーになったのか等記憶がさっぱりないのですが(清水さん、丹治さん、もしおじいさんの記憶が間違っていたら訂正・追加してください。すみません)、バレー仲間で一番気の置けない人たちだったのだと自分では思っています。約一週間、周遊券等を使って宇高連絡船、鳴門の渦潮、かずら橋、室戸岬、桂浜、足摺岬と貧乏旅行。

 なかでも、岡本さんが祖谷渓国の民宿で出された手打ちの十割蕎麦を「まずい、ゴムみたいだ」と言いながら淡々とたいらげたこと、ちょうど四人なのに麻雀もせず、夜遅くまでしゃべって少し酒を飲んで、私は高校生レベルの幼い猥談にはしゃいでいたのに、岡本さんは「むふふ」とむっつりなんとかの笑いで応えていたのが印象的でした。今思えばmatureな、いっしょにいて心から寛げるともだちでした。

 岡本さんとは個人的に約束したことがあって、その後病気や諸々の事情があって話せないままになってしまったのですが、きっと自分はその約束を最後まで守っていくと思います。

ご冥福をお祈りします。

2021年11月掲載

              岡本洋君の想い出

昭和49年卒 松原 秀彰 

私達の学年同期の岡本洋君は、2019年春、この世を去ってしまった。バレー部同期で偲ぶ会をした写真はホームページに掲載したが、山本純一先輩の追悼文特集を読んでいるうちに、無性に岡本君の想い出を書きたくなった。

まず開成時代の彼のバレーボールのプレーについて書く。彼は中学時代、セッターでレギュラーだった。9人制ではフォワードセンターである。オーバーもアンダーもパスは基本に忠実だったと思う。私は彼のトスは打ちやすかった。サーブは高い弾道で変化(振動)の多い、レシーブしにくい球を打っていた。

中学時代の彼らしい話を二つほど紹介する。バレー部の仲間として打ち解けてきた頃(中2か中3)、私は昼休みに岡本君のいるクラスの部屋に遊びに行ったときのことである。彼は、顔の頬を両手で抑えてうずくまっていた。「どうしたんだ」、「S君にぶたれた」、「どうして」、真っ赤に腫れあがってとても痛そうな顔をしかめながら、「パンを食べたあとの袋をベランダから投げたら、S君にたたかれた」。S君は当時確か風紀委員長か何かで、しかも柔道部である、力の入ったビンタは、それはそれは痛かっただろう。私は岡本君に同情するというか、そこ(ビンタ)までしなくても良いのではと思ったが、岡本君はそのきつーいお仕置きを、多少腹は立っていたと思うがじっとこらえて受け入れているようであった。もう一つの話も普段の学校生活のエピソードである。岡本君の家は小平(当時は都内に対して都外とか都下といっていたような?)で、私は中村橋(練馬区)で、一緒に山の手線で帰ることが多かった。私達が話しているとK君(確か上石神井)が寄ってきて、岡本君のことををからかうのである。内容は、「小平なんてほんとド田舎かだようなあ、人住んでるの、スーパーあるの・・・」、ひどいつっこみである。岡本君はたまに反論というか、内容は思い出せないが、気の利いた反抗をタイミング良くするのである、「小平はいいところだよ~・・・」って感じで。二人の会話は本当に傑作な漫才になっていて、私は電車の中で人目を気にせずゲラゲラ笑っていたし、周りの赤の他人もおかしいと思っていたに違いない。岡本君は、いろんな人とのつきあい、とくに個性の強い奴からのつっこみを非常に巧みに、しかもおかしくかわしていく性格(特技)をもっていたと思う。小平の家には仲間と泊めてもらったことがあるが、とても都会的な街並みと、素敵なおうちで、ご両親、お姉さん、お兄さんにもお会いできて、優しくて穏やかなご家族であったことをよく覚えている。

岡本君と私は高2、高3と一緒のクラスとなり、彼は安定して良い成績をとっていて、現役で東大文2に合格し、そして東大のバレー部に入った。私は1浪して東大に入り、かなり迷ったあげく、バレー部に入って、岡本君を「岡本さん」と呼ばねばならない状況になった。とは言っても、二人になったときは「岡本」と呼び捨てだったが。東大バレー部は確か当時4部でそれなりに強く、バレーの上手い選手が揃っていて、岡本君も私もレギュラーにはなれなかった。彼はセッターとしてレギュラー入りを目指していて、彼に頼まれてクラブの時間以外に彼のセッターの練習を頻繁(ほぼ毎日?)に手伝った。1年間、彼とともにどっぷりと大学のバレーの生活につかった。春秋リーグ戦、七帝戦、遠征、合宿、練習(+α)とほぼ毎日、彼と過ごしていたと思う。しかし、私は決心して東大バレー部をやめることにし、彼に「あとは頼む」みたいなことを告げたように記憶している。彼は、4年間、立派に東大バレー部を続け大学を卒業した。

時を遡ってしまうが、岡本君の想い出で、どうしても忘れられないことがある。たしか高校卒業時(3月?)の開成バレー部の合宿に彼も私もあと何人かの同期も参加したとき、たいへんな事件が起こってしまった。「コンビーフ缶事件」と私たちは呼んでいるが、OBなり立てで、はしゃいで、たぶん飲酒して、布団に入って、消灯して、寝静まった頃、岡本君が、「いてー!」と叫んで、電気をつけたところ、コンビーフの空き缶のひっくり返っているものを、彼が踏んでしまい、切れた足(かかと)から血が大量に出ているのである。みんな飛び起きて、応急処置(タオルでぐるぐるまきに)して、救急車を呼んで病院に駆け込んだのである。彼は、包帯で覆われた足をかばいながら帰ってきて、みんな少しほっとしたが、ほんとにたいへんな事件であった。この話は、同期の集まりでは決まって話題になる。

大学時代、私が実家(仙台)に帰るとき、岡本君もついてきて、二人で三陸を旅行した。私もはじめてだったので、三陸の海と山と島の景色と、魚介類の美味しさを二人で堪能した。泊ったのは安い民宿だったが、そこでオーナーと食事の後も少し長く話して部屋に帰って、また二人で話した。ある時、「松原って、地元の人の言ってること、ちゃんと分かっているんだね」と感心されたことがある。民宿のオーナーは都会から来た客と分かっているので、方言はほとんど使っていないのだが、どうもアクセントで彼にはさっぱり分からないみたいだった。「わかんない場合は聞きなおしていいんだよ」と言ったが、どうも彼はその場を乱すのや、相手に失礼だと思うのか、「わからないままでいいよ」という対応だった。これも彼らしい一面であったと思う。

彼は大学を卒業して就職、私は4年生で文京区のアパートにいたが、急に彼から連絡がきて、「そろそろ親元を離れて一人暮らしをしたいので住まい探すのを手伝って欲しい、文京区がいい」ということで、私のアパートから歩いていける場所に適当なアパート(私より高級)が見つかり、引っ越しも手伝って、彼の一人暮らしが始まった。彼はうきうきしていたように思う。たまに二人で夕食や飲み会をした。ある時は、『合コン』をした。女性に「松原さんはいつまで学生でいるの」と、しっかり就職した岡本君と比較されてしまった。彼は、「こいつは勉強が好きでたぶん大学院にいくんじゃないかなあ」と、かえって私の立場を苦しくするコメントをされたような気がする。彼らしいフォローだったかもしれない。

彼の風貌について書く。中学の坊主頭のとき、頭の形でからかわれていた。頭の先がとんがっているとか、三角形とか、あと頭の後ろも出っ張っていた。実は、私も四角形とか絶壁とかでからかわれたので、岡本君がからかわれているとき、次にはこっちに回ってくるといやだな、と思っていた。彼のもう一つの風貌のポイントは、就職後にはやした鼻の下の髭である。「どうして髭をはやすことにしたの」「これまでの顔(髭なし)では目立たないから、髭でもはやして少し個性をだそうと思って」「はあ~」なんて会話をしたと思う。彼の顔は男前だったと思う、高橋幸治に少し似ていたと思う。でも髭はあまり似合っていなかったと私は思う。まあ、彼の価値観の変遷の一つであろう。

最後に岡本君と心の中でやり取りをしたい。「君はあの世に先に行ってしまったが、私もそのうち行くので、また一緒に遊んでくれ。」「いいよ!」って言ってくれるだろう。

2021年11月掲載

矢澤さんを想う

副会長 昭和49年卒 老川 知永

先日矢澤さんのご自宅(法真寺)に矢澤さんと中村先生親子のお墓参りに行ってまいりました。ご存じの方も多いと思いますが法真寺さんは中村先生の菩提寺でもあります。現在は矢澤さんのご長男が立派なご住職となっています。その折矢澤さんの奥様と矢澤さんの思い出をいろいろお話しさせていただきました。

実は私が30代前半からしばらくのあいだ目の病におかされたことがありました。半ばヤケになっていた時期、矢澤さんがことあるごとに連絡をくれて「老川大丈夫か?絶対あせるなよ!時間をかけてもしっかり治すんだ!」と何度も励ましていただきました。本当にうれしかったのを覚えています。そこからあきらめずに治療できたのも矢澤さんのおかげだと思っています。

とにかく矢澤さんは魅力たっぷりの方でした。そしてなによりお茶目です。
ご存命中に自宅に伺った時、矢澤さんの自家用車がおいてありナンバーが『193』でした。矢澤さんに「193ってこれなんか意味あるんですか?」と聞きましたら「よくぞ聞いてくれた。俺は坊さんだから一休(いっきゅう)さんにしたんだよ!」といたずらっぽい笑顔をうかべていたのを思い出します。

また超のつく子煩悩な人で、ことあるごとにお子様たちの自慢をされていました。ある宴席でウニが出たときそれをつまみながら「これウーニーちゃん。うちの娘はムーニーちゃん(オムツ)」と言った後「みんな子供は本当にかわいいぞ―!どんどんつくれよ。」と満面の笑顔をされていました。お子様たちをバレー部の夏合宿にもよく連れてこられていました。 

そんな思い出話を奥様としていくうちに当会ホームページの話題になりました。矢澤さんはアーカイブのあちこちに登場しています。そこで私は奥様にお願いしました。「矢澤さんには多くの後輩がお世話になりました。七回忌という節目に矢澤さん追悼集を是非やりたいと思います。ご家族にも慕われていた矢澤さんです。できれば奥様かご家族に『矢澤さんの思い出』を書いていただけないでしょうか?」

そうしたところ「そういうことなら娘が得意なので娘に書かせましょう。」と快くお受けいただきました。その後お嬢さんから連絡を頂き今回の追悼集に『父の七回忌法要に結婚報告を』というとても素敵な文章を書いていただけることになりました。本当に愛される父親だったんですね。
これを読んだ天国の矢澤さんもきっと喜んでいらっしゃると思います。

矢澤さんはご家族はもちろんのこと多くの開成排球部の先輩後輩の心の中にこれからもずっと生き続けていくことでしょう。あの強い正義感、豪快な笑い、人を引き付ける優しさ。唯一無二ではないでしょうか。

編集者注:掲載した矢澤さんのお写真は、お人柄をよく表していると思いましたので、開成バレー部OB70年史から抜粋し、再掲載させていただきました。

 2022年7月掲載

矢澤俊彦さんの特集記事について 

会長 昭和49年卒 松原 秀彰

上記のように同期の老川さんが矢澤さんのお嬢さんの文章をこのホームページに掲載していただけるように動いてくれました。
私としては、せっかくなので、他の記事もいっしょにホームページに載せたいと思い、一つは関さん(昭和54年卒)に頼んで、矢澤さんのお宅(法真寺)を使わせていただいてOB会の作業をさせてもらったことを書いてもらうことにしました。もう一つは矢澤さんの同期の小泉さんが創部70周年史に書かれた文章と写真を転載することにしました。 

矢澤さんは私達の1年上の先輩で、長きに亘ってたいへんお世話になりました。現役の時、私は矢澤さんには勝手なことを言ってずいぶん迷惑をかけたせいだと思いますが、私にとっては厳しい方でした、かなり叱られました。OBになって矢澤さんがこんなに優しい人なんだと思いました。私も何度かお宅にお邪魔したり、また奥様(久子さん)ともご一緒に飲み会などもさせてもらい、私のことを親身になって心配して(私の結婚?など)いただきました。

OB会会長になることに関しても、背中を強く押してくれました。60歳でお亡くなりになってしまい、もっともっとお付き合いさせていただきたかったです。OB会の活動を、関さんなどが若手OBを集めて作業することを支えてくれたことは、ほんとうにありがたいと思っております。 

今回の特集に関して、矢澤さんの想い出を書いてみたいという方、是非、幹事会に連絡を下さい。

父の七回忌法要に結婚報告を

矢澤佑紀子

2016年の春、2週間で退院すると聞いていた父は入院からたった1ヶ月という短い期間で突如いなくなってしまいました。
亡くなる当日、私たち家族は覚悟をする時間を与えられ、母とわたしは容態が急変したらすぐに駆けつけられるよう病院に泊まることが出来ました。
「交代で寝ようね。」そんな決め事をして、母が意識のない父に寄り添い、わたしは別の部屋で仮眠をとりました。それから数時間後、看護師さんから「容態が急変したら鳴らすからそれが鳴ったらすぐに来るように。」と渡されていたブザーの音で目覚め、急いでICUに駆け付けたものの、父の死に目に会うことはできませんでした。今思えば、母のことが大好きだった父はこの世での最期の時間を母と2人きりで過ごしたかったのだろうと思います。

結婚記念日に大好きな赤ワインと
グラスをプレゼント

わたしの父は、とにかく厳格で頑固な昭和親父でした。
「将来はお見合い結婚をしたらいい」「就職なんてしなくていいから花嫁修行をしなさい」「お父さんみたいな人と結婚してほしいな」そんな時代にそぐわない発言をよくしてくる人でした(笑)

とにかくわたしが、幸せな家庭を築き良き妻として良き母として人生を謳歌することを望んでいたのでしょう。わたしは働きたかったので、父の意向に沿うような人生を送る気は微塵もありませんでしたが、交際相手は自分では自覚のないままに父が求めるような人、父に似たところがある人を選んでいました。
父が認めてくれる人と結婚して、実家のお寺で式を挙げ、白無垢姿を父に見せること、いつしかそんなことがわたしの夢になっていました。
父が亡くなった年、わたしは長年付き合っていた彼と別れることにしました。彼とはわたしが25歳になったら結婚すると言う話までしていましたが、25歳の誕生日を迎える5ヶ月前に父が亡くなりました。
父を亡くし、どんなに足掻いてもわたしが夢見ていた姿は実現できないんだ、と思うと急に恋愛にも結婚にも興味が無くなっていきました。
それから6年間、過労で入院通院するほど馬車馬のように働き、寂しさを紛らすことに徹しました。

まだまだ結婚なんて先の話!と思っていましたが、父の七回忌を迎えた今年、仕事でしか紛らわすことが出来なかった寂しさをすっかり忘れさせてくれるような人と婚約することが出来ました。
結局、わたしが旦那に選んだ人は、父のように優しくてボケもツッコミもできる表情豊かな人です。ただ、身長は父より20センチ高く太っていない、というのは似ても似つかないところです(笑)

カメラを向けるとこのポーズ

心臓の手術で入院中、ハロウィンだったので
お見舞いで仮面をプレゼントして喜んでいる様子

ちょっと変わった話にはなりますが、父はわたしに関わる男の人に、必ずといっていいほどよく球の体積の求め方を質問していました。なぜそんな質問をするのか、なぜ球の体積なのかは誰にもわからないのですが、ふとそんな質問をしていたことを思い出し、試しに旦那に聞いてみたところ、すんなり公式を答えた上にさっぱり分かってないわたしに向かって「この公式は証明が難しくてさ」とダラダラ語ってくるような人でした。きっと父が生きていたら、球の体積の話で盛り上がる、と言う異質な時間が生まれていたことでしょう。
こうして父の7回忌というタイミングで、父が気にいるであろう人と婚約結婚ができたことは、今でも父が「ちゃんと見守ってるよ」と言ってくれているようでなんだか嬉しい出来事でした。

近いうちに、実家で仏前式を挙げる予定です。目立ちたがり屋な父はきっと生きていたら座れないようなど真ん中の特等席を陣取って見ててくれると信じて、長年の夢を叶えたいと思います。

今回このように父との思い出を振り返る機会を下さった、老川さん。貴重な機会をありがとうございました! 私事且つ拙文でお恥ずかしい限りですが、父が大好きだった開成バレー部にこうして関わらせていただけたこと、大変嬉しく思います。きっと父も喜んでいると思います。改めて、ありがとうございました。

私のお誕生日に三人でご飯

成人式の前撮りを三人で 兄は仕事で来れず

矢澤先輩にお世話になったこと(法真寺の思い出) 

昭和54年卒 関 茂和

OB会が矢澤先輩にとてもお世話になったことをホームページに書くように松原会長から依頼されましたので、私が関わったことを思い出して綴ることにしました。

矢澤さんには1994年頃から約20年間にわたりOB会の副会長を務めていただき、OB会全体の運営にご尽力いただきました。会報などの作成や郵送などの作業は、1991年までは松原さんが勤務する東大の研究室に集まってやっていたのですが、松原さんがイギリス留学さらには名古屋転居になってしまい、それができなくなりました。矢澤さんが、「うちに来てやっていいよ。」ということになり、矢澤さんのお宅(赤羽の法真寺)にお邪魔して、約20年間の長い期間、たいへんお世話になりました。次のような段取り(順番)で作業をしたと記憶しています。 

・朝10時頃に赤羽駅の改札口に集合
・(中村先生がお亡くなりになった後は)全員で先生のお墓にお参りして庫裏に集合。
・プリントした会報をホチキス止め。印刷屋に製本を頼んでいた時代はこの作業は無し。
・会員毎に、会費納入状況を確認して、会費納入のお願いまたは会費納入済みのお礼の紙を同封。
・その他、幹事会の葉書等あれば一緒に添付。
・封筒に住所シールを添付してのりづけ(最初は手書き)
・出来上がった封筒を赤羽の中央郵便局まで運んで発送(最初の数年は切手貼り、最後の数年は宅配便
 に取りに来てもらって発送)
 

以上の作業を庫裏の一部屋をお借りして、多い時で10人、少ない時で5人程で10時頃から夕方までの間、作業を行っていました。人選は、その時の幹事長(現役の学生または若手OB)に頼んでいます。学生がほとんどです。現幹事のうち、清水君(昭和59年卒)の代以降の学年の人は一度は参加したことがある人が多いかと思います。
他に参加してくれたOB(平成卒以降)で私が覚えているのは、篠田君、神波君、古野君、今井君、鈴木(大)君、鈴木(周)君、川治君、宮君の代、楓君、石岡君、松尾君、森君、浅川君、小泉君、藤井君、松本君、岡田君等です。(スミマセン、還暦過ぎて記憶力が低下しているので適当な羅列です。) そう、川原&米内三兄弟(の一部?)も参加してくれたと思います。

作業の途中、お昼に出前の中華料理を取っていただき、ご馳走になっていました。「喰いたいだけ何頼んでもいいぞ」、という矢澤さんの言葉に甘えて、若手がとてつもない量を注文するので内心ハラハラしていた記憶があります。ただしいつもきれいに完食です。ちなみに、手伝ってくれた若手OBにはOB会から事務費として3,000円~5,000円程度のアルバイト代を支払っていました。

作業終了後、打ち上げに毎回赤羽の街に全員で繰り出していました。(この飲食代はOB会からは出していません。) 最初の数年は矢澤さんに引き連れられてご馳走になった覚えがあります。平成9年頃から、山本純一さん(昭和38年卒)が参加することが何度かあり、宮君前後の卒業したてのOBとたらふく飲んで、二次会に当時赤羽で有名だった大人の社交場(?)に繰り出した覚えがあります。
赤羽の後も、山本さんはホームグラウンド
(錦糸町近辺)に若手OBを引き連れて三次会。外国語の勉強(?)をしていたと聞いています。

平成14~15年頃からは、私が若手を連れて主に白頭山という焼肉屋に行きました。参加されない矢澤さんから、毎回 “軍資金”として「聖徳太子」今は「福沢諭吉」をいただいていました。ここでも、昼飯をあれだけ喰ったのにまだ喰うか、と感心するほど注文していたような覚えがあります。

矢澤さんがお亡くなりになった後も、「是非お使いください」との奥様の言葉に甘えて、何度か庫裏をお借りしてこの作業を続けました。最後は平成27年か28年頃だったと思います。

最近のOB会からの各人への連絡は、一部郵送が残っていますが、ほとんどはメール連絡になりました。みんなで集まって作業するということはしなくて済むようになったわけですが、矢澤さん、山本さん、松原さんらが若手OB(私は中堅?)と集まって一緒に作業したり飲んだりしたことは、今にして思えばとてもOB会らしい活動だったと思います。

長い期間、作業場を提供していただき、またご馳走してもらった矢澤先輩は精神的にも、物理的にもOB会の太い柱でした。個人的な相談も何度かさせていただき大変お世話になりました。あらためて心からお礼申し上げる次第です。

「創部70周年史(平成29年)からの抜粋、再掲載」

故矢澤俊彦君のこと

昭和48年卒 小泉 哲郎

中学、私学大会3位

矢澤とは50年前にお互い新入部員として、中学校舎前のバレーコートで会って以来の付き合いでした。『クリクリとした目で坊主頭が似合うな』と思ったら、それもそのはずお寺の息子。

バレーコートといっても屋外で地面はコンクリート。フライイングレシーブをすると、ユニフォームが破けたり顎を傷つけたり・・。上下の学年の強力な陣容に比べ、僕らは矢澤以外からっきし弱体で歯がゆかったことと思います。 

矢澤のポジションは、中学では9人制の要であるハーフセンター、高校は6人制のセッター、もちろん中高とも頼りになるキャプテンでした。
岩井の合宿でエロ次(失礼。故中村先生)にどんなにしごかれても、当時の全国高校三冠王中大付属との試合で完膚なきまでにやられても、いつも笑顔で僕らを奮い立たせ引っ張ってくれたことを思いだします。 

昨年3月中旬に開成の同級生から『矢澤君が本日肺の手術を受け無事終了。1週間位したら退院』とのメール。3月23日に『すぐに良くなるだろう』と気楽な気持ちで見舞ったので、1時間以上2人でとりとめのない話をしました。
今考えると、彼は最後のつもりで付き合ってくれたのかもしれません。『リハビリ準備だ』と言って、病室から歩いてエレベーターまでいつもの笑顔で見送ってくれました。

4月15日の告別式当日、少し早めに行って彼が住職をしていたお寺(法真寺)のまわりを見て回りました。これだけ付き合っていながら仕事の話はほとんどしなかったので、開山500年近い法真寺の由来を初めて知りました。
式の最後の挨拶でご子息が参列者に対し、『父の底力と温かさに支えられてここまで来た』と話しておられたのが心に残ります。 

通夜の帰りに高校卒業同期6組の何人かで飲んだ時、誰かが『矢澤はみんなのアイドルだった』と言っていました。本当にいるだけで、みんなが明るく楽しくなる奴でした。

          昭和50年卒 故杉山氏を偲ぶ会

【昭和50/51卒 故杉山君を偲ぶ会開催】
2020年2月10()13年同月に亡くなった同期の杉山君を偲ぶ会を松下君経営の東大前駅近くの中華レストラン「玻璃家(ボーリージヤー)」で開催しました。
1年下の上野君も駆け付けてくれ、ピアノでシャンソンを奏でるなど多才だった裏エース(今風には?ウィングスパイカー)を、おいしい上海料理をいただきながら偲ぶことができました。
残念ながら都合の合わなかった安藤君、木村君、1年下の島川君、上田君も揃った会を催せる日が1日も早く訪れることを祈っているところです。
【写真説明:左から 海老沢・竹内・松下・上野・市村】

2020年7月掲載

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訃報をお伝えしたS38卒の山本さんからお預かりしていた
資料の中から見つけることができました。
中村博次先生のエピソードが満載の文集です。先生を思い出しながら、また我々自身の若い頃を思い出しながら読んでいただけると幸いです。

<中村博次先生追悼文集を読んで>

中村博次先生追悼文集の感想文(あるいは補足説明)が寄せられましたので、ホームページに掲載します。皆さんからのご投稿があれば追加していきたいと思います。