本ページでは、お亡くなりになった方々を追悼する文章や偲ぶ文章などを、お亡くなりになった順に掲載しています。

松原さん追悼集のはじめに

                                  同期 昭和49年卒 老川 知永

昨年1124日 前会長 松原秀彰さんが亡くなりました。享年68歳でした。
一昨年の3月に病が見つかりその後奇跡的に回復し仕事にOB会活動に完全復帰した矢先の出来事でした。

会長就任以来多くのOBに参加してもらえるOB会をつくるため松原さんは常に先頭に立ってきました。
幹事会を活性化し、ホームページを立ち上げると共にシクミネットを構築し、更には会費の値下げを断行しました。特に若手OBの参加を促すために様々なアプローチもしてきました。新型コロナ禍ではこのホームページが威力を発揮しOB間の唯一の交流の場ともなりました。
そんな松原さんは一昨年入院時に私のスマホにこんなメールを送ってきました。
『今入院してお医者さんにパソコンも取り上げられました。酸素吸入をしているので電話もできません。総会資料と麻布定期戦の件よろしくお願いします。』
私は同期として松原さんの責任感に半ば感心し半ばあきれてしまいました。こんな時にOB会?それほど彼のOB会への思いは強かったのです。

責任感といえば松原さんは現役の時から責任感のとても強い男でした。その半面ナイーブで繊細なところもたくさんありまた多趣味でした。彼はロックが大好きです。お酒のロックではありません。音楽のロックです。私もロック好きだったので中3の時にロック研究会というのをつくりました(部員4名)。
それぞれの自宅でレコードを持ち寄って部屋を暗くして大音量で聞きそれを後で講評するというすこぶるストイックな集まりでした。高1の時にはスピーカーを持ち込んで文化祭にも出展しました。
彼の得意分野はブリティッシュロックでしたがかなり造詣が深く皆が感心したのを覚えています。このロックについては今回同期の清水さんが追悼文の中で詳しく書いてくれています。
松原さんの自宅には今でもすごい量のレコード・CDが残っています。

また松原さんはかなりの家族思いでした。特に優しい奥様とは亡くなるまで仲が良くいつも支え合っていたような気がします。新婚の時には、奥様が集めたぬいぐるみで埋まった自家用車に乗ってふたり仲良く出かけていました。微笑ましい思い出です。2人の息子さんにも強い愛情を注ぎ、良く私にも成長の様子を話してくれました。松原さんは一見ぶっきらぼうで素っ気ないようにみえてしまいますがその内面はとても温かく包容力のある人間でした。

今回諸先輩を含めたくさんの方々から松原さんへの追悼文をいただきました。
心より感謝いたします。皆様とともに松原さんのご冥福をお祈りいたしたいと思います。

最後に松原さんが最も気に入っていた写真を掲載いたします。70周年史にも本人がすごく気に入って掲載しています。18380㎏の体が軽々と浮いています。
熊谷で行われた関東大会のものですが他の3枚を含めプロのカメラマンが撮影したものです。
また一番下の右は高1の時に私と蔵王にスキーに行った時のワンショットです。最高の笑顔で写っています。これが松原さんのほんとうの素顔だと私は思います。

合掌 

昭和48年関東大会 昭和49年卒 故松原秀彰さんのアタック

松原秀彰前会長を偲んで

麻布学園バレーボール部OB会 会長
昭和50年卒 大谷 格

 突然の訃報に驚いています。もっともっと、お話しをしたかった。残念です。

 松原さんとは、学年も違ったこともあって、残念ながら現役時代の記憶が薄く、私がOB会長になってからの思い出が濃厚です。
 開成OBの皆様の追悼文にあるように、松原さんのOB会ホームページ立ち上げをはじめ、その取り組みからはいつも刺激を受けてきました。

 創部時期を同じくしながらも、お互い文化の違うOB会ですが、会う度に、OB会を取り巻く環境の変化やOBの活動参加をどう促すか等の意見交換をしてきました。兎に角、これが楽しみでした。と同時に、私は、松原さんの開成OB会への強い思いは元より、麻布OB会への熱いエールをいつも感じていました。
 
両校OB会は、これからも交流を続け、互いに刺激し合い、松原さんの思いを忘れてはなりません。
 
創部100周年を活き活きとしたOB会で迎えましょう。

 松原さん、安らかにお眠りください。

松原先輩との想い出

前幹事長 昭和56年卒 天明 宏之

 松原先輩の訃報を知った時には、最近体調を崩されていたとは言えつい先日までOB会会長として頑張られていたので本当にショックでした。
 松原先輩(S49卒)は私の7学年先輩であり現役時代には重なっていません。本当にお世話になったのは、2018(平成30)年度からの松原新会長体制準備のためその年の春に西日暮里駅近くの喫茶ルノアールに呼び出されたときからです。
 
私は卒業以来ほとんどOB会行事に参加しておらず、また長年会費未納入により各種お知らせも来なくなっていたような幽霊会員でしたが突然呼び出しをうけ、トントン拍子で新体制での幹事長を仰せつかり松原会長に5年間仕えました。
 
松原先輩のバレー部OB会に対する思い入れはとても強く、出来るだけ大勢のOBに参加してもらうにはどうしたら良いのか、若手OBの参加をもっと促すにはどうしたら良いのか、歴代のOB会会報や資料・写真をみんなにもっと見てもらいたい、麻布バレー部OB会ともっと交流を増やしたい、などなどやりたいことだらけで幹事会メンバーで優先順位や実現方法について議論を重ね、OB会としてホームページ刷新、しくみネットによる会費徴収、年度幹事会の実施、等々を実施しました。
 
それもこれもみな松原先輩の熱い想いの結果です。途中Covid-19で実活動が停止しましたがホームページとしくみネットの導入でOB会活動が途切れること無く出来て本当に良かったです。
 
時には幹事会で意見が合わず、大先輩に向かって生意気な意見を言ってしまったことも一度や二度ではなく、本当に申し訳なかったと思っています。そんないい年をした社会人になっても生意気な後輩の私が、松原先輩の御自宅のある仙台方面に出張の際には、OB総会の下打ち合わせや新しい活動の導入での揉め事の相談に寄らせていただき、そこでもお酒を飲みながらOB会について熱く語り、またまたたくさんの頼まれごとをいただいたのが良い思い出です。
 
今年度から関新会長にバトンタッチし、暫く会長特別補佐として新体制をサポートする予定でしたが、今回、このような訃報に接し、誠に残念な思いでいっぱいです。
 
どうぞ天国で開成バレー部OB会を見守っていてください。

合掌

松原さん、ありがとうございました

会長 昭和54年卒 関 茂和 

松原さんは私にとって”頼れるアニキ”でした。私が中学に入学した年、松原さんは最上級生の高校三年生。つい先日まで小学生であった我々にとって、この年齢差は圧倒的です。

5つ上のお兄さん、というよりその風貌も含め、間違いなくオジサンの部類に入る存在でした。現役時代はお話しする機会はほとんどありませんでしたが、私が社会人になりたての頃、OB会幹事長であった松原さんの仕事をお手伝いさせていただくことになりお付き合いが始まりました。バブル景気が始まる直前だと記憶しています。昭和レトロ感満載の松原さんのアパートに何度もお邪魔して、コップ酒を飲みながら、夜明けまでいろいろお話しをさせていただきました。”オジサン”の印象が、”頼れるアニキ”に変化してきたのはこの頃です。(風貌はますますオジサン化しましたが。)以来40年近く、公私にわたり本当にお世話になりました。感謝の言葉しかありません。何よりも現在のOB会があるのはひとえに松原さんのご尽力によるものです。その一方で、負担をおかけしてしまったのではないか、と悔やんでいます。まだまだお聞きしたいこと、相談したいことがたくさんあったのに、かなわぬこととなってしまったのが未だ信じられません。

松原さん、ありがとうございました。開成バレー部そしてOB会は我々がしっかりと引き継いでいきます。安らかにお眠りください。 

昨日こそ君はありしか思わぬに 松島が上の雲にたなびく

合掌 

昭和49年卒 石塚 伸一

バレー部には二十人以上もの同期がいたので、レギュラー争いは熾烈だった。合宿のたびごとにチームが変わった。いろいろあった末、キャプテンは「マツ」に決まった。

私は、当初、サイドのアタッカーであったが、1年くらいで高さに限界を感じセッターに転向した。高校の練習のない日には出身中学の練習に参加し、コーチの真似事もさせてもらった。朝暗いうちに家を出て朝練(アサレン)、2時間目の休みには早弁(ハヤベン)をして、7時間目が終わると練習、土日は試合というような日々が続いた。まさに「バレー漬け」であった。二年になると少し余裕ができた。

2年の新人戦では、春高校バレーで全国準優秀した中央大学附属高校に1セット目では8対0、12対3で勝っていた。ふと次のセットのことが頭をよぎった。バレーは流れのスポーツである。心の隙間に「欲(よく)」が入り込んだのだろう。流れが変わると逆風は止まらず15対13でセットを取られた。2セット目は本来の実力であろう、大差の敗北だった。

中附との試合で、今でも覚えている2つのシーンがある。私が1回だけレフトサイドのポジションからアタッカーに入るローテイションがある。セッターはキャプテンのマツ。1セット目のサーブレシーブの時だった。追われ始めていたのでここでサイドアウトをとって流れを変えたいと思った。マツからいいトスが上がった。これまでで一番いいトスだった。2枚のブロックとアンテナが見えたので、その間を狙って思いっきり叩きつけた。いつもはブロックアウトを狙っていたのに、どこかで「カッコよく決めたい」という「欲」があったのだと思う。アタックがほんの少しアウトであった。

いま一つは、2セット目のマッチポイントの場面である。ライトサイドのポジションにエースのマツがいた。絶好のサーブレシーブが帰ってきた。迷いは全くなかった。思いっきり高いトスをライトに上げた。マツは高いたかいトスをコートに叩きつけようとした。気持ちの良いブロックの音が体育館に流れた。その時、中附のブロックは3枚であった。

監督の中村先生には「なんでセンターのクイックを使わなかったのか」と怒られた。僕は後悔していない。全国2位のチームが開成のエース松原秀彰を本気で止めに来たのである。マツは、そんなアタッカーだった。

東北大学を定年で退職し、特任教授で大学に残った松原さんは、退職後も若い研究者を育てたい。今が最後のチャンスだと言っていた。

突然の訃報に戸惑うばかりです。おつかれでした。

2023年11月26日

松原君 追悼

昭和49年卒 高塚 義弘

松原君の訃報を受取った時には、まったく信じられなかった。

2022年春に体調を崩したことは知っていたし、その年の夏に会った時には体重が落ちていることは見て取れたけど、まさかあれが最後となるなんて思いもよらなかった。残念でならない。

松原君がバレー部の部長・キャプテンになるまではあまり接点が無かったような気がする。僕がマネージャーという立場で、我が強く強引な顧問の中村先生と同じく我が強い松原君との間を取り持つ役割関係からスタートし、ずいぶんと議論を重ね、喧嘩もした記憶がある。ある時「高塚君とはもう話しをしない。議論をすると高塚君に言い負かされてしまうので、もう僕がやりたいようにやらせてもらう。」と言われてしまった。今考えると、もっと松原君に寄り添ってあげれば良かったなと思う。

もっといろいろと話しがしたかった。
病気のことも教えてほしかった。
松原君の料理が食べたかった。
ゴルフもしたかった。
ご冥福を祈ってはいるけれど、悔しさと残念さの方がこみあげて来てしまう。

あの世でも楽しくやってください。 

昭和49年卒 尾鷲 仁朗

東京都高校支部選抜大会の第三支部代表選手にもなったよね。都大会ベスト16、関東大会での英姿を想い悲しみに耐えません。中村先生、矢沢先輩、岡本君、ああ、なんと松原君。コート上で緊張の瞬間を共有し、共に前進・成長してきた。強い絆で結ばれている。  

合掌 

中二学年旅行。左奥で顔を出しているのが松原。前列右から尾鷲、清水、木村。

松原秀彰君を偲ぶ

 昭和49年卒 清水 淳一

 「近々仙台方面に来ることないかな?」 昨年夏松原君からの久しぶりのメール。あまりの猛暑だったのでしばらくは無い旨伝えると、「そうか、じゃあ涼しくなったら夫婦で会おうか、仙台でなくても東京でもいい、いつ頃がいいかな?」同時期に山さん(山崎君)宅にて当方との料理バトルをやりたいと彼が山さんにプッシュしているメールが配信されて、「相変わらず強引だなぁ」と思っていたが、まさか闘病中とは知らず。知っていれば仙台訪問もレンタルキッチンでの料理バトル再戦もすぐにできたのに・・・ 

 元来小容量揮発性メモリな上に加齢もあって、松原君との想い出はバレーに関するものはほとんどとんでしまい、残っているのはバレー以外のものなのでそれを紹介したい。 

 お互いの家が池袋駅乗り換えだったので、部活帰り時は故岡本君(高田馬場乗り換え)共々山手線で池袋方面に向かうため我々は池袋組と呼ばれていた。中学高校時代は、バレー以外の時間はほとんどブリティッシュロック漬け、合間に少し勉強をするといった日々だった。松原君は当方にとってはブリティッシュロックの指南役で、彼の流儀は、ブリティッシュロックグループは先ず英国でヒットした後米国で売れ、最後に日本へ入ってくるので、英国で頭角を現し始め米国や日本で全く知られていない段階でいち早くチェックし、将来性を占うというものだった。そのため池袋駅で降りると向かうのは、山野楽器にあった英国音楽雑誌コーナーで、「New Musical Express」誌等のヒットチャートで新星出現有無をチェックした後、輸入盤コーナーで掘り出し物を漁った。そしてそれらの輸入盤による鑑賞会(レコードコンサートと称していた)を松原君の家で行った。全くの無名時代からチェックして将来のヒットを予測しては悦に入るという完全に自己満足の世界で、お互いの評価意見が分かれることもあったが、ムーディブルース、キングクリムゾン、イエス、ジェネシス、カーブドエア、コロシアム等々実際松原君の見立てはよく当たった。 

 この鑑賞会の中で、松原君がバンドを組みたいと言い出し、「自分がリードギターをやるので清水はベースな」と勝手に決められたが、二人ともギター未経験のため先ず各自練習することに。お互い少し弾けるようになると、池袋の山野楽器やヤマハのギター売り場で試し弾きをしたが、おおらかな時代だったのか、制服、肩掛けカバン姿でへたくそにがなりたてる我々を注意する店員もいなかったが、今でも思い出すと恥ずかしくなる。結局バンド話は実現しなかったが、おかげで当方はクラシックギター通信教育でフラメンコ曲に出会い、その後のスペインつながりができたのでその点では感謝している。

 松原君は昔から思いついたことを相手かまわず実行したり、ずばずば言うところがあったが、これも一人っ子の一面なのかと思っていた。我が家を新築した頃、彼が来てくれたことがある。その際当方は何かで忙しかったためか、代わりに家内が料理を作ったが、その中に野菜の煮物があり、松原君は一口食べて「この大根は少し固いのでもっと煮た方がいい」とずばり指摘した。この松原大根煮物事件は、家内には長らくトラウマになって治すのに苦労した。 

 料理については、20年ほど前名古屋出張時に彼の家に招かれ、彼の手料理をご馳走になったことがある。彼は当時から大人数を招いてのパーティー料理を目指していたようで、「特にグリル料理が好きだ。ゆくゆくは清水と一緒に料理がしたいなぁ」と話していたが、これは後に当方単身赴任先で実現する。この話は以前このホームページで紹介したが、ある日突然彼から、「来週福岡に出張するので、帰りに清水のアパートで料理をしたい。ついては、徳山の魚市場へ行きたいのでJR徳山駅朝7時待ち合わせで来てくれ」とのメールが来た。徳山の魚市場?何を作る?どんなスケジュールで来る?等?だらけだったが、とりあえず宿泊用にレンタルふとんは手配して、当日朝徳山駅に向かった。駅に着くと松原君は少し前に着いて一人で市場に行ったが、閉まっていて買えなかったとのことで少ししょんぼりしていた。ならばと先ずは当方アパートに移動し彼の荷物を降ろした後、瀬戸内の島に魚を買出しに向かった。車で1時間ほどの島には朝獲れた魚を売る店がいくつもあり、彼のためにサヨリとカサゴを購入し、陽光きらめく穏やかな瀬戸内海を見下ろす店で地魚料理を堪能後、島にある日帰り温泉で汗を流した。この頃には松原君もすっかりゴキゲンになり、当方アパートでの料理バトルを待つのみとなった。 

 先ずカルパッチョ用に細身のサヨリを丁寧にさばく彼のワザに感心していると、「包丁はこれしかないのか?」と聞いてきた。万能包丁、出刃包丁と刺身包丁しかない旨話すと、「包丁はもっとあった方がいい。それにまな板も1枚しかないようだが、肉用、魚用、その他用と分けるべき」と言ってきた。「単身赴任先のアパートにそんなに持ち込む奴がいるかよ!」と内心毒づいたが黙って見ていると、彼は当方が気分害したことを察することもなく、「魚は全て食べられるから大事に扱わないとね」と当方を諭すようにつぶやきながら、身、肝、皮、骨に見事におろしていった。ちなみに彼の料理への探求心は素晴らしく、魚はスーパーではなく名古屋の市場に買いに行き、ある店で「おじさん、そのふぐのさばき方教えてくれない?」と店のオヤジに頼んだところ、「たくさん買ってくれるならば教えてやるよ」と言われ、その店に通い詰めて教わり、ふぐは自分でさばけるとのこと。「ふぐをおろすのには免許が必要では?」と言うと、「自家用ならば免許は不要(自己責任ということ?)清水にも食べさせたい」と言ってきたが、まだ我が身は惜しかったのでもちろん断った。続いてカサゴも見事におろしてブイヤベースとしたが、味見をするとわずかだが臭みがある。さばき後の下処理が若干不足していたためと思われたので、当方が普段パエリアに使用しているサフランを加えて臭みは消した。彼の魚料理2品と当方の肉料理を肴に、山口の地酒を飲みながら積もる話をしていると、彼はいつの間にかソファーでつぶれていた。巨体を動かすのも面倒だったので、せっかくのレンタルふとんは使われなかった。 

 思えば松原君とは、学生時代は音楽に限らず、小説、料理、将来やりたい事等会えば時間を忘れて話していた。その後社会人になってからはお互いの忙しさや当方の海外勤務もあって、会う機会は激減していたが、ようやくお互い自由な時間が増えてこれからという時に彼は旅立ってしまった。 

 松原君、料理バトルの再戦は延期になったけど、調理道具そろえて待っていてくれ。こちらも新しいレシピを開発しておくから。

強打者松原

 昭和49年卒 堀口 健一

スパカーン!と小気味よい音が響きボールが大きな弧を描いて飛んで行く。ぼくの中に残っているとても懐かしい、大切な風景だ。 

夕方5時でもまだ明るい夏の開成中学グラウンド。バレー部の練習が終わって部員は皆帰っているはずなのだが、当時中三だったぼくたちは三々五々集まってしばしば野球のバッティングに興じていた。ボールは校庭に落ちていた硬式テニスボール。誰かがどこからか調達してきたバットを使っていた。グラウンドの一番高校寄りにバッターボックスを設けて中学校舎に向けて交代で打つ。 

好きな連中がバレー部の練習の後に始めるのだが、なかでも熱心だったのが松原だった。とにかく精一杯やる。打つのも投げるのも、だ。バレーボールの練習の間はしかめっ面でダラダラとレシーブやアタックの練習をしていたのに、バッティングになると俄然元気になって暗くなるまで、とことんやるのだ。ある時松原が打ったボールが中学の校舎近くまで飛んで行って、「すげえ!」という声の中で松原が心の底からうれしそうな、得意げな表情を浮かべていたのをいまだに思い出すのだが、あれは夢だったのだろうか。もう一つ、確か大きな大会の前日にも拘らず練習が引けた後遅くまでバッティングで遊んでいて、帰り支度を済ませた当時キャプテンの稲ちんに「おまえら、いい加減にしろ!」と一喝された覚えがある。その時一番申し訳なさそうで、でも「へへっ」と恥ずかしそうに笑っていた松原がいた。誰も憎めない笑みだった。 

ぼくはほとんどバレー部の松原しか知らない。でも、いたずらで、やんちゃで、他人の事ばかり考えていて、寂しがり屋で、そしてすべてに一生懸命だった松原の印象は鮮烈だ。 

逝去の知らせを受けた際には他に予定があったので奥様に弔電を打ったのだが、その後なんとか予定が遣り繰りできて、日曜日の仙台での葬儀に参列、最後のお別れができた。ここで弔電の言葉をもう一度述べて手向けとしたい。下手なトスを文句言いながら打ってくれてありがとう。初の海外赴任で心細かったロスアンゼルスの家にご家族で来てくれてうれしかった。思い出が尽きません。もう一度会いたかった」。 

松原君を偲んで・・

 昭和49年卒 井上 秀雄(旧姓 山崎)

開成時代のあの独特のフォームから繰り出すパワーアタック,彼の初恋の娘に会い行くのにつきあったこと,社会に出てからも彼のファインセラミックスセンタ時代に(結城さん,松原君,柏女君等と)飲んで歌った開成バレー部名古屋地区OB会,東北大に移ってからも仙台を訪問した際,材料技術や自動車技術を熱く語ってくれたこと,最近ではKVCOB会,など,忘れられないことばかりです.お互いにおやじになって少しはこれまでを振返って馬鹿話をしたり,また新たな熱意の話も聞きたかったところなのに,もう,聞けません.寂しい.

ただただ,「山さん,山さん・・」とにこやかに話しかける声と表情が脳裏に焼きついていて,やるせない思いです.

松原よ,やすらかに眠って下さい.

後列中央が松原

松原君を偲んで

昭和49年卒 加藤 雅之

突然の訃報にただ、ただ驚いています。
バレー部での活躍、運動会での勇姿、忘れられません。
天国でバレーに研究におもいきりあばれて下さい。また、岡本君と再会したら語り合って下さい。
心よりご冥福をお祈りいたします。

昭和49年卒 稲垣 謙三

松原の訃報は未だに信じられません。
大学卒業後は共通の友人を通じて、松原がセラミックスの分野で頑張っていることやドイツに留学したことを耳にしていましたし、東北大学に移ってからも大きなプロジェクトの中核を担っていることを知っていました。そのような中で彼の訃報に接し、非常に残念でなりません。少し急ぎ過ぎたのかもしれません。
これからはゆっくり休んでください。

左が松原

昭和49年卒 丹治 雅行

長い学究生活の中で、松原君は何度も海外で研究生活を送ったと聞いています。その内の一つに英国オックスフォード大学があります。私が駐在生活を終える目前、帰国準備中の20153月に、松原君がかつてお世話になった先生のところに行くとのことで、それなら一緒にゴルフをしようということになりました。英国には奥さんが同伴でしたので、ゴルフの前に夫妻を付近の観光地に案内しましたが、松原君はゴルフのことが気になって観光には全く身が入らず。それを奥さんは優しく受け止めていました。奥さんを宿まで送った後のゴルフでは二人ともにたくさん叩きましたが、楽しいひと時でした。いつか我々東北・北茨城の住まいの間に集まって、夫婦同士でゴルフをしようと話をしていたのに、残念です。ゆっくり休んでください。

松原君の思い出

昭和45年卒 山本 惠一、小川 宗男、竹内 雄一

松原君が中一でバレー部に入部したのは、私たちが最上級生の高二の時でした。松原君の学年の体育担任は中村先生でした。先生は大勢の生徒に声をかけたのでしょう、中一の入部希望者は50名以上もいたのです。一学年の定員が300名でしたから6人に1人はバレー部と言うことになります。その中でひときわ目立っていたのが松原君でした。背も高かったのですが、がっちりしていた覚えがあります。彼の学年は卒業時でも20人ほど残っていました。個性豊かな面々をキャプテンとして率いることができたのは、彼の人柄があってのことだったと思います。

松原君と定期的に会うようになったきっかけは、彼がOB会長を引き受けたことでした。この時から私たちの新年会に毎年参加してくれるようになりました。2022年はコロナ禍での有志に限定しての開催でしたので、参加者は6人と少なかったのですが、松原君は仙台から浅草まで駆けつけてくれました。20186月に私たちの学年と片野さん(S44年卒)で仙台・平泉観光+ゴルフツアーを行ったのですが、仙台在住の松原君は参加してくれただけでなく、初日には松原宅でのBBQに招待してくれました。BBQと書きましたが、料理は全て彼のお手製でどれもプロ顔負けの出来と味でした(一部を写真で堪能ください)。料理が趣味と言う彼の思いがけない一面を知ることができました。

松原君がOB会長となったことで、OB会のいわゆるDX化と活性化が大いに進みました。OB会ホームページによる情報発信、シクミネット導入による会費納入の簡素化、ゴルフ会の定期開催などを導入したことで若手の参加率が向上しました。一連の改革は、老川君、高塚君、丹治君、柏女君たち松原君の同期とその下の学年の協力があってのこととでしたが、協力を引き出すことができたのも彼の人柄あってのことだったと言えます。

松原君、OB会長としてのOB会改革、ご苦労様でした。自宅に招いていただいた時の料理はどれも美味しかった。もう味わえないのが残念です。松原君のご冥福を祈ります。

左端が松原君

OB会総会で

KVC杯 後列右から2番目が松原君

松原秀彰先輩 追悼文

 昭和50年卒 市村 幹司郎 

松原先輩の急逝の報に接し、驚くとともに、その存在の大きさを改めて感じている次第です。

松原先輩が高校時代に主将を務められるに当たり、故中村先生が体育主任を務められた代で大勢のご同期をまとめるのに腐心しておられた様子を、松原先輩の一年下に当たる後輩として目の当たりにしてきた者の一人として、なによりの思い出は、ちょうど50年前の1973年の「関東大会出場」です。

当方が最上級となり、主将を務めるなか、本来は引退される時期に、松原先輩以下がなんとしても「関東大会」に出場したいとの熱意に押され、“合同チーム”を結成。その結果なんとか都でベスト16となり、熊谷での「関東大会」に駒を進めることができた次第。残念ながら1回戦の国学院栃木に敗れたものの、中間試験の一部を免除されながら出場したことは、我が現役生活の大きなエポックとなりました。

その後もときどき1年先輩の集まりにお声かけいただき、参加させていただいた思い出の写真は次の通りです。

写真中央に故矢沢先輩、その右が故松原先輩。筆者は下段中央。

時は移り、2018年から松原会長となった際、当方としては学生時代に幹事長を務めて以来となる「最後の恩返し」のつもりで幹事の一人として同会長のイニシアティブのもと、本年まで微力を尽くしてきました。松原会長がOB会の「再興」を目指すなか、お陰様でこの5年は充実したものとなりました。 

本年、関君に会長を交代されたものの、「会長特別補佐」として引き続きOB会で尽くしたい、という道半ばで急逝され、残念なお気持ちがあるかもしれませんが、「しくみねっと」新設やHP開設、総会・年度幹事会の学外実施、会費の見直しなど、なかなか手が付けられなかった改革を実現された業績は大きなものだったと思います。

残された我々はその遺志を無にすることなく、当会を盛り上げていきたいと考えるとともに、ここに改めて松原先輩のご冥福を心よりお祈りしたいと思います。 

 

合掌 

昭和49年卒 松原秀彰さんご逝去

 突然のことですが、松原秀彰前OB会長(昭和49年卒)1124日にお亡くなりになりました。ここに謹んでご報告いたします。
 これまでOB会活動を牽引していただいたことに心より感謝申し上げます。
 ホームページの11月更新の際には料理の記事を載せたいといっておられた矢先のことでした。
                                     
2023年11月29日

昭和47年卒 荒井吉治さんご逝去

 昭和47年卒の荒井吉治さんが、病気療養中のところ、1029日にお亡くなりになりました。こころよりご冥福をお祈りいたします。同期生11名の中での初の訃報と伺っております。
                                 
2023年12月30日

昭和30年卒 野水清さんご逝去

 昭和30年卒の野水清さんが11月7日にお亡くなりになりました。衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。
                                    2023年12月2日

昭和39年卒 石川喜一郎さんご逝去

 昭和39年卒の石川喜一郎さんが令和41217日にお亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。 

 高校からの開成入学は我々の1年上の学年から始まったばかりでした。石川さんはそのクラスの一人で、穏やかな人柄で、小太りの体に人懐こい丸顔で、いつも冗談っぽい話し方をする、人気者でした。卒業以来は一度位しかお会いしていませんが、在学中は同期の者と一緒にお宅まで遊びにいって、そのころはまだ珍しい機械だった「ステレオ」でレコードを聴かせてもらったりしたのが懐かしい思い出です。

宮崎 直樹(昭和39年卒)

昭和31年卒 明渡久和さんご逝去

 昭和31年卒の明渡久和さんが令和4年9月8日にお亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

昭和38年卒 山本純一さんご逝去

 山本純一先輩(昭和38年卒)、通称「ハッチャン」あるいは「ハチ」は本年(2021年)1月にお亡くなりになりました。松原と関が、最後に山本先輩にお会いしたのは、平成31511日、ご自宅にお邪魔して、OB会の設立の時期についてお話をお伺いしました。その内容は、本ホームページのアーカイブのところに「OB会の設立の時期について」という記事を掲載してあります。山本先輩のその時のご様子は、とにかく私達の来訪を大歓迎してくれたこと、OB会に関する段ボールいっぱいの資料を私達に見せてくれたこと、それらをいったん松原が預かってホームページにできるだけ掲載して欲しいと頼まれたこと、そして松原が持参した仙台のお酒と笹かまぼこで楽しく談笑しました。確かその後、幹事会があるのでお名残り惜しく失礼しました。

 山本先輩のこれまでのOB会への貢献は絶大です。どれだけ多くのOBが山本先輩の激励を受けたり、またご馳走してもらったか、数えきれない多さです。何より、山本先輩はこの開成バレー部OB会を心底愛してくれていたと思います。そこで、それらに対する感謝の意を込めて「山本純一氏追悼文集」を企画することにしました。そして、まず山本先輩と同期である芥川先輩に寄稿文をお願いしました。芥川先輩から原稿をいただきましたので、まずそれをホームページに掲載させていただきます。そして、他のOBの方々から是非、山本先輩の想い出話を追悼文集にお寄せいただきたいと思います。麻布学園の同期の嶋田先輩にも芥川先輩の後にすぐ書いていただけることを承っています。松原も、山本先輩から貸していただいた膨大な資料の中から、何か山本先輩らしいものを見つけてホームページに載せて行きたいと思います。多くの皆様からの寄稿をお待ちしております。

松原 秀彰(昭和49年卒)、関 茂和(昭和54年卒)

20217月掲載

山本純一先輩 追悼の辞 

昭和39年卒 宮崎 直樹 

今年の3月、市川市東菅野の山本純一先輩のお宅のあった場所にお伺いしてみた。住宅地の中の正方形に近い一軒分の敷地が、何もないきれいな赤土の更地になって、茫然とたたずむ私の前に静かに広がっていた。隣家の軒先の樹脂波板の一部が溶融し、溶け落ちて、火事と言う思いがけない事故の名残をとどめていた。

山本先輩は誰に別れを告げることもなく、突然世を去ってしまいました。

私の実家は同じ町内の10分とかからぬところにあり、今は弟一家が住んでいますが、私は開成時代はそこから、学校に通いました。

芥川先輩の書かれた追悼文にもありますように、今からもう60年前になりますが、開成バレー部のチームメートの中で、市川や船橋から総武線で秋葉原に出て、田端まで通う山本先輩を中心とする数人のグループの中に私も加わらせてもらい、高度成長期に向かう世の中のどこまでも明るい未来を体感しながら、練習帰りの満員電車の中で語りあった日々を懐かしく思い出します。 

開成バレー部で山本先輩たちの、昭和38年卒の年代は中学も高校も、ともかく強かった。従って我々39年卒のチームは新チームになるたびにやっていけるのだろうか、と不安になったものです。そのころは(今でもそうだろうが)2学年くらいにわたってレギュラーメンバーが組まれ、9人制において私のポジションは主にバックライトであり、ハーフライトの一人をおいて、その先にエースアタッカーのフォワードライトの山本先輩の大きな姿が見えていることが多かった。

試合に於いて劣勢となり、タイムをとって中村先生が山本先輩らのフォワード陣に、「なぜブロックできないのだ! 出来ないはずはないだろう!見事ブロックしてみろ!!」と声を枯らして檄を飛ばす。プレーが再開され、直後にそれまでどうしても止められなかった相手のエーススパイカーの猛スパイクを見事にシャットアウトし、高らかに雄たけびを上げる「ハチ」の姿に、相手チームは、はた目にも明らかなほど戦意喪失し、そのまま逆転してそのセットを開成がとる姿を何度見てきたことか。

現代のゲームでもよくある情景かもしれない。でもブロック(当時はストップと呼ばれていた)の際のオーバーネットはまだ認められていない時代である。簡単ではないことを、分かって欲しい。

私は多感な十代に文字通り、山本先輩の背中を見て育ち、バレーボールとはこういうものだ、と無意識のうちに叩き込まれていたと思う。山本先輩は部活動において先輩達にはきちんと礼をつくして、我々のお手本となり、厳しく指導してくれた。そして、それ以上に、後輩の面倒を見ることを、生涯を通じて、実践してきた。OB会の際も、特にその後の懇親会においては、上着を脱ぎ棄て、白いワイシャツの袖をまくり上げ、後輩たちのグループの輪の中に飛び込み、肩を抱き、口角泡をとばして、話しまくった。

これは特にどの年度に対して、と言うことは全く無く、すべての年度の新しいメンバーに出会うたびに、おそらく最近まで、数十年にわたって続けられてきた。

もし開成バレー部が厳しい上下関係のもと、仲の悪い学年同士があったりしても猛練習の甲斐あって奇跡の全国制覇を成し遂げた場合と、先輩や上級生が後輩、下級生の面倒をよくみて、上級生、下級生の仲の良いクラブである場合(今みたいに。)と、山本先輩はどちらをよしとしたであろうか。答えは火を見るより明らかです。上級生が下級生の中に溶け込もうとしない部活動、タテの関係の希薄な部活動はいくら強くても意味が無い、と心から思っているはずです。

同時に、中学、高校時代の部活動はこうあるべきだ、という信念を明確に持って、それを実践してきました。バレーは人気スポーツだからといってただ健康の為のりクレーション、同好会では意味が無い、と。

勉強や受験と両立させながら、毎年メンバーが入れ替わり、人数も減ることに悩みながら、開成の名前を背負ってコートに立つ以上、強くなければならない。そのような部活動であり続けることを、山本先輩は我々に教え、要求し、後輩たちに伝え続けてきました。

中村先生はしばしば言っていました。「ハチよ、先生になれ。」教師か講師として開成の教壇に立つ姿を見たかったのは私だけではないでしょう。

 私は私的なことでも、山本先輩に大変お世話になった。もし今、山本先輩にお会いしたら、「おう、宮崎。なにやってるんだ。しっかりしろよ。」と豪快に笑い飛ばされるのだろうか。いや、山本先輩は絶対にそんなことは言わない。きっと「おう、久しぶりだな、その後どうしてた、」とにこやかに語り掛けてくれるだろう。そして「. . . .そうか、いろいろ大変だな。」と親身に話を聞いてくれるであろう。私にとって山本先輩はそういう人です。そしておそらく、誰に対しても。 

開成バレー部とOB会は開成のクラブの中で、もっとも上級生と下級生の仲が良く、先輩が後輩の面倒を見る、タテの絆の強いクラブの一つだと思います。このようなクラブに山本先輩が作り上げてくれたのです。 

山本純一先輩、心から申し上げます。有難うございました。 

          2021年10月9日(土)

                                    2021年11月掲載

我(我々?)の青春時代に多大なる影響を頂いた山本純一先輩を偲んで

平成8年卒 鈴木 周

喜怒哀楽・・・

 

山本先輩を語るにはこれほどふさわしい言葉がありますでしょうか。中途半端を知らず、人間であるがゆえの理性というものに邪魔されることのない、常に極限まで喜怒哀楽を振り切って表現する唯一無二の存在(…あくまでも私の所感ですが、皆様はどうでしょう)、それが山本先輩でした。

 

喜・・・。

感情に任せて恥ずかしがることなく素直に喜びを表現する。

山本先輩自身のことというよりは、開成バレー部の後輩である我々の生活の中にある喜びに対して公私に関わらず自分のことのように真剣に喜んでくれる方でした。練習で何かを学び取ったとき、試合に勝った時、就職した時、彼女ができた時、結婚した時、子供ができた時…、山本先輩は何故かいつも傍で真剣な眼差し(ちょっと怖いくらいの目力でしたが…)で自分事のように話を聞き、私たち自身よりもはしゃいで喜んでくれました。

 

怒・・・。

確かに怒ると相当恐い。

OBの皆様も“山本先輩は恐い“というイメージを持っていらっしゃる方が多いと思います。新宿の繁華街では、山本先輩が歩くとモーゼの十戒のように道が開けたことは否定しません(笑)。ですが、山本先輩は決して一生懸命取り組んでいる相手に対しては怒ることがなかったように思います。自分が真剣であるがゆえに、他人の中途半端な姿勢が許せないという気持ちを素直に表す方だったのだと思います。私も何度か怒られたことがありますが、いつも結局は自分の行動に対する気持ちの甘さを痛感させられることが多かったような気がします。

 

哀・・・。

彼が流す涙は真剣そのもの。

私は山本先輩の涙を何回か拝見しました。いずれも開成バレー部の練習や試合の後で、「開成バレー部を強くするには?」「開成バレー部の部員を本気にさせるには?」というテーマで夜通し語り合い、現役が試合に負けたことへの悔しさや、開成バレー部がOBを含めて本気で取り組んでいないことへの口惜しさを本気で悲しむ姿でした。我々は山本先輩の開成バレー部への真剣な姿勢を目の当たりにする中で、OBとしてできることをしなければならないという気持ちにさせられていた気がします。

 

楽・・・。

ここについては、開成バレー部からは少し離れてしまいますし、詳しくは語れないことが多いので、詳しくは割愛しますが、とにかく山本先輩には色々な裏の世界を教えていただきましたし、その世界の中でも常に子供のように楽しむ姿はすごく印象的でした。

 

今思えば、あんな大先輩が20代そこそこの若造の我々に公私ともに真正面から接してくれたことは、本当に感謝しかありません。当時は、まっすぐな眼差しで「周、どう思う?俺ほんとに頭悪いからわからないんだけど、俺が言っていることって正しい?」と問いかけてくると、自分も真剣に考えなきゃと緊張が走る毎日でしたが、青春時代の真っ只中、あのまっすぐな生き方の傍らでご一緒させて頂いたことは、その後の経験にすごく活かされているような気がします。本当に感謝しかないです。ありがとうございました!色々と勉強になりました!超楽しかったです!

 

ご冥福をお祈りいたします。

2021年11月掲載

旧友 山本さん 

麻布学園 昭和38年卒 嶋田 駿太郎

今年の2月末、開成学園バレーボール部OBHPへの寄稿文原稿をお送りしたところ松原開成OB会長から私と同期の山本純一さんの訃報をお聞きしました。

正月4日、火事による不慮の死とのこと。

今年もいつもと変りなく年賀状を頂いていたのに・・信じ難いことでした。

我々も陰では「ハッチャン」とも呼ばせて頂いた山本さんとこの様なお別れをするとは思いがけないことでしたが、その出会いもやはり印象深いものでした。

中学の当時、私は九人制のFCでした。眼前、至近距離で出合い頭にあの気合を浴びた、まさに衝撃的な出会いは忘れ難いものでありました。

その後時が経ちOBとして再会し、開成・麻布定期戦が始まってからはほぼ毎年顔を合わせるようになりました。

私の会社のある渋谷までわざわざ出向かれて夜遅くまで酒を酌み交わしたこともありましたが、基本的には年に一度の交流・・・・でも、中学で出会い、好敵手としてしのぎを削り、バレーボールきちがいが故に無条件に信頼できる、表も裏もなく付き合える同期の仲間、まさに得難い旧友の一人でありました。

これまで「山本さん居るかな、来るのかな」と思いながら定期戦に出かけたものでしたがそれも叶わなくなってしまいました。

麻布バレーボール部同期の故大堀君が生前に言った言葉・・「減ることはあっても増えることのない旧友を大事にしたい」が心に沁みます。

今はただご冥福を祈るのみです。「山本さん、ハッチャン、どうぞ安らかに」

                                     2021年8月掲載

山本純一先輩の写真集

昭和49年卒 松原 秀彰

 山本純一先輩から、ホームページ掲載のために預かった大量の書類から、いくつかの写真を取り上げてみました。

 中学時代、高校時代、OB時代と、山本先輩が我がバレー部をいかに過ごされてきたかが、垣間見える写真だと思います。

 それぞれの写真に簡単なコメントをつけておきましたが、もっと詳しいことが分かる方は、是非、その説明文を幹事会までお寄せ下さい。

                                     2021年8月掲載

   上は山本純一先輩が中学の頃の写真。昭和34年。みんな初々しい(可愛い?)です。

下は三校リーグ(麻布)、昭和36年。

山本純一先輩が高校を卒業直後の写真。     上は中村先生のお葬式の時の記念写真のようです。
昭和39年。みんなほんと若々しい。       下は、同年代の方々との記念写真ですね。

山本純一先輩が若手のOBと豪遊(?)しているときの写真のようです。みんな、楽しそう! 

これも、山本純一先輩が若手OBと飲み会をしているときの写真と思われます。右は、カラオケでしょうか。ただ、左の写真のおどけた様子とは違って、何か悲しい演歌でも歌っているような表情ですね。             

掲載山本純一君(愛称:ハッチャン)を偲んで

昭和38年卒 芥川 修

山本純一君 … 彼からの電話の第一声はいつも「ハチですー!」と、何やらはにかんだ顔を連想させるような調子の声で、自らを愛称の「ハチ」と名乗ったあの声を突然聴く事が出来なくなった。嘘であってほしい現実を未だ信じていないと言う同期の友もいる。

「ハチ」…彼の愛称の由来は当時(昭和30年代)のプロ野球東映フライヤーズ(現日本ハム)の人気捕手として活躍していた山本八郎選手に因んで付けられたものだが、山本八郎選手は稀代の暴れん坊として名をはせており、普段礼儀正しいがけんかっ早く、個性派、暴れん坊で名が知られていて「ケンカはち」「ケンカ八郎」のニックネームで多くのファンを集めていた。

中学3年の夏合宿時、高校の先輩達の誰かは定かでないが、少々気が短くてカッとしやすい中学のキャプテンだった彼に付けた愛称だった。多分指導する先輩達も彼の気迫にてこずっていたのだろう。最初「俺は乱暴者じゃない!」と反発していた彼も、やがて観念したのか自分から「ハチ」と名乗るようになって行った。同時に後輩たちは親しみを持って「ハッチャン」と呼ぶようになった。

私は彼と開成中学入学1年生時同じクラスで、お互い背格好が似ており、同じ市川市内の出身だった為か自然と行動を共にする存在となったが、最初から妙に人懐っこく積極的で、私としては初めて出会った人種で正直ちょっと苦手な感じではあった。

中学2年のバレーボールの授業で〝ヘルシンキオリンピック銀・銅メダリストの上迫忠夫先生″におだてられて?彼を含む何人かの仲間と一緒にバレー部に入部したが、楽しい部活動の意識しかなかったと思われる我々他の部員と比べて、(ハチ)はバレーに関しては実に生真面目で、自然とチームの中心的存在になって行った。

彼のプレースタイルは、常に肩を怒らせて口先をとんがらせ、大声を張り上げてチームを鼓舞し、相手にプレッシャーをかける姿に象徴されるように、試合中彼の声が聞こえないことはなかった。少々オーバーネット気味なのが気になったが、フォワードライトの位置で角度鋭いカミソリパンチが売りの切り込み隊長であった。

彼が更なる真価を発揮したのは中学3年になって監督が上迫先生から新任の中村博次先生に代わってからと言えるだろう。突然練習内容が厳しくなった上、部員全員が頻繁に体育教官室に呼ばれるようになり、色々と問題が投げかけられるようになったが、(ハチ)が常に中村先生の矢面に立ち、我々は彼の後ろで首をすくめて嵐が過ぎ去るのを待つという構図が日常となった。 (ハチ)申し訳なかった…!

しかし、現役時代ファイトあふれる姿でチームを引っ張っていた(ハチ)だが、彼の本当の価値は卒業後の姿にあると私は思う。開成バレー部草創以来の先輩諸氏に礼を尽くす姿勢は当然の事ながら、「俺は開成を卒業したんじゃなくて、開成バレー部を卒業したんだ!」と公言し、卒業後も長い間OBとして部の面倒を見続けた姿に頭が下がる。

開成バレー部70年史を読むと、卒業後30年以上たっても合宿等に度々顔を出した怖い先輩(ハッチャン)の思い出が何件も綴られている。そのスパルタ的指導ぶりは現代では少々問題になるかもしれないが…「名物OB」として親しまれ、厳しい指導が良き思い出として書かれているものばかりである。

きつい練習を課した(ハチ)だが、普段は親身になって相談にも乗り、面倒見の良さに恩恵を受けた後輩も多いと思う。OB会後彼と一緒に帰宅する電車の中で、指導した多くの後輩達のその後の社会での活躍等について嬉しそうに語る(ハチ)の姿に思わず笑みが出てしまう自分がいた。(ハチ)は単にバレーボールが好きと言うよりは、開成バレー部を愛しているんだといつも思えたものである。

開成バレー部の歴史の中に彼が残した足跡は実に長きに渡り、その功績は比類なく大きい。これからは「伝説のOB:ハッチャン」として語り継がれて行くと思う。

 合掌。

                                     2021年7月掲載

          訃報 伊藤清一先生ご逝去 

OB会名誉顧問の伊藤清一先生が、令和311日にお亡くなりになりました。この悲しい知らせは当OB会には、開成バレー部の現役生徒のお母さまからお寄せいただき、また私と同期(昭和49年卒)の柔道部のOB、そして本OB会員の後閑先輩(昭和47年卒)からもご連絡をいただきました。

私が現役の頃、中村先生に呼び出されて体育教官室に入ったとき、伊藤先生の優しい表情に接したことをよく覚えています。また、本年、OB総会の資料を郵便でお送りしたことについての返信のはがきをいただきました。昨年6月に先生が書かれた文面を載せましたので、是非皆さまにも読んでいただきたいと思います。開成バレーボール部OB会として、伊藤先生の当OB会へのご貢献を心から感謝いたしますとともに、在りし日の伊藤先生のお姿を偲びつつ、ご冥福をお祈りいたします。

 

令和31月 松原秀彰(会長)

           昭和49年卒 故岡本氏を偲ぶ会

【昭和49卒 故岡本君を偲ぶ会開催】

2020年118()2019年に亡くなった同期の岡本君を偲ぶ会開催しました。
テーブル奥に岡本君の遺影を飾り、昔の写真や資料を見ながら懐かしみました。
【同期14名出席】

2020年7月掲載

 

              岡本洋君を偲ぶ

昭和49年卒 堀口 健一

 岡本さんとバレー部関係のことは皆さんが書くでしょうからバレー以外のことを。

 私は1987年から1994年までロスアンゼルスに赴任していたのですが、岡本さんは同時期にノースカロライナ州のシャーロッテに転勤してきて、同じ家族帯同の米国勤務という境遇で、会社への不満や米国生活の苦労、家族の悩み等、けっこう頻繁にやり取りし、岡本さんも辛い立場だったでしょうけれど、ひたすら私の立場を慮って聞き手に回ってくれ、それが当時の私にとって大きな支えになっていました。「道灌山の坂ダッシュ10本の後のバレーコートうさぎ跳び2周を思い出せばどうってことないじゃん」。改めて岡本さんのユーモアと誠実さに感謝です。

 もっと若い時ですが、ひときわ鮮明な思い出は、岡本さん、清水さん、丹治さんと堀口の四人で高校2年の春休みに四国一周旅行を決行したことです。誰が言い出したのか、なぜこのメンバーになったのか等記憶がさっぱりないのですが(清水さん、丹治さん、もしおじいさんの記憶が間違っていたら訂正・追加してください。すみません)、バレー仲間で一番気の置けない人たちだったのだと自分では思っています。約一週間、周遊券等を使って宇高連絡船、鳴門の渦潮、かずら橋、室戸岬、桂浜、足摺岬と貧乏旅行。

 なかでも、岡本さんが祖谷渓国の民宿で出された手打ちの十割蕎麦を「まずい、ゴムみたいだ」と言いながら淡々とたいらげたこと、ちょうど四人なのに麻雀もせず、夜遅くまでしゃべって少し酒を飲んで、私は高校生レベルの幼い猥談にはしゃいでいたのに、岡本さんは「むふふ」とむっつりなんとかの笑いで応えていたのが印象的でした。今思えばmatureな、いっしょにいて心から寛げるともだちでした。

 岡本さんとは個人的に約束したことがあって、その後病気や諸々の事情があって話せないままになってしまったのですが、きっと自分はその約束を最後まで守っていくと思います。

ご冥福をお祈りします。

2021年11月掲載

              岡本洋君の想い出

昭和49年卒 松原 秀彰 

私達の学年同期の岡本洋君は、2019年春、この世を去ってしまった。バレー部同期で偲ぶ会をした写真はホームページに掲載したが、山本純一先輩の追悼文特集を読んでいるうちに、無性に岡本君の想い出を書きたくなった。

まず開成時代の彼のバレーボールのプレーについて書く。彼は中学時代、セッターでレギュラーだった。9人制ではフォワードセンターである。オーバーもアンダーもパスは基本に忠実だったと思う。私は彼のトスは打ちやすかった。サーブは高い弾道で変化(振動)の多い、レシーブしにくい球を打っていた。

中学時代の彼らしい話を二つほど紹介する。バレー部の仲間として打ち解けてきた頃(中2か中3)、私は昼休みに岡本君のいるクラスの部屋に遊びに行ったときのことである。彼は、顔の頬を両手で抑えてうずくまっていた。「どうしたんだ」、「S君にぶたれた」、「どうして」、真っ赤に腫れあがってとても痛そうな顔をしかめながら、「パンを食べたあとの袋をベランダから投げたら、S君にたたかれた」。S君は当時確か風紀委員長か何かで、しかも柔道部である、力の入ったビンタは、それはそれは痛かっただろう。私は岡本君に同情するというか、そこ(ビンタ)までしなくても良いのではと思ったが、岡本君はそのきつーいお仕置きを、多少腹は立っていたと思うがじっとこらえて受け入れているようであった。もう一つの話も普段の学校生活のエピソードである。岡本君の家は小平(当時は都内に対して都外とか都下といっていたような?)で、私は中村橋(練馬区)で、一緒に山の手線で帰ることが多かった。私達が話しているとK君(確か上石神井)が寄ってきて、岡本君のことををからかうのである。内容は、「小平なんてほんとド田舎かだようなあ、人住んでるの、スーパーあるの・・・」、ひどいつっこみである。岡本君はたまに反論というか、内容は思い出せないが、気の利いた反抗をタイミング良くするのである、「小平はいいところだよ~・・・」って感じで。二人の会話は本当に傑作な漫才になっていて、私は電車の中で人目を気にせずゲラゲラ笑っていたし、周りの赤の他人もおかしいと思っていたに違いない。岡本君は、いろんな人とのつきあい、とくに個性の強い奴からのつっこみを非常に巧みに、しかもおかしくかわしていく性格(特技)をもっていたと思う。小平の家には仲間と泊めてもらったことがあるが、とても都会的な街並みと、素敵なおうちで、ご両親、お姉さん、お兄さんにもお会いできて、優しくて穏やかなご家族であったことをよく覚えている。

岡本君と私は高2、高3と一緒のクラスとなり、彼は安定して良い成績をとっていて、現役で東大文2に合格し、そして東大のバレー部に入った。私は1浪して東大に入り、かなり迷ったあげく、バレー部に入って、岡本君を「岡本さん」と呼ばねばならない状況になった。とは言っても、二人になったときは「岡本」と呼び捨てだったが。東大バレー部は確か当時4部でそれなりに強く、バレーの上手い選手が揃っていて、岡本君も私もレギュラーにはなれなかった。彼はセッターとしてレギュラー入りを目指していて、彼に頼まれてクラブの時間以外に彼のセッターの練習を頻繁(ほぼ毎日?)に手伝った。1年間、彼とともにどっぷりと大学のバレーの生活につかった。春秋リーグ戦、七帝戦、遠征、合宿、練習(+α)とほぼ毎日、彼と過ごしていたと思う。しかし、私は決心して東大バレー部をやめることにし、彼に「あとは頼む」みたいなことを告げたように記憶している。彼は、4年間、立派に東大バレー部を続け大学を卒業した。

時を遡ってしまうが、岡本君の想い出で、どうしても忘れられないことがある。たしか高校卒業時(3月?)の開成バレー部の合宿に彼も私もあと何人かの同期も参加したとき、たいへんな事件が起こってしまった。「コンビーフ缶事件」と私たちは呼んでいるが、OBなり立てで、はしゃいで、たぶん飲酒して、布団に入って、消灯して、寝静まった頃、岡本君が、「いてー!」と叫んで、電気をつけたところ、コンビーフの空き缶のひっくり返っているものを、彼が踏んでしまい、切れた足(かかと)から血が大量に出ているのである。みんな飛び起きて、応急処置(タオルでぐるぐるまきに)して、救急車を呼んで病院に駆け込んだのである。彼は、包帯で覆われた足をかばいながら帰ってきて、みんな少しほっとしたが、ほんとにたいへんな事件であった。この話は、同期の集まりでは決まって話題になる。

大学時代、私が実家(仙台)に帰るとき、岡本君もついてきて、二人で三陸を旅行した。私もはじめてだったので、三陸の海と山と島の景色と、魚介類の美味しさを二人で堪能した。泊ったのは安い民宿だったが、そこでオーナーと食事の後も少し長く話して部屋に帰って、また二人で話した。ある時、「松原って、地元の人の言ってること、ちゃんと分かっているんだね」と感心されたことがある。民宿のオーナーは都会から来た客と分かっているので、方言はほとんど使っていないのだが、どうもアクセントで彼にはさっぱり分からないみたいだった。「わかんない場合は聞きなおしていいんだよ」と言ったが、どうも彼はその場を乱すのや、相手に失礼だと思うのか、「わからないままでいいよ」という対応だった。これも彼らしい一面であったと思う。

彼は大学を卒業して就職、私は4年生で文京区のアパートにいたが、急に彼から連絡がきて、「そろそろ親元を離れて一人暮らしをしたいので住まい探すのを手伝って欲しい、文京区がいい」ということで、私のアパートから歩いていける場所に適当なアパート(私より高級)が見つかり、引っ越しも手伝って、彼の一人暮らしが始まった。彼はうきうきしていたように思う。たまに二人で夕食や飲み会をした。ある時は、『合コン』をした。女性に「松原さんはいつまで学生でいるの」と、しっかり就職した岡本君と比較されてしまった。彼は、「こいつは勉強が好きでたぶん大学院にいくんじゃないかなあ」と、かえって私の立場を苦しくするコメントをされたような気がする。彼らしいフォローだったかもしれない。

彼の風貌について書く。中学の坊主頭のとき、頭の形でからかわれていた。頭の先がとんがっているとか、三角形とか、あと頭の後ろも出っ張っていた。実は、私も四角形とか絶壁とかでからかわれたので、岡本君がからかわれているとき、次にはこっちに回ってくるといやだな、と思っていた。彼のもう一つの風貌のポイントは、就職後にはやした鼻の下の髭である。「どうして髭をはやすことにしたの」「これまでの顔(髭なし)では目立たないから、髭でもはやして少し個性をだそうと思って」「はあ~」なんて会話をしたと思う。彼の顔は男前だったと思う、高橋幸治に少し似ていたと思う。でも髭はあまり似合っていなかったと私は思う。まあ、彼の価値観の変遷の一つであろう。

最後に岡本君と心の中でやり取りをしたい。「君はあの世に先に行ってしまったが、私もそのうち行くので、また一緒に遊んでくれ。」「いいよ!」って言ってくれるだろう。

2021年11月掲載

矢澤さんを想う

副会長 昭和49年卒 老川 知永

先日矢澤さんのご自宅(法真寺)に矢澤さんと中村先生親子のお墓参りに行ってまいりました。ご存じの方も多いと思いますが法真寺さんは中村先生の菩提寺でもあります。現在は矢澤さんのご長男が立派なご住職となっています。その折矢澤さんの奥様と矢澤さんの思い出をいろいろお話しさせていただきました。

実は私が30代前半からしばらくのあいだ目の病におかされたことがありました。半ばヤケになっていた時期、矢澤さんがことあるごとに連絡をくれて「老川大丈夫か?絶対あせるなよ!時間をかけてもしっかり治すんだ!」と何度も励ましていただきました。本当にうれしかったのを覚えています。そこからあきらめずに治療できたのも矢澤さんのおかげだと思っています。

とにかく矢澤さんは魅力たっぷりの方でした。そしてなによりお茶目です。
ご存命中に自宅に伺った時、矢澤さんの自家用車がおいてありナンバーが『193』でした。矢澤さんに「193ってこれなんか意味あるんですか?」と聞きましたら「よくぞ聞いてくれた。俺は坊さんだから一休(いっきゅう)さんにしたんだよ!」といたずらっぽい笑顔をうかべていたのを思い出します。

また超のつく子煩悩な人で、ことあるごとにお子様たちの自慢をされていました。ある宴席でウニが出たときそれをつまみながら「これウーニーちゃん。うちの娘はムーニーちゃん(オムツ)」と言った後「みんな子供は本当にかわいいぞ―!どんどんつくれよ。」と満面の笑顔をされていました。お子様たちをバレー部の夏合宿にもよく連れてこられていました。 

そんな思い出話を奥様としていくうちに当会ホームページの話題になりました。矢澤さんはアーカイブのあちこちに登場しています。そこで私は奥様にお願いしました。「矢澤さんには多くの後輩がお世話になりました。七回忌という節目に矢澤さん追悼集を是非やりたいと思います。ご家族にも慕われていた矢澤さんです。できれば奥様かご家族に『矢澤さんの思い出』を書いていただけないでしょうか?」

そうしたところ「そういうことなら娘が得意なので娘に書かせましょう。」と快くお受けいただきました。その後お嬢さんから連絡を頂き今回の追悼集に『父の七回忌法要に結婚報告を』というとても素敵な文章を書いていただけることになりました。本当に愛される父親だったんですね。
これを読んだ天国の矢澤さんもきっと喜んでいらっしゃると思います。

矢澤さんはご家族はもちろんのこと多くの開成排球部の先輩後輩の心の中にこれからもずっと生き続けていくことでしょう。あの強い正義感、豪快な笑い、人を引き付ける優しさ。唯一無二ではないでしょうか。

編集者注:掲載した矢澤さんのお写真は、お人柄をよく表していると思いましたので、開成バレー部OB70年史から抜粋し、再掲載させていただきました。

 2022年7月掲載

矢澤俊彦さんの特集記事について 

会長 昭和49年卒 松原 秀彰

上記のように同期の老川さんが矢澤さんのお嬢さんの文章をこのホームページに掲載していただけるように動いてくれました。
私としては、せっかくなので、他の記事もいっしょにホームページに載せたいと思い、一つは関さん(昭和54年卒)に頼んで、矢澤さんのお宅(法真寺)を使わせていただいてOB会の作業をさせてもらったことを書いてもらうことにしました。もう一つは矢澤さんの同期の小泉さんが創部70周年史に書かれた文章と写真を転載することにしました。 

矢澤さんは私達の1年上の先輩で、長きに亘ってたいへんお世話になりました。現役の時、私は矢澤さんには勝手なことを言ってずいぶん迷惑をかけたせいだと思いますが、私にとっては厳しい方でした、かなり叱られました。OBになって矢澤さんがこんなに優しい人なんだと思いました。私も何度かお宅にお邪魔したり、また奥様(久子さん)ともご一緒に飲み会などもさせてもらい、私のことを親身になって心配して(私の結婚?など)いただきました。

OB会会長になることに関しても、背中を強く押してくれました。60歳でお亡くなりになってしまい、もっともっとお付き合いさせていただきたかったです。OB会の活動を、関さんなどが若手OBを集めて作業することを支えてくれたことは、ほんとうにありがたいと思っております。 

今回の特集に関して、矢澤さんの想い出を書いてみたいという方、是非、幹事会に連絡を下さい。

父の七回忌法要に結婚報告を

矢澤佑紀子

2016年の春、2週間で退院すると聞いていた父は入院からたった1ヶ月という短い期間で突如いなくなってしまいました。
亡くなる当日、私たち家族は覚悟をする時間を与えられ、母とわたしは容態が急変したらすぐに駆けつけられるよう病院に泊まることが出来ました。
「交代で寝ようね。」そんな決め事をして、母が意識のない父に寄り添い、わたしは別の部屋で仮眠をとりました。それから数時間後、看護師さんから「容態が急変したら鳴らすからそれが鳴ったらすぐに来るように。」と渡されていたブザーの音で目覚め、急いでICUに駆け付けたものの、父の死に目に会うことはできませんでした。今思えば、母のことが大好きだった父はこの世での最期の時間を母と2人きりで過ごしたかったのだろうと思います。

結婚記念日に大好きな赤ワインと
グラスをプレゼント

わたしの父は、とにかく厳格で頑固な昭和親父でした。
「将来はお見合い結婚をしたらいい」「就職なんてしなくていいから花嫁修行をしなさい」「お父さんみたいな人と結婚してほしいな」そんな時代にそぐわない発言をよくしてくる人でした(笑)

とにかくわたしが、幸せな家庭を築き良き妻として良き母として人生を謳歌することを望んでいたのでしょう。わたしは働きたかったので、父の意向に沿うような人生を送る気は微塵もありませんでしたが、交際相手は自分では自覚のないままに父が求めるような人、父に似たところがある人を選んでいました。
父が認めてくれる人と結婚して、実家のお寺で式を挙げ、白無垢姿を父に見せること、いつしかそんなことがわたしの夢になっていました。
父が亡くなった年、わたしは長年付き合っていた彼と別れることにしました。彼とはわたしが25歳になったら結婚すると言う話までしていましたが、25歳の誕生日を迎える5ヶ月前に父が亡くなりました。
父を亡くし、どんなに足掻いてもわたしが夢見ていた姿は実現できないんだ、と思うと急に恋愛にも結婚にも興味が無くなっていきました。
それから6年間、過労で入院通院するほど馬車馬のように働き、寂しさを紛らすことに徹しました。

まだまだ結婚なんて先の話!と思っていましたが、父の七回忌を迎えた今年、仕事でしか紛らわすことが出来なかった寂しさをすっかり忘れさせてくれるような人と婚約することが出来ました。
結局、わたしが旦那に選んだ人は、父のように優しくてボケもツッコミもできる表情豊かな人です。ただ、身長は父より20センチ高く太っていない、というのは似ても似つかないところです(笑)

カメラを向けるとこのポーズ

心臓の手術で入院中、ハロウィンだったので
お見舞いで仮面をプレゼントして喜んでいる様子

ちょっと変わった話にはなりますが、父はわたしに関わる男の人に、必ずといっていいほどよく球の体積の求め方を質問していました。なぜそんな質問をするのか、なぜ球の体積なのかは誰にもわからないのですが、ふとそんな質問をしていたことを思い出し、試しに旦那に聞いてみたところ、すんなり公式を答えた上にさっぱり分かってないわたしに向かって「この公式は証明が難しくてさ」とダラダラ語ってくるような人でした。きっと父が生きていたら、球の体積の話で盛り上がる、と言う異質な時間が生まれていたことでしょう。
こうして父の7回忌というタイミングで、父が気にいるであろう人と婚約結婚ができたことは、今でも父が「ちゃんと見守ってるよ」と言ってくれているようでなんだか嬉しい出来事でした。

近いうちに、実家で仏前式を挙げる予定です。目立ちたがり屋な父はきっと生きていたら座れないようなど真ん中の特等席を陣取って見ててくれると信じて、長年の夢を叶えたいと思います。

今回このように父との思い出を振り返る機会を下さった、老川さん。貴重な機会をありがとうございました! 私事且つ拙文でお恥ずかしい限りですが、父が大好きだった開成バレー部にこうして関わらせていただけたこと、大変嬉しく思います。きっと父も喜んでいると思います。改めて、ありがとうございました。

私のお誕生日に三人でご飯

成人式の前撮りを三人で 兄は仕事で来れず

矢澤先輩にお世話になったこと(法真寺の思い出) 

昭和54年卒 関 茂和

OB会が矢澤先輩にとてもお世話になったことをホームページに書くように松原会長から依頼されましたので、私が関わったことを思い出して綴ることにしました。

矢澤さんには1994年頃から約20年間にわたりOB会の副会長を務めていただき、OB会全体の運営にご尽力いただきました。会報などの作成や郵送などの作業は、1991年までは松原さんが勤務する東大の研究室に集まってやっていたのですが、松原さんがイギリス留学さらには名古屋転居になってしまい、それができなくなりました。矢澤さんが、「うちに来てやっていいよ。」ということになり、矢澤さんのお宅(赤羽の法真寺)にお邪魔して、約20年間の長い期間、たいへんお世話になりました。次のような段取り(順番)で作業をしたと記憶しています。 

・朝10時頃に赤羽駅の改札口に集合
・(中村先生がお亡くなりになった後は)全員で先生のお墓にお参りして庫裏に集合。
・プリントした会報をホチキス止め。印刷屋に製本を頼んでいた時代はこの作業は無し。
・会員毎に、会費納入状況を確認して、会費納入のお願いまたは会費納入済みのお礼の紙を同封。
・その他、幹事会の葉書等あれば一緒に添付。
・封筒に住所シールを添付してのりづけ(最初は手書き)
・出来上がった封筒を赤羽の中央郵便局まで運んで発送(最初の数年は切手貼り、最後の数年は宅配便
 に取りに来てもらって発送)
 

以上の作業を庫裏の一部屋をお借りして、多い時で10人、少ない時で5人程で10時頃から夕方までの間、作業を行っていました。人選は、その時の幹事長(現役の学生または若手OB)に頼んでいます。学生がほとんどです。現幹事のうち、清水君(昭和59年卒)の代以降の学年の人は一度は参加したことがある人が多いかと思います。
他に参加してくれたOB(平成卒以降)で私が覚えているのは、篠田君、神波君、古野君、今井君、鈴木(大)君、鈴木(周)君、川治君、宮君の代、楓君、石岡君、松尾君、森君、浅川君、小泉君、藤井君、松本君、岡田君等です。(スミマセン、還暦過ぎて記憶力が低下しているので適当な羅列です。) そう、川原&米内三兄弟(の一部?)も参加してくれたと思います。

作業の途中、お昼に出前の中華料理を取っていただき、ご馳走になっていました。「喰いたいだけ何頼んでもいいぞ」、という矢澤さんの言葉に甘えて、若手がとてつもない量を注文するので内心ハラハラしていた記憶があります。ただしいつもきれいに完食です。ちなみに、手伝ってくれた若手OBにはOB会から事務費として3,000円~5,000円程度のアルバイト代を支払っていました。

作業終了後、打ち上げに毎回赤羽の街に全員で繰り出していました。(この飲食代はOB会からは出していません。) 最初の数年は矢澤さんに引き連れられてご馳走になった覚えがあります。平成9年頃から、山本純一さん(昭和38年卒)が参加することが何度かあり、宮君前後の卒業したてのOBとたらふく飲んで、二次会に当時赤羽で有名だった大人の社交場(?)に繰り出した覚えがあります。
赤羽の後も、山本さんはホームグラウンド
(錦糸町近辺)に若手OBを引き連れて三次会。外国語の勉強(?)をしていたと聞いています。

平成14~15年頃からは、私が若手を連れて主に白頭山という焼肉屋に行きました。参加されない矢澤さんから、毎回 “軍資金”として「聖徳太子」今は「福沢諭吉」をいただいていました。ここでも、昼飯をあれだけ喰ったのにまだ喰うか、と感心するほど注文していたような覚えがあります。

矢澤さんがお亡くなりになった後も、「是非お使いください」との奥様の言葉に甘えて、何度か庫裏をお借りしてこの作業を続けました。最後は平成27年か28年頃だったと思います。

最近のOB会からの各人への連絡は、一部郵送が残っていますが、ほとんどはメール連絡になりました。みんなで集まって作業するということはしなくて済むようになったわけですが、矢澤さん、山本さん、松原さんらが若手OB(私は中堅?)と集まって一緒に作業したり飲んだりしたことは、今にして思えばとてもOB会らしい活動だったと思います。

長い期間、作業場を提供していただき、またご馳走してもらった矢澤先輩は精神的にも、物理的にもOB会の太い柱でした。個人的な相談も何度かさせていただき大変お世話になりました。あらためて心からお礼申し上げる次第です。

「創部70周年史(平成29年)からの抜粋、再掲載」

故矢澤俊彦君のこと

昭和48年卒 小泉 哲郎

中学、私学大会3位

矢澤とは50年前にお互い新入部員として、中学校舎前のバレーコートで会って以来の付き合いでした。『クリクリとした目で坊主頭が似合うな』と思ったら、それもそのはずお寺の息子。

バレーコートといっても屋外で地面はコンクリート。フライイングレシーブをすると、ユニフォームが破けたり顎を傷つけたり・・。上下の学年の強力な陣容に比べ、僕らは矢澤以外からっきし弱体で歯がゆかったことと思います。 

矢澤のポジションは、中学では9人制の要であるハーフセンター、高校は6人制のセッター、もちろん中高とも頼りになるキャプテンでした。
岩井の合宿でエロ次(失礼。故中村先生)にどんなにしごかれても、当時の全国高校三冠王中大付属との試合で完膚なきまでにやられても、いつも笑顔で僕らを奮い立たせ引っ張ってくれたことを思いだします。 

昨年3月中旬に開成の同級生から『矢澤君が本日肺の手術を受け無事終了。1週間位したら退院』とのメール。3月23日に『すぐに良くなるだろう』と気楽な気持ちで見舞ったので、1時間以上2人でとりとめのない話をしました。
今考えると、彼は最後のつもりで付き合ってくれたのかもしれません。『リハビリ準備だ』と言って、病室から歩いてエレベーターまでいつもの笑顔で見送ってくれました。

4月15日の告別式当日、少し早めに行って彼が住職をしていたお寺(法真寺)のまわりを見て回りました。これだけ付き合っていながら仕事の話はほとんどしなかったので、開山500年近い法真寺の由来を初めて知りました。
式の最後の挨拶でご子息が参列者に対し、『父の底力と温かさに支えられてここまで来た』と話しておられたのが心に残ります。 

通夜の帰りに高校卒業同期6組の何人かで飲んだ時、誰かが『矢澤はみんなのアイドルだった』と言っていました。本当にいるだけで、みんなが明るく楽しくなる奴でした。

          昭和50年卒 故杉山氏を偲ぶ会

【昭和50/51卒 故杉山君を偲ぶ会開催】
2020年2月10()13年同月に亡くなった同期の杉山君を偲ぶ会を松下君経営の東大前駅近くの中華レストラン「玻璃家(ボーリージヤー)」で開催しました。
1年下の上野君も駆け付けてくれ、ピアノでシャンソンを奏でるなど多才だった裏エース(今風には?ウィングスパイカー)を、おいしい上海料理をいただきながら偲ぶことができました。
残念ながら都合の合わなかった安藤君、木村君、1年下の島川君、上田君も揃った会を催せる日が1日も早く訪れることを祈っているところです。
【写真説明:左から 海老沢・竹内・松下・上野・市村】

2020年7月掲載

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訃報をお伝えしたS38卒の山本さんからお預かりしていた
資料の中から見つけることができました。
中村博次先生のエピソードが満載の文集です。先生を思い出しながら、また我々自身の若い頃を思い出しながら読んでいただけると幸いです。

<中村博次先生追悼文集を読んで>

中村博次先生追悼文集の感想文(あるいは補足説明)が寄せられましたので、ホームページに掲載します。皆さんからのご投稿があれば追加していきたいと思います。