山本純一氏追悼文集

 山本純一先輩(昭和38年卒)、通称「ハッチャン」あるいは「ハチ」は本年(2021年)1月にお亡くなりになりました。松原と関が、最後に山本先輩にお会いしたのは、平成31511日、ご自宅にお邪魔して、OB会の設立の時期についてお話をお伺いしました。その内容は、本ホームページのアーカイブのところに「OB会の設立の時期について」という記事を掲載してあります。山本先輩のその時のご様子は、とにかく私達の来訪を大歓迎してくれたこと、OB会に関する段ボールいっぱいの資料を私達に見せてくれたこと、それらをいったん松原が預かってホームページにできるだけ掲載して欲しいと頼まれたこと、そして松原が持参した仙台のお酒と笹かまぼこで楽しく談笑しました。確かその後、幹事会があるのでお名残り惜しく失礼しました。

 山本先輩のこれまでのOB会への貢献は絶大です。どれだけ多くのOBが山本先輩の激励を受けたり、またご馳走してもらったか、数えきれない多さです。何より、山本先輩はこの開成バレー部OB会を心底愛してくれていたと思います。そこで、それらに対する感謝の意を込めて「山本純一氏追悼文集」を企画することにしました。そして、まず山本先輩と同期である芥川先輩に寄稿文をお願いしました。芥川先輩から原稿をいただきましたので、まずそれをホームページに掲載させていただきます。そして、他のOBの方々から是非、山本先輩の想い出話を追悼文集にお寄せいただきたいと思います。麻布学園の同期の嶋田先輩にも芥川先輩の後にすぐ書いていただけることを承っています。松原も、山本先輩から貸していただいた膨大な資料の中から、何か山本先輩らしいものを見つけてホームページに載せて行きたいと思います。多くの皆様からの寄稿をお待ちしております。

松原 秀彰(昭和49年卒)、関 茂和(昭和54年卒)

20217月掲載

山本純一先輩 追悼の辞 

昭和39年卒 宮崎 直樹 

今年の3月、市川市東菅野の山本純一先輩のお宅のあった場所にお伺いしてみた。住宅地の中の正方形に近い一軒分の敷地が、何もないきれいな赤土の更地になって、茫然とたたずむ私の前に静かに広がっていた。隣家の軒先の樹脂波板の一部が溶融し、溶け落ちて、火事と言う思いがけない事故の名残をとどめていた。

山本先輩は誰に別れを告げることもなく、突然世を去ってしまいました。

私の実家は同じ町内の10分とかからぬところにあり、今は弟一家が住んでいますが、私は開成時代はそこから、学校に通いました。

芥川先輩の書かれた追悼文にもありますように、今からもう60年前になりますが、開成バレー部のチームメートの中で、市川や船橋から総武線で秋葉原に出て、田端まで通う山本先輩を中心とする数人のグループの中に私も加わらせてもらい、高度成長期に向かう世の中のどこまでも明るい未来を体感しながら、練習帰りの満員電車の中で語りあった日々を懐かしく思い出します。 

開成バレー部で山本先輩たちの、昭和38年卒の年代は中学も高校も、ともかく強かった。従って我々39年卒のチームは新チームになるたびにやっていけるのだろうか、と不安になったものです。そのころは(今でもそうだろうが)2学年くらいにわたってレギュラーメンバーが組まれ、9人制において私のポジションは主にバックライトであり、ハーフライトの一人をおいて、その先にエースアタッカーのフォワードライトの山本先輩の大きな姿が見えていることが多かった。

試合に於いて劣勢となり、タイムをとって中村先生が山本先輩らのフォワード陣に、「なぜブロックできないのだ! 出来ないはずはないだろう!見事ブロックしてみろ!!」と声を枯らして檄を飛ばす。プレーが再開され、直後にそれまでどうしても止められなかった相手のエーススパイカーの猛スパイクを見事にシャットアウトし、高らかに雄たけびを上げる「ハチ」の姿に、相手チームは、はた目にも明らかなほど戦意喪失し、そのまま逆転してそのセットを開成がとる姿を何度見てきたことか。

現代のゲームでもよくある情景かもしれない。でもブロック(当時はストップと呼ばれていた)の際のオーバーネットはまだ認められていない時代である。簡単ではないことを、分かって欲しい。

私は多感な十代に文字通り、山本先輩の背中を見て育ち、バレーボールとはこういうものだ、と無意識のうちに叩き込まれていたと思う。山本先輩は部活動において先輩達にはきちんと礼をつくして、我々のお手本となり、厳しく指導してくれた。そして、それ以上に、後輩の面倒を見ることを、生涯を通じて、実践してきた。OB会の際も、特にその後の懇親会においては、上着を脱ぎ棄て、白いワイシャツの袖をまくり上げ、後輩たちのグループの輪の中に飛び込み、肩を抱き、口角泡をとばして、話しまくった。

これは特にどの年度に対して、と言うことは全く無く、すべての年度の新しいメンバーに出会うたびに、おそらく最近まで、数十年にわたって続けられてきた。

もし開成バレー部が厳しい上下関係のもと、仲の悪い学年同士があったりしても猛練習の甲斐あって奇跡の全国制覇を成し遂げた場合と、先輩や上級生が後輩、下級生の面倒をよくみて、上級生、下級生の仲の良いクラブである場合(今みたいに。)と、山本先輩はどちらをよしとしたであろうか。答えは火を見るより明らかです。上級生が下級生の中に溶け込もうとしない部活動、タテの関係の希薄な部活動はいくら強くても意味が無い、と心から思っているはずです。

同時に、中学、高校時代の部活動はこうあるべきだ、という信念を明確に持って、それを実践してきました。バレーは人気スポーツだからといってただ健康の為のりクレーション、同好会では意味が無い、と。

勉強や受験と両立させながら、毎年メンバーが入れ替わり、人数も減ることに悩みながら、開成の名前を背負ってコートに立つ以上、強くなければならない。そのような部活動であり続けることを、山本先輩は我々に教え、要求し、後輩たちに伝え続けてきました。

中村先生はしばしば言っていました。「ハチよ、先生になれ。」教師か講師として開成の教壇に立つ姿を見たかったのは私だけではないでしょう。

 私は私的なことでも、山本先輩に大変お世話になった。もし今、山本先輩にお会いしたら、「おう、宮崎。なにやってるんだ。しっかりしろよ。」と豪快に笑い飛ばされるのだろうか。いや、山本先輩は絶対にそんなことは言わない。きっと「おう、久しぶりだな、その後どうしてた、」とにこやかに語り掛けてくれるだろう。そして「. . . .そうか、いろいろ大変だな。」と親身に話を聞いてくれるであろう。私にとって山本先輩はそういう人です。そしておそらく、誰に対しても。 

開成バレー部とOB会は開成のクラブの中で、もっとも上級生と下級生の仲が良く、先輩が後輩の面倒を見る、タテの絆の強いクラブの一つだと思います。このようなクラブに山本先輩が作り上げてくれたのです。 

山本純一先輩、心から申し上げます。有難うございました。 

          2021年10月9日(土)

                                    2021年11月掲載

我(我々?)の青春時代に多大なる影響を頂いた山本純一先輩を偲んで

平成8年卒 鈴木 周

喜怒哀楽・・・

 

山本先輩を語るにはこれほどふさわしい言葉がありますでしょうか。中途半端を知らず、人間であるがゆえの理性というものに邪魔されることのない、常に極限まで喜怒哀楽を振り切って表現する唯一無二の存在(…あくまでも私の所感ですが、皆様はどうでしょう)、それが山本先輩でした。

 

喜・・・。

感情に任せて恥ずかしがることなく素直に喜びを表現する。

山本先輩自身のことというよりは、開成バレー部の後輩である我々の生活の中にある喜びに対して公私に関わらず自分のことのように真剣に喜んでくれる方でした。練習で何かを学び取ったとき、試合に勝った時、就職した時、彼女ができた時、結婚した時、子供ができた時…、山本先輩は何故かいつも傍で真剣な眼差し(ちょっと怖いくらいの目力でしたが…)で自分事のように話を聞き、私たち自身よりもはしゃいで喜んでくれました。

 

怒・・・。

確かに怒ると相当恐い。

OBの皆様も“山本先輩は恐い“というイメージを持っていらっしゃる方が多いと思います。新宿の繁華街では、山本先輩が歩くとモーゼの十戒のように道が開けたことは否定しません(笑)。ですが、山本先輩は決して一生懸命取り組んでいる相手に対しては怒ることがなかったように思います。自分が真剣であるがゆえに、他人の中途半端な姿勢が許せないという気持ちを素直に表す方だったのだと思います。私も何度か怒られたことがありますが、いつも結局は自分の行動に対する気持ちの甘さを痛感させられることが多かったような気がします。

 

哀・・・。

彼が流す涙は真剣そのもの。

私は山本先輩の涙を何回か拝見しました。いずれも開成バレー部の練習や試合の後で、「開成バレー部を強くするには?」「開成バレー部の部員を本気にさせるには?」というテーマで夜通し語り合い、現役が試合に負けたことへの悔しさや、開成バレー部がOBを含めて本気で取り組んでいないことへの口惜しさを本気で悲しむ姿でした。我々は山本先輩の開成バレー部への真剣な姿勢を目の当たりにする中で、OBとしてできることをしなければならないという気持ちにさせられていた気がします。

 

楽・・・。

ここについては、開成バレー部からは少し離れてしまいますし、詳しくは語れないことが多いので、詳しくは割愛しますが、とにかく山本先輩には色々な裏の世界を教えていただきましたし、その世界の中でも常に子供のように楽しむ姿はすごく印象的でした。

 

今思えば、あんな大先輩が20代そこそこの若造の我々に公私ともに真正面から接してくれたことは、本当に感謝しかありません。当時は、まっすぐな眼差しで「周、どう思う?俺ほんとに頭悪いからわからないんだけど、俺が言っていることって正しい?」と問いかけてくると、自分も真剣に考えなきゃと緊張が走る毎日でしたが、青春時代の真っ只中、あのまっすぐな生き方の傍らでご一緒させて頂いたことは、その後の経験にすごく活かされているような気がします。本当に感謝しかないです。ありがとうございました!色々と勉強になりました!超楽しかったです!

 

ご冥福をお祈りいたします。

2021年11月掲載

旧友 山本さん 

麻布学園 昭和38年卒 嶋田 駿太郎

今年の2月末、開成学園バレーボール部OBHPへの寄稿文原稿をお送りしたところ松原開成OB会長から私と同期の山本純一さんの訃報をお聞きしました。

正月4日、火事による不慮の死とのこと。

今年もいつもと変りなく年賀状を頂いていたのに・・信じ難いことでした。

我々も陰では「ハッチャン」とも呼ばせて頂いた山本さんとこの様なお別れをするとは思いがけないことでしたが、その出会いもやはり印象深いものでした。

中学の当時、私は九人制のFCでした。眼前、至近距離で出合い頭にあの気合を浴びた、まさに衝撃的な出会いは忘れ難いものでありました。

その後時が経ちOBとして再会し、開成・麻布定期戦が始まってからはほぼ毎年顔を合わせるようになりました。

私の会社のある渋谷までわざわざ出向かれて夜遅くまで酒を酌み交わしたこともありましたが、基本的には年に一度の交流・・・・でも、中学で出会い、好敵手としてしのぎを削り、バレーボールきちがいが故に無条件に信頼できる、表も裏もなく付き合える同期の仲間、まさに得難い旧友の一人でありました。

これまで「山本さん居るかな、来るのかな」と思いながら定期戦に出かけたものでしたがそれも叶わなくなってしまいました。

麻布バレーボール部同期の故大堀君が生前に言った言葉・・「減ることはあっても増えることのない旧友を大事にしたい」が心に沁みます。

今はただご冥福を祈るのみです。「山本さん、ハッチャン、どうぞ安らかに」

                                     2021年8月掲載

山本純一先輩の写真集

昭和49年卒 松原 秀彰

 山本純一先輩から、ホームページ掲載のために預かった大量の書類から、いくつかの写真を取り上げてみました。

 中学時代、高校時代、OB時代と、山本先輩が我がバレー部をいかに過ごされてきたかが、垣間見える写真だと思います。

 それぞれの写真に簡単なコメントをつけておきましたが、もっと詳しいことが分かる方は、是非、その説明文を幹事会までお寄せ下さい。

                                     2021年8月掲載

   上は山本純一先輩が中学の頃の写真。昭和34年。みんな初々しい(可愛い?)です。

下は三校リーグ(麻布)、昭和36年。

山本純一先輩が高校を卒業直後の写真。     上は中村先生のお葬式の時の記念写真のようです。
昭和39年。みんなほんと若々しい。       下は、同年代の方々との記念写真ですね。

山本純一先輩が若手のOBと豪遊(?)しているときの写真のようです。みんな、楽しそう! 

これも、山本純一先輩が若手OBと飲み会をしているときの写真と思われます。右は、カラオケでしょうか。ただ、左の写真のおどけた様子とは違って、何か悲しい演歌でも歌っているような表情ですね。             

掲載山本純一君(愛称:ハッチャン)を偲んで

昭和38年卒 芥川 修

山本純一君 … 彼からの電話の第一声はいつも「ハチですー!」と、何やらはにかんだ顔を連想させるような調子の声で、自らを愛称の「ハチ」と名乗ったあの声を突然聴く事が出来なくなった。嘘であってほしい現実を未だ信じていないと言う同期の友もいる。

「ハチ」…彼の愛称の由来は当時(昭和30年代)のプロ野球東映フライヤーズ(現日本ハム)の人気捕手として活躍していた山本八郎選手に因んで付けられたものだが、山本八郎選手は稀代の暴れん坊として名をはせており、普段礼儀正しいがけんかっ早く、個性派、暴れん坊で名が知られていて「ケンカはち」「ケンカ八郎」のニックネームで多くのファンを集めていた。

中学3年の夏合宿時、高校の先輩達の誰かは定かでないが、少々気が短くてカッとしやすい中学のキャプテンだった彼に付けた愛称だった。多分指導する先輩達も彼の気迫にてこずっていたのだろう。最初「俺は乱暴者じゃない!」と反発していた彼も、やがて観念したのか自分から「ハチ」と名乗るようになって行った。同時に後輩たちは親しみを持って「ハッチャン」と呼ぶようになった。

私は彼と開成中学入学1年生時同じクラスで、お互い背格好が似ており、同じ市川市内の出身だった為か自然と行動を共にする存在となったが、最初から妙に人懐っこく積極的で、私としては初めて出会った人種で正直ちょっと苦手な感じではあった。

中学2年のバレーボールの授業で〝ヘルシンキオリンピック銀・銅メダリストの上迫忠夫先生″におだてられて?彼を含む何人かの仲間と一緒にバレー部に入部したが、楽しい部活動の意識しかなかったと思われる我々他の部員と比べて、(ハチ)はバレーに関しては実に生真面目で、自然とチームの中心的存在になって行った。

彼のプレースタイルは、常に肩を怒らせて口先をとんがらせ、大声を張り上げてチームを鼓舞し、相手にプレッシャーをかける姿に象徴されるように、試合中彼の声が聞こえないことはなかった。少々オーバーネット気味なのが気になったが、フォワードライトの位置で角度鋭いカミソリパンチが売りの切り込み隊長であった。

彼が更なる真価を発揮したのは中学3年になって監督が上迫先生から新任の中村博次先生に代わってからと言えるだろう。突然練習内容が厳しくなった上、部員全員が頻繁に体育教官室に呼ばれるようになり、色々と問題が投げかけられるようになったが、(ハチ)が常に中村先生の矢面に立ち、我々は彼の後ろで首をすくめて嵐が過ぎ去るのを待つという構図が日常となった。 (ハチ)申し訳なかった…!

しかし、現役時代ファイトあふれる姿でチームを引っ張っていた(ハチ)だが、彼の本当の価値は卒業後の姿にあると私は思う。開成バレー部草創以来の先輩諸氏に礼を尽くす姿勢は当然の事ながら、「俺は開成を卒業したんじゃなくて、開成バレー部を卒業したんだ!」と公言し、卒業後も長い間OBとして部の面倒を見続けた姿に頭が下がる。

開成バレー部70年史を読むと、卒業後30年以上たっても合宿等に度々顔を出した怖い先輩(ハッチャン)の思い出が何件も綴られている。そのスパルタ的指導ぶりは現代では少々問題になるかもしれないが…「名物OB」として親しまれ、厳しい指導が良き思い出として書かれているものばかりである。

きつい練習を課した(ハチ)だが、普段は親身になって相談にも乗り、面倒見の良さに恩恵を受けた後輩も多いと思う。OB会後彼と一緒に帰宅する電車の中で、指導した多くの後輩達のその後の社会での活躍等について嬉しそうに語る(ハチ)の姿に思わず笑みが出てしまう自分がいた。(ハチ)は単にバレーボールが好きと言うよりは、開成バレー部を愛しているんだといつも思えたものである。

開成バレー部の歴史の中に彼が残した足跡は実に長きに渡り、その功績は比類なく大きい。これからは「伝説のOB:ハッチャン」として語り継がれて行くと思う。

 合掌。

                                     2021年7月掲載