本ページは最新の記事が上になるようにして掲載しています。
掲載記事一覧については、「OBの活躍・近況・趣味・学び」のページをご覧ください。
私の見た“中華人民共和国”
~味わい深い“異なる国”~ (1/4)
末續信博(平成18年卒)
皆様こんにちは。平成18年卒業の末續です。
僭越ではございますが、大変有難い事にお声がけ頂いたので、3回目の寄稿をさせていただきます。
前回の拙稿は2022年11月ごろで、2022年5月から家族とともに中国の広東省広州市に住んで半年頃の事でした。そして、2024年の3月末に、家族全員無事に帰任しました。
今回自分の頭の整理をしたかったのと、私自身に纏まった時間が取れたことも相まって、かなりの長文を書かせていただきました。私の我儘をお許しいただいた事務局・編集部の先輩方には、この場をお借りして大変感謝申し上げます。
さて今回は、「私の見た“中華人民共和国” ~味わい深い“異なる国”~」というテーマで、2年という短い経験から学んだことを包み隠さずお話しさせていただきたいと思っています。
あまりに長くなってしまったので、テーマは全部で7つとし、全部で4回に分けて投稿させていただきます。
第1回
1.渡航、隔離から入国
2.コロナ政策の終焉
第2回
3.私の知らなかった中華人民共和国の文化
第3回
4.パクリから透けて見える思想
5.独自に発展した文化
第4回
6.急速な発展による負の側面
7.垣間見える兆候から、帰国を決断
今回は1と2、入国からコロナ政策終焉までに、現地で何が起きていたかについてご説明します。
前回の投稿時と時期は被ってしまいますが、当時現地からでは言えなかった事も書きましたので、少しでも楽しんでいただければと思います。
1.渡航、隔離から入国
前回私の拙稿を出した時点では、まだ中国本土はコロナ対策期間中で人の移動は制限されていました。その後2022年12月に入り、コロナ対策は終了し、色々な場所に自由に行き来できる時代に突入しました。私は数少ない、コロナ対策中と対策後の両方、そして経済がイケイケだった(あるいはまだイケると思われていた)時代と、完全に沈んでしまった時代の両方を経験した、数少ない出向者となりました。
そこで、今だから話せる、隔離生活とそのコロナ政策の終わり方について、少し振り返りたいと思います。
まず、我々家族が中国へ渡航したのは2022年5月11日でした。
当時はコロナ政策により中国への渡航は短期でもビザが必要(2024年11月23日にやっと30日ビザ免除になりましたね)、さらにビザの取得すら難しい状況に置かれており、ビザ取得に5か月かかった同僚もいたり、家族分ビザのみさらに半年遅らされる人もいたり、一方2か月でサクッと取れる人もいたり、という不確実な状況でした。私が出向の内示を受けたのは2021年12月頭で、そこから家族のビザ申請をスタートしても、本来の現地着任日である2022年3月末の渡航は間に合うかどうかわからない、と言う状況でした。
一方、私の妻は当時二人目の子供を妊娠しており、2022年7月末の出産を控え悪阻の真っただ中でした。よって当初、妻子を連れて行く事は非常に、大変深く迷っていました。当時、私が単身で渡航すると、恐らく出向中は日本へは戻れなくなる、つまり2人目の子供とは立ち合いはおろか、私の何年になるかわからない任期が終えるまでは会えないだろう、と思っていました。というのも、当時はコロナ終息の兆しが見えず、中国では3週間の隔離が必須、かつ私が出向予定だった会社では当時「原則任期中の海外(母国含む)への渡航は禁止」と言われており、かなり出入国のハードルが高かったからです。かと言って、子供が生まれた後に中国に来ようとしても(就労しない)妻子のみのビザ取得が出来るかは不透明、ビザを取得したとしても乳児を二人連れた妻子のみ異国の地で過酷な3週間隔離が出来るとはとても思えませんでした。私は当初「家族には心の底から来てほしいが、中国での隔離・出産・育児を考えると、その負担を背負わせる事にはためらいがある」と正直に告げ、何度も話し合いました。しかし最終的に妻は「絶対に家族は一緒にいた方がいい。私も行きたい」と言ってくれ、中国で出産する覚悟を決めてくれたので、私も腹を括る事が出来、ビザ取得の為の様々な手続きに奔走しました。今でもこれは良い決断だったと思っていますし、覚悟を決めてくれた妻やその決断を応援してくれた現地人事と上司、そして現地での出産経験を共有して不安を取り除いてくれた日本人夫婦には本当に心から感謝しています。
しかし、渡航予定日の3月末になっても「ビザ取得窓口の予約が取れず、目途が経たない」とコーディネーターから連絡が来ます。妻の出産予定日を考えると、6月頭には現地で検診を受けなければ出産は受け付けられない、と中国本土の病院から言われており、3週間の隔離生活を考えると5月中旬までに渡航しなければ、現地での出産は不可、つまり実質渡航不可という状況でした。しかも当時、中国広州と日本の間のフライトは成田から週1便、水曜日のみ。つまり4月に入った時点でタイムリミットまでのフライトチャンスは6回しかなく、ビザ取得窓口の予約が取れてから、ビザがパスポートに押されるまで1週間程度かかるため、4月中旬にコーディネーターから連絡が来なかったら家族での渡航はできないか・・・という状況でした。そして4月第1週が過ぎ、家族の中でも焦りが出ます。そして第2週に入り、私だけビザ窓口の予約が出来ます。そこで「家族にビザが下りなかったら・・・」という考えも現実味を帯び、様々な選択肢を考えていました。そんな中4月第三週、コーディネーターがねじ込んでくれたお陰でついに家族分の窓口予約が取れ、4/26(火)についに家族分のビザがおります。この時の安堵と喜びは今でも鮮明に覚えています。そこから取れる航空券は、4/27(水)では無理。よって5/4と5/11しかなく、それ以降だと出産的にアウト。渡航前PCR、引越や買出しなど考えると4は厳しいと思い、11のフライトを予約したところ、最終的に5/4便は航空会社事情で欠航になったので、まさに本当にギリギリ滑り込みセーフで渡航でき、本当に運と周囲に支えられたな、としか言いようがありません。
写真1:スーツケース×2,ボストンバッグ、段ボール×2,
PCなどが入った10kgのリュックが渡航時の荷物です。
段ボールには子供用おむつと非常食+常備薬を入れていました。段ボールは、消毒液で破れるので注意、と聞いておりビニールで巻きました。色々持って行きたかったのですが、まだ抱っこが欠かせない12kgの子供と妊婦を連れた状態ではあまり多くの荷物を持てない為、荷物の取捨選択はギリギリまで悩みぬきました。
さて、そんなドタバタ劇を乗り越え、やっと中国本土へ入国してからが「隔離生活」の本番です。
今となってはもう隔離される人もいないのですが、せっかくなので貴重な経験として共有させていただきます。
当時の隔離政策では、海外から本土へ入国する人は、3週間の政府指定ホテル隔離。ただし、政府が認めた一部の自宅(or ホテル)に住んでいる方は2週間の政府指定ホテル隔離の後、1週間の自宅ホテルでの隔離が可能、という誰が何週間隔離なのかが正確には書かれていない曖昧なルールでした。
しかも、中国人が入国する場合、隔離されるホテルは指定不可で、どんな環境になるか一切不明。一方で一部の外国人は企業や政府の交渉努力のおかげか、“外国人向けの比較的高級で設備の整った”ホテルで隔離可能、というまた(我々にとってはありがたいけれど)平等ではないルールで運用されていました。
なので、我々は現地のサポートスタッフから「隔離代表者に付いていき、はぐれずに会社が手配したバスに乗り込むように。バスは定員を超えると乗り込めないので、割り込む中国人がいても割り込み返すこと。それ以外の列に紛れ込むとどこに連れていかれるかわからずサポートが出来なくなるので注意。」と指示を受けていました。そして実際、外国人向けであればいいホテルである事を知っている現地中国人が、広州空港で我々日本人の列に気付き、バスに混ざろう・割り込もうとしてきて、我々も何とか乗り遅れないように、必死でバスに荷物を詰め込み乗り込んだのを覚えています。そしてバスにやっと乗りこんだ後も、全く動く事が出来ずトイレにも行けないまま結局ホテルに入ったのは空港到着から7時間後。もちろん理由など教えてもらえません。
ホテル到着後は消毒液を全身やすべての荷物にぶっかけられ、
毎日防護服を着た人が1日数回決まった時間にPCR検査をやりに来るのみで外部との接触は不可。弁当が外に置かれ、ノックをされたら顔を出して取る事は出来るが、ドアを十秒程度空けていると警報音が鳴る上、部屋の鍵も渡されていないので廊下にも出られない、当然廊下には監視カメラ付き、という監禁生活から、中国生活が始まります。
当時は渡航者のチャットで「我々は人間ではなく、社会に害悪な“菌”扱いですね」と冗談交じりに言っていました。それでも、手配してもらった隔離ホテルは、家族バラバラにならずに一部屋にして貰えた上、家族でも十分くつろげる広さと清潔さでした。さらに、日本語でのサポート可、食事も中華と和食の選択可、シャワーとトイレが別で清潔、浴槽もあったので子供とお湯遊びをしてストレス発散していました(写真3)。個人的には部屋からの景色(写真4)も、大陸の広さを感じられて好きでした(人によっては外が見えない部屋、壁と向き合う部屋などもあった)。
他にも、お金を払えばタオルの交換も対応可、掃除は入らないもののゴミは毎日回収、日本のテレビも全チャンネルオンデマンド視聴可能(お陰で子供が助かった・・・)など、快適に生活できるように配慮されておりました。もちろん、新しい環境・人間関係での仕事を遠隔でやらなければならなかった事に加え、渡航前から隔離最終日まで、万が一陽性になったら、妻や子供が体調を崩したら、どうなるか(子供だけ別隔離される可能性もあり)会社でもわからない、と言われていたので家族全員で何とか無事に隔離が終わるよう祈る事しかできず、不安でいっぱいでした。しかしこの「隔離」自体は辛かったもののホテル生活に対する不満は全くと言っていいほどなく、そこは本当にありがたかったと感じています。
特にホテルが用意したちょっとしたお菓子や飲み物がデリバリー可だったのが本当に有難く(写真5-7)、心細い隔離の中、知っている商品が海外でも手に入る事の安心感と、食事の大切さを強く実感する毎日でした。やはり中国への日本人渡航者数が多い事もそうですが、言葉や文化の異なる海外に進出し、企業を成長させてきた先人達の苦労、大使館領事館外交官の努力や交渉があってこそ、こうした待遇が得られるのだと、感謝する日々でした。
そして2週間が過ぎた後、我々は市内にあるサービスマンションへの移動が許されます。そこからさらに1週間隔離生活なのですが、2LDKの部屋、ホテルの食事やお酒も手配可能、さらにコンビニやAEONで買えるものであればホテルの方が代行して買ってくれる、という手厚いサービスになった事、何よりあと1週間で終わる!という前向きな気持ちで、最後はあっという間だったように感じます。
中国本土での生活はそんな隔離から始まったので、6月に外に出て実際の生活が始まってからは何をしても「自由って素晴らしい!」と思え、ある意味隔離によって“洗脳”された状態から新生活をスタートできたのは、良かったのかもしれません笑
2.コロナ政策の終焉
さて、そんなコロナ政策は、前回私が原稿を送った直後ぐらいに終わりを迎えました。当時現地からでは言えなかった事も含め、その時の話をしたいと思います。
2022年5月末まで上海がロックダウンされた事は皆様記憶にあるかと思います。中国では世界に対して「正しい政策によってコロナを封じ込めた唯一の国、中華人民共和国の社会主義こそ世界一」というのを誇ろうとしていました。しかし、2022年後半にもなると、政府の財政的にも、庶民の経済的にも無理が生じてきます。当時中国では感染者をチェックするためにPCR検査を国民に義務付けていました。しかも、48時間以内の陰性証明がないと、商業施設、公共交通機関、に入る事が出来ず、病院など場所によっては24時間以内の陰性証明を義務付けているところもありました。そうなると、国民の約半数が毎日PCRを受けていることになります。地方ではそこまで厳密ではなかったとして、少なく見積もり約1/4の3億人程度は毎日受けていたとしましょう。PCR検査は一回あたり約1万円、というのがおよそ世界での相場で中国でも同じと仮定します。そして中国ではこの検査を20人分同じボトルに入れて行っていました(20人の中で1人でも陽性者が出ると反応するため、“陽性疑い”となり健康コードに通知が出る。再度PCRを指定された医療機関にて一人で受け、“無実”を証明するまでどの施設にも入れなくなる)。これを考慮すると一人当たり500円ですね。そうすると、一日当たりの財政負担は1500億円です。これをこの時点で約2年間半、900日程度続けていたのでこれまでで最低でも135兆円の費用がかかっていたことになります。もちろん、この費用に加え隔離政策の費用、PCR検査場維持費用、オンラインアプリに対する補助費用、店舗への補助金など、他にも費用は掛かっていたはずです。しかもPCR費用に関しては中央政府ではなく、地方政府の財政から出ていたようで、このまま政策が続くと地方政府は財政負担に耐えられくなるのでは、と言われていました。
そして、庶民も不満が抑えられなくなってきます。中国は出稼ぎ労働者が多いため、このコロナ禍では3年以上も地元に帰れていない人もいました。他にもエッセンシャルワーカーは現場に行く必要があり、どうしても移動が生じます。それなのに万が一陽性になったら、前述のような隔離生活+仕事が出来ず収入減+隔離生活の費用は自己負担、と大きなリスクを背負わされるため、毎日気が気ではありません。
くすぶる不満の中、感染力の強いオミクロン株などが出た事で、私のいた広州市でも、11月ごろから徐々に感染者が出てくるようになりました。さらに、出稼ぎ層、低所得者層の多くはルームシェアや狭い地域に密集して住んでいる傾向があり、一人が感染すると拡大をどうしても抑えられません。そして中国では対策で抑え込んだために集団免疫もなく、容赦なくあっという間に広がりを見せてしまいます。
そして11月23日、ついに弊社で私の出勤場所から5mほど離れた隣の棟に感染者が発生します。するとその日の18時半頃、白い防護服たちが会社に侵入しバリケードを作成、なんと当時いた出勤者もそのままにビル丸々封鎖されました。その中には日本人出向者もいて、その方も含めて急に全員白い防護服を着せられます。彼は隔離用の荷物もなく、着替えすら持たない状態でホテルに連れていかれてしまい、日本人出向者達は戦々恐々としていました。
11月26日には、会社からは50km程度離れた、私の住んでいたマンションの近くで感染者が出たため、「地域に住んでいる人たちは外出禁止」という軟禁事件が発生し、私の家族も漏れなく自宅隔離を余儀なくされます。
この国の政策、特にコロナ政策は、“即日or翌日から“と急な事も
多く情報収集が大事で、写真8のように色々な方と連絡して自分の置かれた状況を理解していました。しかしその当時の心境としては半年前の渡航時隔離や、会社で隔離施設に連れていかれた人に比べればマシだと思っていて、マンション内は歩ける(ジム、フロント、レストランには行ける)し、一応通販と出前は接触しなければOKだった事もあり、まだなんとかなるなと余裕すら感じていました。慣れや環境(というか洗脳?)とは恐ろしいものです。しかし一方で、「上海みたいにバリケード設置されて本当に出られなくなったら、いよいよまずいぞ・・・」と思い、食材や日用品の買い込みを始めていました。中国人の友人もものすごく心配してくれ「何かあったら必要物資をなんとかして届けるから何でも言ってくれ!」と自分自身もいつ軟禁されるかわからないのに非常に親身になって助けてくれようとしたのには、今でも感謝しています。
一方で、この時期あたりから中国人SNSの間でもロックダウンに対する恐怖や不満が、私たち日本人にも聞こえてくる程度に大きくなった、というのは感じていました。
友人から、当時送られてきたこの画像の意味は、日本で置き換えると、「真の“東京”は港区、中央区、千代田区だけ」みたいな感じです。当時広州市でも「天河区」だけは中心地なのでロックダウンはしないだろう、と言われていたのに、私の住んでいた五山街道(図の青字)エリア含め図の赤丸以外では軟禁生活が始まったため、「我々が住んでいた所は聖域ではなかった!」という言葉と共に流れた。市民の不満を象徴している画像です。日本ではこういう場合、仮でも記者会見や政府の説明があり、報道やワイドショーで良し悪しは別として好き放題言う場所があるかもしれませんが、この国では、政策に対して政府からの説明のない(足りない)一方的な通知が多く、理由がわからないまま即実行される事が多く、報道含めて異を唱えられないのが特徴です。
そして前回の拙稿で、近くの区でデモが起きた、という事を記載しましたが、これは国民が主張せざるを得ないほど不満が溜まったという事です。これに対しお金のない地方政府も、市民の不満を抑えられなくなっていました。そしてついにこれが「白紙運動」として全国に拡大していきます。この事件は、日本のニュースや香港系Webで情報を聞いていましたが、この統制が厳しい中国でこれが起きるとはいよいよ国の状態が不安定になってきたか、2012年の尖閣問題みたいな事が起きるかもと感じ、ロックダウンそのものよりもこのニュースを耳にした時、正直家族を返した方がいいか、と本気で悩むようになっていました。
しかし、ここから起きた事は、私の想像を超えてきました。私達も軟禁され、いよいよまずいかと感じて数日経った11月30日、急に終わりを迎えます。
これも「どうやら隔離政策は明日で終わるらしい。自由に行動出来るみたい」と、噂が先に来るだけで、対策終了の正式通知というのは結局受け取らなかったように思います。その後いろいろな人と話をし、家にいてもわからないので会社に出勤しました。
その途中、マンションの前やいたるところに昨日まであったPCR検査場(写真10)は跡形もなく消えており、文字通り「そんな施設などなかった」事になっている事に気づきました。たった一日で・・・という社会主義のスピード感に驚きながら、毎日チェックされていたPCR検査結果を見せる事なく会社に入り、「結局公式見解・発表はなんなの???」と本当にわからないまま出勤し、同僚と色々と推察で話をします。
そしてお昼が過ぎたころ、急に日本人出向者のみ集められて説明を受けました。
「皆様、コロナ政策は無事終わり、今後はPCR検査なしで自由に行き来できます。ただし、出向者はリスクを考え、しばらく出張は控え、必要な場合は総経理(支社長)承認制とします。私生活では、普段の買い物や市内の移動であれば問題なく、検査結果をわざわざ出さずに商業施設や各施設に入れるようです。」
と教えてもらい、皆、安堵します。そのまま「ただし注意点があり・・・」と続けます。
「中方(“中国合弁相手側”、“現地側”的な言葉)からの依頼でPCR検査は今後、一切受けないようにとの事です。もし体調が悪くなったとしても、PCR検査は受けずに基本自宅療養してください。発熱したとしても病院に行かず、基本は自宅で治るまで待機です。どうしても辛い場合は人事へ連絡してくれれば、対応を考えますのでそこは遠慮なく。とにかく自分の判断でPCR検査は受けないように。」
と、念を押されます。
つまりこれは、コロナ政策が“成功して終了”としたい政府の意向により、政策後にコロナ感染者は出したくない。感染者が出ないようにするには、PCR検査を受けなければ良い。(保険制度がある)外国人出向者はすぐに病院に行ってしまうだろうから、わざわざ日本人だけを集めて説明した、という事です。
私にとってこの一連の動きは、かなり衝撃的でした。目の前で人命よりも政府のメンツが大事だと言われ、社会主義とはこういう事か、というのを目の当たりにしたからです。
私は、中国人(中方)にはこの意図がどのように伝わっているのか・・・?と疑問に思い、何人か友人と話をしました。結果を纏めると、「PCRを受けるなと言わずとも、PCR検査を今日から有料で一人1万程度以上にすれば、国民は熱が出ても自然とPCR検査を受けなくなる」という事と、「我々だってあんなのは政府の建前だと理解しているが、コロナ政策が終わった事の方が嬉しいから、不満を敢えて言って目を付けられる必要はないだろう」という回答でした。確かにそう言われれば理解はできます。ただ、私にとっては何かがおかしい、というモヤモヤが残り、そこから中国の統治方法や歴史に非常に興味を持つようになりました。
そして皆様も知る通り、その後から外資の撤退が相次ぎます。これは、決して経済が悪化したからだけではない、と私は感じており、恐らくコロナに対する一連の対策を見て、「思想・主義の相容れなさ」に耐えられなくなった企業も一定数いたのだろう、と勝手に思っています。
私もこの一件を通して、中国本土から来る海外への公式情報は大体嘘でからくりがある、そして日本人以上に本音と建て前をうまく使い分けている、と思うようになりました。そして、国民が政府を信用していない、という事の真意にも触れた気がします。つまり国民も政府から全部を教えてもらっていると思っていない、だからこそ自分の身は自分で守る。政府とはwin-winの関係が築けなければ、大きな声を上げたり、暴動を起こしたりして自分の権利を主張する、これが本土の基本的な文化なのだな、と。だからこそ、日本で見かける中国人の方に対して、攻撃的、主張が多い、と感じる事があるのも、普段から家族の安全を守る為に主張する事で生きぬいた彼らにとっては当然の事であり、これが日本人との感覚の違いだろうと思います。自分が得たいモノや守りたい生活は、交渉や主張をして勝ち取る、ただし政府や上の立場の人に目を付けられないように頭を使う、という生き方をしないと、この国では本当に生き残れない、と私自身もこの経験を通して感じましたし、本当の意味での中華人民共和国と言う国の“強さ”と“統治力”を、本質的に自分が理解していなかったな、と深く反省しました。
私にとって、この一連のコロナ政策下の中国を味わえたのは、何事にも代えられない「体験」だったと思います。
蛇足。主義の違いを感じるものとして、私がとても象徴的だと感じた写真です。コロナ政策期間中、繁華街のいたるところで尋常ではない量の消毒液を撒くトラックが走っていました。近くを通られると服が濡れ、匂いも付くので不快で、植物や建物にも悪影響だと思いますが「コロナを封じ込めるために国民は我慢!」という思想のようです。日本でも「みんなの為に我慢」という思想は根強いですが、恐らく日本ではここまではやらないでしょう。何故文字にすると似ていても、結果や政策が異なるのか。ここに違いを強く感じたのです。
今回はここまでです。お読みいただき、ありがとうございました。次回は、現地に住み、現地の方々と交流する中で学んだ中国を、文化的側面からお話ししたいと思います。またお会いしましょう!
2024年12月掲載
天龍村での農作業と木曽路、姫路、鳥取の旅
後編
― 姫路と鳥取の旅 ―
尾鷲仁朗(昭和49年卒)
9月19日から丹治君と共に、大学バレー部の友人M君が住む天龍村で農作業をし、木曽路観光もしてきました。また、私は、いまだ学生の娘が今年1年間は鳥取にいるため、今が好機と皆と別れた後、単独で姫路経由で鳥取にも行きました。今回はその後編「姫路と鳥取の旅」です。
姫路では、姫路城シルバーガイドに案内をお願いし、そこで一緒になった他の二人の方と一緒に姫路城見学をしました。最近、いろいろな観光地で、シルバー人材が丁寧に説明して下さるサービスが有り、手ごろな価格なのでよく使っています。ちなみに、入場料は別に必要ですが、所要時間1時間45分で500円/人でした。
姫路城見学後は、隣接する姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」にも寄りました。好古園は市制百周年を記念して建造された約1万坪の日本庭園で、あまりにも広いので、全てを回るというより、休みながらゆっくりとその雰囲気を味わいました。
姫路から鳥取へは、高速バス「プリンセスバード号」で移動します。姫と鳥からプリンセスバード、うまく名付けるものですね。鳥取のバス停近くまで、娘がレンタカーで迎えに来てくれました。娘のアパートにこれから3泊します。
翌日(9/23)から、鳥取観光です。まずは、鳥取大学に行きました。まだ、夏休み中ということで、学生もまばらです。続いて、白兎海岸沿いにある、因幡の白兎で有名な白兎神社に立ち寄りました。さらに、大分距離が有りますが、たたらの里学習館を訪問しました。我々以外に入館者はおらず、二人のために照明をつけ、説明ビデオを流してくれました。実は、尾鷲家の祖先は「刀鍛冶より身を興し、後鉄砲鍛冶になる。その技術たぐいまれなるを認められ、徳川幕府に召し抱えられる。(後略)」ということで、たたら製鉄とは関係が深いのです。
お昼は、大江の郷自然牧場の大江の郷テラスでとりました。休日ということもあり、多くの人でいっぱいでした。鳥取の食材を使用したメインディッシュを選ぶと、後はビュッフェスタイルでその場でとれたキノコや野菜料理、出来立てほやほやの各種パンが食べ放題です。焼き立てのパンは香りも良く、とてもおいしいんです。そして、値段も手ごろ。
鳥取市街に戻り、車でうろうろ、鳥取県立博物館に駐車、でも閉館まで時間がないので入りませんでした。隣に国指定重要文化財の洋館、仁風閣があります。残念ながら、文化財修理工事のため長期休館中でした。真っ青な芝生の中に真っ白な洋館が浮かび上がり、外観を眺めるだけでもその姿が何とも見事です。すぐ隣に、久松山の山頂にある鳥取城の天守跡に向かう道が有ります。気軽に登り始めましたが、急傾斜で道も荒れており、標高263メートルにもかかわらず、想像以上にきつかったです。でも、眼下に見下ろす鳥取市街の眺めは最高です。
そろそろ日暮れの時間です。日本海に面しているので日没の時間帯が特に美しい、リアス式海岸、岩美町浦富海岸エリアに向かいます。切り立った海岸沿いの細い道を車で進みます。丁度間に合いました。
お風呂はゆかむり温泉で地元の方々と一緒に入りました。宿屋もありますが、宿泊客はいるようには見えませんでした。もうすでに真っ暗です。(写真に指が映り込んじゃいました)
今日(9/24)は早起きをして大山登山をします。大山山頂の標高は1,709メートル、標高780メートルの夏山登山口から登り、往復6時間の計画です。登山道は良く整備されており、昨日の鳥取城天守閣に向かう山道よりもずっと登りやすいです。娘は大学からバレーボールを始め、今も時間を見つけては練習に参加しています。体を鍛えているので、登る速度がとにかく早く、ついていくのがやっとです。写真撮影もほとんど娘任せです。半そでシャツが汗でびっしょりです。気温も低下してきているので頂上手前の避難小屋で着替え、暖かい格好にしました。予定よりも相当早く登った甲斐が有り、頂上では、下の方に一瞬霧が出ましたが、ずっと日差しが届き、ゆっくりと気持ちよくおにぎりを食べる時間が取れました。
さあ、下山です。普段から右膝が痛むので、娘にゆっくり下ってねとお願いしましたが、離される一方です。6合目と5合目の間で、上りとは異なる元谷、行者谷を通る行者登山道を選びましたが、人もまばらです。途中、石が流れ落ちるのを防ぐダムの様になっているところを横断するのですが、今までと異なり明確な道が無く、どこに進むべきかわかりません。しばらく周囲を見回すと、ああ良かった、やっと先の方に人影を見つけました。ここはとても歩きにくく、ここを超えた下りあたりから、右膝をかばうため、もう、左太ももの筋肉が限界を迎えようとしています。
山道を終え、大神山神社奥宮まで来ましたが、ほっとするのもつかの間、まだまだきつい。やっとの思いで街中まで戻りました。頂上で小1時間もゆっくりとしたにもかかわらず、予定より45分も早く下山しました。大山寺参道沿いにある日帰り温泉“豪円湯院”でゆっくりと疲れをいやしました。この1週間で、4つの温泉に入ったことになります。
いよいよ最終日(9/25)です。娘は朝からバレーボールの練習に参加、私は鳥取砂丘に行く予定でしたが、膝痛、筋肉痛、疲労感から、自宅待機にしました。娘の帰宅後、“鳥取砂丘コナン空港”に向かいます。荷物のカートを引きずりながらでも徒歩10分もかかりません。アパートから大学へも徒歩15分もかかりませんので、とても便利なところです。ところで、なぜ鳥取空港にコナンの愛称がついているのかというと、“名探偵コナン”の作者青山剛昌氏が鳥取県北栄町出身だからだそうです。空港ロビーはコナン関係のフィギュアやお土産などでいっぱいです。“スタバ”のない鳥取ですが、昼食は、空港内のレストラン“すなば珈琲”でとりました。ここで、佳子内親王殿下がお食事をされたそうです。また、マツコ・デラックスのテレビ番組でも取り上げられ、彼女の等身大のフィギュアが飾られていました。
この日、娘は私の見送りもありますが、メキシコから来る留学生の出迎えと、その後の各種手続きのサポートの役目が有ります。到着ロビーにはモニターが有り、飛行機が着陸したらわかります。飛行機が着陸したので、急いでセキュリティ検査場に向かい、娘と別れました。私は、その留学生が乗ってきた飛行機で羽田に戻りました。とても充実した一週間でした。
2024年11月掲載
天龍村での農作業と木曽路、姫路、鳥取の旅
前編
― 天龍村での農作業と木曽路の旅 ―
尾鷲仁朗(昭和49年卒)
9月19日から丹治君と共に、大学バレー部の友人M君が住む天龍村で農作業をし、木曽路観光もしてきました。私は、今回で3度目の天龍村での農作業です。また、いまだ学生の娘が今年1年間は鳥取にいるため、今が好機と皆と別れた後、単独で姫路経由で鳥取にも行きました。9/19-9/25の丸々1週間の中身の濃い旅となりました。前編「天龍村での農作業と木曽路の旅」、後編「姫路と鳥取の旅」として2回に分けて報告します。写真だけでも眺めて、皆様が旅する時の参考にしてください。
今日(9/19)、前回同様、新横浜から丹治君の乗車した新幹線ひかり号に乗車、豊橋で飯田線特急伊那路1号に乗り換え、M君が出迎えてくれている平岡駅には11:57に到着です。平岡駅は無人駅にもかかわらず、その駅ビルは、一階がレストラン「竜泉」、二階に改札口、売店、平岡の歴史を記録した展示、三階はホテル「龍泉閣」の客室、四階は温泉「龍泉の湯」となっています。今回は、豊橋駅の駅弁は止めにし、レストラン「竜泉」で出来立てをいただくことにしました。M君のお薦めに従い、丹治君は「ていざナス定食」、私はイワナのフライが2枚乗った「清流丼2枚乗せ」にしました。丹治君とていざナス、イワナをシェアしました。
ていざナスというのは、天龍村の名産で一つ20~25cmもある
でしょうか、米茄子に似た大きな茄子です。米茄子は今までに
和食レストランで何度か食べたことが有りますが、2つに切って田楽味噌を乗せて焼いていたと思います。ていざナスも同様なのですが、肉質が柔らかく、大きさから大ぶりな味を予想するかもしれませんが、そんなことはありません。秋ナスの様な味わいとでもいうのでしょうか、大好きです。私の注文した清流丼は小ぶりのイワナを開きにしてフライにしたものを丼ご飯の上に乗せ、ウナギのたれの様な甘い醤油だれをかけたものです。イワナのフライは柔らかく、頭から尻尾まですべて食べられます。
M君は2人乗りの軽トラから3人でも移動できるようにと
N-Vanに替えていました。昼食後は、明日予定している木曽路への走行に備え、大柄の男3人が乗るN-Vanでどの程度の坂道を登れるか、試しに平岡の高台を目指しました。M君が通った小学校を通り抜け、眼下に平岡ダムも見えます。軽トラに比べ屋根が付いた分車体重量も重く、大男3人乗車、お土産の缶ビール、缶酎ハイを沢山詰めた重い鞄も乗せていましたが、急な坂が続くところではエアコンを切って何とか登ってくれました。後部座席でも狭さを感じません。
午後からは、点在する農地の見回りとオニグルミ拾いをしました。
エンジン付きのキャタピラ運搬車に荷物を載せ、山道を登って
いきます。ところどころにクルミの木が生えており、その下に実が落ちています。ところで、クルミの実を見たことが有りますか?通常我々が目にするのはクルミの実の核、即ち種子の部分です。木になっている時には黄緑色で、大きさは八百屋で売っている大きめのプラム位の実なのですが、それが地面に落ち、果肉が腐り核の部分を取り出すのです。大分拾いましたが、今年は不作だそうです。途中には、M君手作りのミツバチの巣も仕掛けてありました。ミツバチが気に入ってくれれば、住み着いてくれるそうですが今のところ空き家のままでした。
ある程度は整備されているとはいえ、急な山道を上り下りし、
汗だくになりました。お風呂は、平岡駅にある「龍泉の湯」を頂くことにしました。お湯は、昨年行った「お清めの湯」から運んでいるそうで、泉質はアルカリ性単純泉、透明度がとても高く、お湯につかるだけで肌がぬめる感じがし、滑らかになります。アルカリ性の温泉だからでしょう。
汗を流した後は家に帰って飲食タイムです。M君もていざナスを栽培しており、畑から収穫し、手際よく調理し、めんつゆをかけただけのものが実に美味いんです。晩御飯は、M君のいとこが仕留めたイノシシの腿肉を使ったカレーライスです。豚肉を想像しましたが、腿肉のためか、むしろ牛肉を思わせる歯ごたえで、縦に裂けるような感触の肉質でした。こんな料理はレストランではなかなか食べられません。最高!アルコールも、缶ビールから始まり、純米吟醸、ぶっかき氷にいいちこフラスコボトルを注いだオンザロックで楽しみました。いいちこにもいろいろな種類が有るのですね。フラスコという名前だけで、理工系3人組は盛り上がってしまいました。
翌日(9/20)は、農作業ではなく、木曽路に行きます。木曽路というのは中山道の鳥居峠付近から馬籠峠に至る間をいうそうです。今回は、妻籠宿から、馬籠宿に立ち寄り、奈良井宿へ行きます。途中、寝覚の床という景勝地を訪れ、帰りには阿南かじかの湯という日帰り温泉につかり、夕食という予定です。お酒を飲みながら、YouTubeで下見もしました。
朝6時過ぎに起きだし、朝食をとり、8時前には出発です。まずは妻籠宿に向かいますが、天竜川沿いの眺望の良いところで一旦停車。堰止湖でしょうか、無風状態で水面はまさに“鏡のごとし”、深緑の森の木々を映しています。東山魁夷の絵画「緑響く」を想い出します。どこかに白馬がいるのでは、と目を凝らしたほどです。
その後、狙い通り、人出の少ないうちに妻籠宿に到着。街道沿いは写真の様な古い街並みになっています。これらの家々の多くは実際に住まわれているようなのですが、お店もまだ開店されておらず、人の気配を感じませんでした。YouTubeで見た、菓子鋪「ゑびや」のベンチに3人密着して並んで座り、栗きんとんを頂きました。
続いて、馬籠宿に移動。人通りも少しずつ増えてきました。馬籠宿は斜面にあります。近江屋で五平餅を頂きました。五平餅は小判型かと思いきや、ここの五平餅は団子型でした。みたらし団子か、つくね焼きみたいですね。食べている途中で写真を撮っていないことに気づきました。
馬籠宿から奈良井宿までは大分距離が有るので、途中で昼食、信州そばを食べました。さらに進むと、中央アルプス国定公園に指定された「寝覚の床」が有ります。ここ上松町周辺は花崗岩地帯で、木曽川の流れが削り、花崗岩特有の割れ方が大きな箱を並べたような不思議な造形をもたらしている、との説明です。大きな花崗岩の箱を登り降りし、車で座り続ける中で丁度良い運動になりました。
さあ、奈良井宿に着きました。奈良井宿は、馬籠宿とは異なり、平らな場所にあります。奈良井宿の街道を端から端までゆっくりと歩き、帰りは、街道のわきを流れる木曽川に架かった木製の太鼓橋、“木曽の大橋”に立ち寄りました。木曽の大橋は脚橋のない木製の橋としては日本有数の大きさで、樹齢300年以上の檜を用い、木組みで作られているそうです。
帰りがけに、“阿南温泉かじかの湯”に寄って今日も温泉につかり、夕食を取りました。
さあ、今日(9/21)は農作業をしなくては。午後から雨の予報なので、午前中に栗拾いとキウイ畑の下草刈りをします。栗は木になっているものを取るのではなく、落下した“イガ”から栗を取り出します。イガに触れると、軍手をしていても刺さりますので、長靴で踏んで開きます。M君がやると簡単そうなのですが、私がやるとなかなかうまくいきません。取り出そうとすると、イガが指に刺さります。収穫した栗を沢山お土産に頂きました。実は、帰宅後の鬼皮剥き、渋皮剥きが大変なのです。
栗拾いの後は、キウイ畑の下草刈りです。5月に来た時にも下草刈りをし、その後M君が何度かやったそうですが、すでに草ぼうぼうです。隣接した畑の方々も草刈りをしていました。年長の方々ですが、皆さんとてもお元気です。元々は近所にお住まいだったそうですが、大きな町の飯田で日々の生活を送り、日帰りで畑の手入れをされているとのことでした。途中で草刈り機の調子が悪くなりましたが、皆さん集まってきてああだこうだ言いながら工具を持ってきてくださり、部品を交換して修理をしました。その場で、皆さんといっしょに一息入れ、よく冷えた甘いシャインマスカットをふるまわれるがままに、遠慮もせずに沢山いただいてしまいました。いまだ暑い中だったので、これで元気回復です。
シカやイノシシに畑の作物が荒らされるそうですが、我々は動物には遭遇しませんでした。木の下の方になったキウイは鹿に食べられてしまうそうです。
結局、雨はほとんど降らず、夕方、お土産用のスイートバジルを摘みに出ると赤とんぼが集団で飛んでいました。子供の頃には東京でもこのようなシーンがあったのに、今ではとんと見なくなりました。赤とんぼを捕まえては、ナツアカネだとかアキアカネだとか昆虫図鑑で調べたのを想い出します。お土産に頂いたバジルは、サラダに入れたり、バジルソースにしてジェノベーゼ風スパゲッティを作りました。
もう、お別れの日(9/22)です。いつものように、大きなお結びを作ってもらい、始発電車で丹治君と豊橋駅に向かいます。丹治君は豊橋から二川で豊橋市地下資源館、浜松で5月には回れなかったスズキ歴史館に行くと聞きました。私は、姫路経由で娘のいる鳥取に向かいます。(後編に続く)
2024年10月掲載
昭和50/51年卒 合同同期会報告
市村幹史郎(昭和50年卒)
今回も昭和50/51年卒の合同同期会を、昨年10月以来となりますが、松下君のお店、都営地下鉄大江戸線東大前駅近くの「ボーリージャー」で8月19日に開催しました。
今回は遠方のひとりを除いて全員が顔を合わせることが出来ましたが、出席者のうち一人を除いて何らかの病を患ったものの全快、特にうち二人が51年卒の上野君(先生)の執刀のお世話になり、元気な姿で顔合わせすることができました。
途中ゲリラ雷雨に見舞われましたが、楽しいひとときはあっと言う間に過ぎ、今後とも合同同期会を開催していくことを期した次第です。
なお、昭和51年卒の上野君は下記の通りの経歴(一部)で、関連のご相談があれば、お役に立てる範囲でお手伝いしたいとのことです。
2010年~2019年 がん研有明病院 大腸外科部長
2020年~現在 虎の門病院 消化器外科特任部長
2024年9月掲載
昭和54年卒 同期会報告
熊谷達範(昭和54年卒)
2024年8月10日、秋葉原クラフトビールタップにて同期会をしました。2023年6月に関会長が就任して、同期8人のうち6人が集まる最初の会になりました。当日は皆様ご都合を合わせ、特に井手本副学長は東京理科大オープンキャンパス野田から駆けつけてくれました。猛暑の中、ドイツ・ベルギービールなどを飲み放題で堪能しました。
2024年8月掲載
昭和49年卒 同期会報告
青木秀夫(昭和49年卒)
49年卒の青木です。
7月20日(土)に開成正門前の「一合」で同期会が開催されました。
当日は東京でゲリラ豪雨があり、足立の花火大会が急遽中止になりましたが、ちょうど宴会の真っ最中で、助かりました。
我々49年卒の同期は、毎年ほぼ二回のペースで飲み会を開催しており、今回は同期19名(内、岡本君、松原君の両名は既に鬼籍入り)のうち、石塚、井上、老川、尾鷲、柏女、清水、高塚、丹治の諸兄と、小生の計9名が集まりました。
会話の内容は今回参加できなかったメンバーの近況確認(怪我、体調不良、入院等)、古稀を迎えた各自の報告では、家族や病気、趣味の話、そして日々の生活パターンが話題となるのですが、まだ現役で第一線で仕事を頑張っている人、現役を引退してもまだ仕事にかかわっている人、完全に仕事から引退して年金生活に入った人など、皆さんの近況を聞きながら、美味しいお酒と料理で、楽しい時間を過ごしました。
次回は来年の1月を予定しており、また皆さんの元気な顔を拝見できることを楽しみにしています。
2024年8月掲載
天龍村での農作業と浜松観光
尾鷲 仁朗(昭和49年卒)
昨年10月に続き、同期の丹治君と天龍村と浜松に行ってきましたので写真満載で報告します。もし、時間がございましたら、前回の寄稿もご覧くださいね。さて、なぜ浜松に行ったのかというと、私が仕事を頂いている特許ライセンス・エージェント会社(U社)の、ライセンサー会議が浜松であり、その会議後のレセプションと翌日のアクティビィティに参加するためでした。せっかく浜松に行くのならさらに足を延ばして、大学バレー部の友人(M君)が暮らす天龍村にも寄りたいなと丹治君にも声をかけたのです。U社のご厚意により、そのレセプションとアクティビィティへの丹治君の参加も了解が得られました。今回は、農作業実習のため5月21日(火)から天龍村平岡で3泊、浜松に1泊の4泊5日の旅です。
<天龍村での農作業>
5月21日の早朝、丹治君は日立から東京(特急ときわ)、東京から豊橋(新幹線ひかり)、豊橋から平岡(特急伊那路)と乗り継ぎ、お昼に到着します。全て特急でも6時間もかかります。私は、新横浜から合流し、4時間で済みました。豊橋駅では、短い乗り継ぎ時間の合間に、3人分の駅弁“秘境駅弁当”とどら焼き風大餡巻スイーツを手分けして買いました。平岡駅は、特急停車駅にもかかわらず飯田線の多くの駅と同様、今は無人駅になっているので、M君は改札を抜けてホームまで迎えに来てくれていました。駅近くのコンビニで買い物をしてM君宅へ向かいます。コンビニの駐車場にある電柱には、季節に合わせて鯉のぼりを携えたユニークな案山子がくくり付けられていました。車でバックするときに、電柱に気を付けてねということなのでしょう。
昼食は、M君宅で“秘境駅弁当”とどら焼き風スイーツ大餡巻を食べました。 大餡巻は1つを3人で分けられる位の大きさなのですが、小倉餡とチーズ餡の2種類、合計6個も入手したので、この後、毎食デザート付となりました。(笑)
最初に、これからの二日半、農作業を行う畑の下見です。鹿などに荒らされないように畑は基本的に柵で囲われています。キウイやブルーベリーはやや斜面に、比較的平らな畑にはトウモロコシの苗や、玉ねぎが育っているところがありました。収穫には少し早いかもしれませんが、一つ抜いてみました。夜、酒のつまみに新玉ねぎのスライスとして食べましたが辛みが無く、美味い。また、ちょっとしたスペースにも、お茶の木、柚子、小麦、ミョウガ、山椒、等々、様々な作物が植えられています。お茶はすでに摘んだ後で、パッケージに入れたものをお土産に頂きました。出来立てのこのお茶は、とてもマイルドでした。また、自家製の小麦粉と全粒粉を混ぜた焼き立てのパンも驚くほど柔らかく、またいい匂いです。
あっ、ハクビシンでしょうか、目の前に小動物が現れました。
我々と目を合わせた後、そそくさと逃げていきました。鹿といえば、今回もM君特性の鹿肉カレーを頂きました。ちょっと古いんだよなとのつぶやきが聞こえましたが、中辛カレー味で煮込まれ、良く熟成された赤身のビーフの様な味と歯ごたえで、これまた最高!本物のジビエです。食べ物では、ミョウガタケも新しい発見でした。普通、ミョウガの花芽を刻んで冷ややっこやざるそばの薬味にしますが、ミョウガの茎の白い部分を刻んだだけの物が引けを取りません。ミョウガの茎は青く(緑に)なりますが、土をかけて白い部分を増やすそうです。「何もない時期には、こんなものも食べるんだ」と言っていましたが、ミョウガの風味とシャリシャリとした歯ごたえが缶酎ハイとよく合いました。
早速、トマトの定植から始めました。草を抜き、堆肥をまいて土と混ぜ、マルチシートをかけて固定、シートに穴をあけ、植え付けるのに適当な穴を掘り、苗を植え付け、水をかけ、支えの竹の棒を刺す、という一連の作業です。きれいにできました。二人とも大満足です。
ピーナッツの定植もしました。「おおまさり」という品種で、前回訪問した時に収穫し、茹で落花生にして食べたものです。また、秋に収穫に来ないと。
畑を耕すのに耕運機も使いました。頭から防虫兼泥除けのネットをかぶっています。耕した後から、こんにゃくの搾りかすや堆肥をまきました。軽トラの荷台いっぱい分の堆肥が数百円だそうです。ここに植えるための苗がまだ育っていなかったので、今回はここまでです。
また、キウイ畑の下草刈りもしました。エンジン式の草刈り機で、円盤状の刃が付いたものと、15cm位の長さのナイロンコードを高速回転させて払って草を刈り取るものがありました。ナイロンコード式の草刈り機は固い物を刈るのには適しませんが、万一キウイの木にあたっても大きな傷を付けないので我々初心者向きです。でも、雑草を刈るには効果てきめんでした。
夜は、M君の手料理と丹治君持参の“いいちこスペシャル”をオンザロックで堪能。皆、量より質を楽しむ歳になりました。天気は曇りがちで、農作業には助かりましたが、夜の抜けるような星空は残念ながらお預けです。
そうそう、昨秋天龍村を訪れた後、東戸塚の、我が家の近所の懐石料理屋の店主とその息子さんに、農作業実習の話をしました。話の流れで、天龍村の農産物を使用することで、お店のアピールにつなげられないかとのことになりました。評価してもらわないと話が進まないので、M君から農産物のサンプルを取り寄せ、店主にためしてもらいましたが、まだ、成果にはつながっていません。簡単なことではありませんね。
<浜松観光>
こんなことをしている間に、たちまち二日半が過ぎました。5月24日(金)の朝、平岡駅にてお別れです。朝食は電車の中でとるようにと、今回もM君が大きなおにぎりを準備してくれました。
豊橋で東海道線に乗り換え、浜松には10:41着。U社のレセプションは6時開始ですので、ホテルに荷物を預けて、翌日の観光コースに入っていない蜆塚(しじみづか)公園と、隣接する浜松市博物館を徒歩で目指します。途中、秋葉神社に立ち寄り、また、名物“浜松餃子”も食しました。蜆塚公園は蜆塚遺跡を中心とする公園で、「約4,000~3,000年前の縄文時代後・晩期のムラの跡」と説明されています。公園には、復元された住居もあり、中に入れます。写真を見てわかるように、内部は広々としています。貝塚遺跡では、背丈以上に積み上がった貝や動物の骨などの膨大な量に驚きました。約1,000年もの間、同じムラで生活したのですから、これだけの量が積み上がるのも当然のことなのでしょう。現代社会の変化の速さに比べ、とんでもなく悠長な時の流れを感じます。
隣接する浜松市博物館には、原始から近代までの浜松の歴史が展示されています。最初に目に入るのがナウマンゾウの骨格模型です(右の写真)。日本となる土地にも大きな象が住んでいたのですね。
U社のレセプションには、特許権者の会議に出席されていた日本を代表する各社の知財/ライセンス担当の方々だけでなく、そのOBの方々も参加されています。総勢50名くらいは参加されていたでしょうか。私は今年の4月からU社の仕事を請負っているので、簡単な挨拶と乾杯の発声を、丹治君も他の初参加の方々に交じって挨拶をしました。立食形式なので、3時間の間にほとんどの方々と話をすることができました。皆とても友好的で、丹治君も多くの方々と話をしていました。
翌土曜日には、ゴルフと観光に分かれてのアクティビティが予定されておりました。私は、前回まではゴルフに参加していたのですが、視力の問題から今回からは観光組に参加することにしました。今回の会議は浜松での開催だったので、宿泊せずに帰られた方々も多く、観光組の参加者は少なめでした。観光組には、フランスからの会議参加者がいたので、ガイドは全て英語で行われましたが、さすがプロフェッショナル、英語でもとても分かり易い説明でした。
浜松ですので、昼食は、豪勢なうな重でした。“生中”も頂いちゃいました。また、「夜のお菓子」のキャッチフレーズでおなじみのうなぎパイファクトリーにも行きました。このキャッチフレーズは、「一家団欒のひとときをうなぎパイで過ごしてほしい」という願いのもと考案されたそうです。売店には、ひときわ目立つ黄金色のパッケージに入った「うなぎパイ V.S.O.P.」が有りました。ええっ!よく見ると「真夜中のお菓子」になっていますよ。皆さん、お土産を沢山購入しました。
お土産を買ったので、まだ早いのですがそろそろホテルにもどります。というのも、このバスは、朝はゴルフ場までゴルフ組を送った後、我々の観光バスとなり、この後はゴルフ組を迎えに行きます。観光組の皆さんは浜松駅に向かいました。丹治君と私は、さらに、浜松科学館に行きました。ここは、子供たちに科学に興味を持ってもらえるように展示だけでなく光、音、宇宙などのコーナーに分けて、体験して興味が持てるように工夫されています。お土産コーナーには本物の化石や、石に埋もれた化石とそれを掘り出すキットも販売されており、中学1年時には地質部にも在籍していた私としてはくすぐられました。そろそろ良い時間になったので、前日に目を付けておいた居酒屋に向かいます。浜松餃子は前日食べたので、ここではガイドさんに聞いておいた“静岡おでん”にしました。おでんは静岡市の名物だそうですが、浜松でも味わうことができました。
浜松駅には、新幹線が1時間に数本しか停車しません。そろそろお開きの時間です。次の農作業実習は10月頃のようです。とても楽しみにしています。
2024年8月掲載
男旅-伊豆の旅編
山本惠一(昭和45年卒)
お待たせしました。久々の昭和45年卒の男旅です。今回はサブタイトルが「全員揃いました編」の予定だったのですが、残念ながら「伊豆の旅編」になってしまいました。まずは、経緯(いきさつ)からお話ししたいと思います。
1. 経緯(いきさつ)
私たちは毎年新年会を2月初めに開いており、今年は2月10日に浅草の飯田屋で行いました。全員が揃う数少ない機会でしたので、今年の旅行についても相談し、伊豆旅行ということで決まりました。全員が参加できるようにということで土日での一泊旅行としました。その後ラインでやり取りし、旅行日は6月22(土)、23日(日)に決まり、参加者は昭和45年卒8人、片野さん(S44年卒)、酒井さん(小石川高校、S45年卒)と関さん(OB会会長)の予定でした。
6月末はバレー部のOB総会があるのですが、OB会会長である関さんも参加するので、問題なしと思っていました。しかし、そうは問屋が卸しませんでした。会場は1年前から予約済みで変更できず、OB総会は6月22日(土)開催とわかったのは、3月30日の麻布との定期戦の前日のことでした。この時点で片野さんと関さんの不参加が決定、その後、小山さんも参加できなくなり、直前の6月19日には浜さんがコロナに感染、旅行は断念となってしまいました。
ということで、「全員揃いました編」はお預け、今回は「伊豆の旅編」となりました。片野さん、浜さんはラインでの参加です。今回の参加者は小川さん、桑田さん、佐藤さん、竹内さん、長嶺さん、酒井さん、山本の7名です。旅の予定、宿の手配、レンタカーの手配はすべて小川さんが行ってくれました。
2.初日
集合は三島駅です(集合と言っても神奈川在住の山本のみが在来線、他のメンバーは新幹線内で一緒でした)。三島でレンタカー2台を借り、沼津の佐藤さん宅へ向かいました。三島でレンタカーを借りると運が良ければ「富士山ナンバー」の車が借りられます。幸先が良いということでしょうか、1台が富士山ナンバーでした。
皆さん、側道という言葉をご存じでしょうか。立体交差になっている交差点で陸橋に入ると直進してしまうため、左折や右折のための陸橋横にある脇道のことです。三島から沼津に行く途中で一か所、大きな道のところで右折するのですが、ここで側道に入れば問題なく沼津に行けるのですが、昨年は陸橋を渡ってしまい迷子になりました。今回の運転手は小川さん。カーナビの案内が「右折し、側道に」と言ったことに気づいたのです。「側道ってなんだ」と言うことになり、交差点に行くと陸橋脇に道があるではないですか。おかげさまで今年は迷子にならずに済みました。三島と沼津がこんなに近いとは。一つ勉強になりました。
さて、今年こそ道を間違わずに佐藤さん宅につけると思ったのですが、もうすぐ佐藤さん宅というところで、話に夢中になり、左折を忘れてしまいした。おかげで予定とは違う道を行くことに。沼津は鬼門ですかね。
色々ありましたが、佐藤さんをピックアップ、いよいよ伊豆に向かいます。今回は梅雨の最中の旅行でしたので、初日こそ快晴でしたが、天気予報によると二日目は雨なのです。そのため、予定を変更し、2日目に予定していた伊豆パノラマパークに向かいました。伊豆パノラマパークではロープウェイで山頂に行けます。山頂から見た富士山と全員の写真をご覧ください。
伊豆パノラマパークの後は天城の「あまご茶屋」でランチです。あまごの刺身、ワサビ定食、そばのおいしいこと。あまごの味そのものはサーモンと変わらないのですが、いくらは黄金色でした。不思議ですね。
ランチの後は天城峠を越えて下田に向かいました。この日の宿は下田ビューホテル。下田から少し離れているのですが、景色は最高です。伊豆七島が部屋からよく見えます。景色最高、露天風呂グッド、ホームページも良くできている(のですが、食事は……)。
3.2日目
朝から雨でした。朝湯の間は小降りだったのですが、時間がたつにつれ雨脚は激しく、風も強くなってきました。観光はあきらめ、宿はチェックアウトぎりぎりに出発、道の駅「天城越え」で休憩、コーヒーを飲み沼津港に向かいました。幸いなことに沼津港に着いたときには雨は上がっていました。
沼津港で行くお店は決まってます。「海鮮丼伊助」です。海鮮丼の種類も多くおいしいのです。そのうえ、アジフライも絶品です。これがビールにもあう。写真で堪能ください。
店の前で記念写真をとり(1名欠けてますが)、佐藤さんを自宅まで送り、三島に戻り解散しました。来年こそ「全員揃いました編」を投稿したいものです。次は久能山周辺の予定です。
以上
2024年7月掲載
平成22年卒 藤井さん近況
藤井 遼介(平成22年卒)
はじめまして、またはご無沙汰しております。平成22年卒の藤井です。貴重な機会を頂戴し誠にありがとうございます。
ここ数年はOB会へも参加できておらず、会報を通して現役の皆様、OB会の皆様のご活躍を静かに見守っておりましたが、この度一つ下の後輩である徳田さんによる素晴らしい寄稿に触発され、拙筆ながら筆を執らせていただきました。
偶然ではございますが、私も徳田さんと同じく2023年の3月から米国ヒューストンで日本企業の駐在員としての生活を開始いたしました。ヒューストンと言うと皆様はどのようなイメージをお持ちでしょうか? ヒューストン宇宙センター、カウボーイ、宇宙兄弟…。せっかくの機会ですので、堅苦しいですが少しだけ米国テキサスはヒューストンについてご紹介させていただきつつ、二番煎じですが米国での生活について後段ご紹介させていただければと思います。徳田さんとやや異なり、日本人駐在員が多数いるヒューストンの“THE 駐在員”的生活の実態(と文句)にどうかお付き合いください。
ヒューストンが位置するテキサス州は、アメリカ合衆国本土南部に位置する人口3,000万人、面積約68万平方㎞(日本の2倍)の大型州です。かつてテキサス共和国としてアメリカ合衆国内で唯一独立国家として成立していた期間があり、またメキシコとの国境線に位置し、複数回領地を巡って争った過去から非常に自州愛が強く、強い自律心をもっています。個人的な所感ですが、自分たちをアメリカ人として以上に“テキサス人”と捉え、ごく自然なこととして自州に誇りを持っており、後述するロデオやカウボーイ文化、BBQ文化等、テキサス“らしさ”を愛する文化性が高い州です。街中を走るとけっこうな数の車にテキサス州の形のステッカーが貼ってあり、自州愛を思い知らされます(埼玉出身の私が埼玉県型のシールを車に貼るようなものと思うと、愛の強さがイメージできるかもしれません)。
アメリカ合衆国併合時は経済が弱く、財政的にアメリカに頼らざるを得ない州でしたが、1901年の原油発見以降、2000年代後半のシェール革命にも後押しされ、豊かな化石燃料をベースとした強固な経済基盤を築き、インフラを自州内で完結させ強力に発展させた州でもあります。2006年以降は全米2位のGDPを誇り、過去25年のGDP成長率は1位と、経済的にも、歴史的にもしたたかに、力強く成長してきた州と言えると思います。
それを支える一つの要因が、移民を含む米国内外からの人口流入です。白人の国のイメージが強いアメリカですが、テキサスはかつてメキシコだった名残、また米国のGDP上位州の中では生活コストが相対的に安いことなどからヒスパニック系人口の流入が多く、既に人口の4割以上がヒスパニック系であり、人口の第一勢力となっています(白人は39%前後)。街中では平然とスペイン語と陽気な音楽が聞こえてきますし、UBER(個人タクシー)に乗れば定期的に英語が話せず、スペイン語しか話せないドライバーと出会います。彼らはメキシコや他の中南米諸国からテキサスに渡り、英語は話せないながらも運転手などの言語ハードルの低い業種に従事し、米国での生活基盤を構築しています。また、ヒスパニック系に限らず、(私も含め)アジア系、黒人も勿論相当数の住人がおり、レストランに入れば白人、黒人、ヒスパニック、アジア系がごく自然に入り混じる光景が見られ、まさに米国の“人種のるつぼ”たる一面を思い知らされます。
このようにGDP、人口ともに急成長を遂げているテキサスですが、急激な経済成長、そして多様な国々からの移民はテキサス州に様々な清濁ももたらししました。ビジネスの一大拠点として発展したテキサスには米国有数の企業も多数本社を構えており、教育水準も収入も高い富裕層が多数住む一方、壮観なビル群が立ち並ぶダウンタウンにも物乞いが徘徊しており、オフィスワーカーが帰宅する深夜には麻薬中毒者やホームレスが散見されます。私の住むアパートメントは築年数が浅く、ビジネスマン家庭向けに設計されており内装・外装ともにとてもきれいですが、一歩外に出て数ブロックも歩けば、怪しげな空き地や粗雑で古い建物が立ち並び、夜になれば出歩くのは危険です。急速な発展による資本の流入とそれを享受する富裕層、貧富・人種の差に苦しみながらもテキサスの懐の深さを求めて辿り着いた貧困層、話す言葉も肌の色も違う人々が共生し、日毎に成長を続ける、そんな画一性の無さがテキサスの魅力の一つかもしれません。
さて、少々俯瞰的な導入となってしまいましたが、テキサス・ヒューストンは既に米国2位のGDPを誇りながらも、人種・ビジネス・文化全てにおいてまだまだ発展の余地を残す“流動する面白い”都市であることが少しでもお伝えできれば幸いです。ここからはざっくばらんに、米国はテキサス、テキサスはヒューストンで1年生活して感じた、“ここが変だよヒューストン”をお伝えさせていただき、いち日本人がテキサスで奮闘する様子を少しでも感じていただけましたら幸いです。
コミュニケーション
当然ながら、母国を離れ、新たな国で暮らす上で最も不安に思うことの一つは言語の壁だと思います。上手く伝わらなかったらどうしよう、相手の言うことが聞き取れなかったらどうしよう、と誰しも不安になるかと思いますが、結論、なんとかなります。先に述べたようにテキサスはそもそも多人種が入り乱れており教育水準も異なるため、カタコト英語しか話せない、またはスペイン語しか話せないような人がたくさんいます。日本人の視点では、道行く人全員がアメリカ人に見え、当然のように英語がペラペラに思えるかもしれませんが、意外と結構な割合の人がカタコトです。
また、真面目な日本人は英語を話す時に文法や単語の過不足ひとつまで気にして「自分は英語が話せない」と思いがちですが、皆さんが日本で遭遇した外国人が「ワタシ ガ アメリカ ヨリ キタ。ドコ ニ トウキョウエキ?」と話しかけられたとしたらどうでしょうか? 意味は何となく伝わりますし、「日本語頑張っているな」と思うのではないでしょうか? アメリカにいるからと完璧な英語を話す必要は無く、カタコトでキーワードになる単語を伝え、指差し、身振り手振りがあれば十二分にコミュニケーションは取れますので、先ずは勇気をもって話しかけてみるのが大事だなと改めて感じております。
米国人は働かない?
皆さんはアメリカ人を含めた外国人の勤務態度についてどのようなイメージを持っているでしょうか。勝手な印象ですが、少なくとも「日本人よりも働き者!きめ細かいサービスでホスピタリティ高い!」と思っている方は少ないのではないでしょうか。私自身、赴任前はアメリカ人の働き方について「日本人よりも働かない。残業もしない。サービスの質は悪い」と思っていました。結果的にこのイメージは半分正解、半分間違いだったと認識を改めているのですが、具体的な事例を交えてアメリカでの働き方についてご紹介させてください。
先ず、サービスの質が悪いことがあるというのは事実です。修理業者が待ち合わせ時間から3時間遅れてくる、依頼した折り返し電話が絶対に返ってこない、依頼した事は大体忘れられる、といった具合で、日本のサービスに慣れている方からすると信じがたいような雑な扱いを受けます。
そして、迷惑をかけられた時も謝られないパターンも非常に多いです。上記のようなトラブルの時も、「OKOK、次は気を付けるよ」と言われるだけで、日本のような「大変申し訳ございませんでした…」的な導入は一切ありません。そして次回も絶対に気をつけてはくれず、同じように適当な仕事をされます。
待てど暮らせど来ない業者を待って週末が1日つぶれる、注文を間違われる、行政手続きでたらいまわしにされる…等、日本での生活を基準にすると、「なんでこんなテキトーな仕事の仕方で生きていけるんだ!?」と驚愕することばかりです。
ただし、これは業種・個人によって大きな差があります。雑な仕事ばかり行う人も非常に多い一方で、日本人も目を見張るほどの働き者もいます。米国で一定以上の教育を受け、頑張れば報われるこの国で評価され、上に登っていこうとするアメリカ人の向上心には目を見張るものがあり、ビジネスマナーひとつとっても一流です。ビジネスのためであれば早朝から深夜まで働くことを厭わず、彼らのような人間が少なくないからこそ、アメリカは今なお世界のリーダーとして君臨し続けられるのだということを痛感します。
仕事への姿勢に限りませんが、日本人の勤務態度やサービスが60点~100点の範囲にあるとすれば、アメリカ人の勤務態度はマイナス100点~プラス120点くらいの幅があります。良くも悪くもピンからキリまでの幅が広い米国においては、働き方ひとつとっても“自由”さが日本とは段違いであることを日々感じています。
驚愕の物価
もはやアメリカの物価が高いというより、日本の物価が安すぎる、ということかもしれませんが、日本から出向している駐在員としては泣きたくなるほど日米の物価差を日々痛感しています。毎日のランチで使うオフィス近くのタイ料理屋では、日本であれば700円程度で買えそうなタイ炒飯を注文すると、トッピングを何もつけなくとも定価で19ドル取られ、しかも近年はチップの平均水準が18~22%まで上昇しているため、最低でも22ドル≒3,500円近くの会計になります。最近なんとヒューストンにつけ麺つじ田が上陸したのですが、チャーシューつけ麺が22.45ドル≒ 3,500円、そこにチップが乗るので約4,200円取られるので、どうしても足が向きません。家賃も高く、2LDKで月々の家賃が3,000~4,000ドル (45~60万円)という家もざらにあります。当然物価そのものが高いので平均給与も高い(バイトの給与でも15ドル = 時給2,400円)のですが、日本人の感覚からするとどうしても慣れません…(せめて食事が美味しければ納得ができるのですが、外食のクオリティで日本には全く及びません)
走る凶器。無保険ドライバーと保険料
テキサス州はアメリカ人の中でもネタにされるほど、自動車運転が荒いことで有名です。そもそも土地が広く、公共交通機関が発展していないため車が無いとほぼ生活が出来ないテキサスでは、大人一人につき車1台を持っていることが一般的です。また、毎日通勤で片道30-50kmを運転する層も多いため高速道路が発展しており、日本では想像もできないような片側7車線~10車線もの高速道路が走っています。これだけであれば自然なことなのですが、テキサス州では以下のような問題の相乗効果で、日本人駐在員にとっては非常に怖い運転環境を強いられます。(徳田さんの寄稿では車が無くとも生活ができると書かれていますが、これはまさしく街・州の違いです。テキサスでは残念ながら公共交通機関は行ける場所が極めて限られている事、治安が悪いこともあって基本的には使えません。)
◆運転免許取得が簡単… 日本では運転免許取得のために、十数万~数十万円のコストをかけて教習所に通うのが一般的ですが、テキサスでははるかに容易に免許が取得できます。自宅で受講できる約6時間程度のウェブ講習を受け(3,000円程度)合格すれば日本で言う仮免状態となり、免許保有者が隣に居れば公道で運転練習ができるようになります(ここまで実技講習無し)。これで運転に慣れた段階で実技試験を受講(これも数千円)し、縦列駐車とごく普通の実技試験を受ければ晴れて免許取得となるため、あっという間に免許を取得できます。
◆とにかく運転が速い・粗い…テキサスではそもそも高速道路の制限速度が日本より速く、場所によっては70マイル≒時速110kmが制限速度となっています。また、決して違法な速度での運転を推奨するわけではございませんが、隣町まで繋がるような一本道では90~100マイル ≒ 時速150~160kmで走っているような車も見受けられ(勿論違法です)、生きた心地がしません。加えて、何故かウインカーを出さない車が多く、時速100km Overで高速を走行しながら、ウインカー無しで縫うように車線変更をしてくる車を毎日のように見かけます。私がこの1年で見かけた最も危険なドライバーは、両手にメイク道具を持ち、バックミラーを使って化粧をしながら、膝立にした足でハンドルを操作して時速110kmで高速を走る17-8歳くらいの女の子でした。
◆無保険ドライバー…これほどまで運転が粗いテキサスでありながら、無保険ドライバーが約20%程度おり、保険をつけていても最低額しかつけていないドライバーが相当数います。この粗い運転で事故が頻発しない筈も無く結構な数の事故が日々起きているのですが、これらの無保険ドライバー、あるいは低保険ドライバーとぶつかって事故を起こした場合には相手の過失であっても自分の保険会社から修理費用が降りることになります。修理費用自体が出るのは良いのですが、当然保険会社からすれば保険に加入している保守的な層からコストを回収しなければならないため、保険料がとんでもなく高額になります。特に、運転履歴の無い日本人新任駐在員などは、1年間の自動車保険料が約60万円程に上ることもあり、4-5年分の保険料で中古車が1台買えるという異常な事態になっています。
こんな事情からテキサスでは頻繁に事故が発生している一方、保険が無くて直せなかったり、保険の等級が下がるのが嫌だったり、といった事情で事故車がそのまま走っているのもよく見かけます。バンパーが無い、ガラスが割れている、ボンネットが閉まらない、ドアが無い車が走っているのを見かけることもあり、毎度驚かされます。
カウボーイ・ロデオ
テキサスに馴染みのない日本人でも、西部劇で見かけるカウボーイのイメージは浮かびやすいのではないでしょうか。特徴的なハット、派手なブーツ、馬に乗って縄を振り回す姿は時代を超えて愛されるテキサスのシンボルの一つだと思います。そんなカウボーイ文化ですが、決して過去のものでは無く、今なお脈々とテキサス人の魂に刻み込まれています。ヒューストンでは年に一度、“ヒューストン・ロデオ”と呼ばれる街を上げたイベントがあり、大きなドームの中でカウボーイたちが暴れ馬に乗っていられる時間を競うロデオや、投げ縄で牛を捕まえるタイダウン・ローピングといった競技で腕を競い合います。ドーム内外には多数の縁日や即席の遊園地が出来上がり、来訪者もカウボーイ・カウガールの格好で縁日を楽しむ、そんなイベントです。日本で言えば、浴衣を着て楽しむ夏祭りに近いイメージでしょうか。こうしたテキサスカウボーイの文化は日々の生活にも強く根付いており、街中でカウボーイハットをかぶっていたり、ブーツを履いている人を見かけても誰も違和感は覚えません。私のような日本人駐在員も、ヒューストン・ロデオの日は似合わないカウボーイルックで競技場に繰り出し、テキサス人の一員になったつもりでお祭り気分を満喫しています。
ホームパーティー・BBQ
外国人駐在員やその奥様が書いているブログ等を見ると、頻繁に自宅でのホームパーティーや広い庭でのBBQの様子がアップされています。「駐在員はパーティーばかりしている」等、決して好意的な感情だけではないコメントをネットで見かける事もありますが、実際の所、本当に駐在員家族はそんなに高頻度でホームパーティーやBBQをしているのでしょうか? 結論から言いますと、たしかに”結構な頻度でやっている“のは事実です。 私自身、年間15~20回程度はホームパーティーやBBQに参加・あるいは主催しており、人付き合いにそこまで熱心でなかった日本時代と比べると生活が一変しているのですが、実際はやむにやまれぬ事情でホームパーティー・BBQを行っています。なんということもなく、単純に”外食が高すぎる“というのが最大の理由です。ヒューストンには日本人向けの和食居酒屋も展開しているのですが、そこで日本と同じように飲み食いをしようものなら、平然と一人150ドル≒23,000円程度の会計になってしまいます。我が家の近所にある居酒屋では、枝豆930円、出し巻き卵1,300円、刺身6種盛り8,600円(1ドル≒155円換算+チップ20%)と、とてつもない金額を請求されるため、結果的に自炊が一番安い、という結論に落ち着きます。また、BBQも日本でイメージするような、お台場の屋上で使用料を払って~といったものではなく、アパートの共有設備の一つとしてBBQピットがいくつも無料で使用可能になっているので、外食で浪費するよりも、スーパーの安い肉を皆でワイワイ焼く方がはるかに財布に優しく、持ち込んだビールと肉で飽きるまで騒いでも、精々40~50ドル程度で済み、経済的にも助かるのでそうしている、ということです(むしろ外食は日本時代よりもぐっと減りました)。
その他、アメリカに来て思ったこと(個人の感想です)
●オーブンで焼く冷凍ピザが安くてめちゃくちゃ美味しい。レンチンピザに戻れない。
●イチゴ・メロン等のフルーツが美味しくない。日本のフルーツの品種改良技術はすごい。
●食事は日本が世界一。和食に限らず日本のレストランのレベルの高さは圧倒的。
●現金を本当に使わない。チップすらデジタルなのでほとんど現金を持ち歩かない。
●なんでも返品できる。不良品でなくても、使用後気に入らなかったら返品できるものも。
●道路コンディションが悪い。(場所に依るが)ボコボコ。日本は本当にきれい(過剰な品質にコストを
かけすぎ?)
●酒癖が悪いのは大体アジア人。
●大体みんな1.2Lくらい入る巨大水筒を持っている。最初はびっくりするが慣れると便利。
●日本旅行に行きたがるアメリカ人の多さに驚く。
●肉を捌く・焼ける男はカッコいいと思い始める(BBQ奉行になる)。
●取引先とのゴルフは週末でなく金曜日。業務時間中にゴルフをして終わったら帰れる幸せ。
さて、ここまで拙筆にお付き合いいただき誠にありがとうございます。
これをお読みになる皆様やそのご家族、友人、知人の皆様の中にも、きっと日本を出て、海外での生活を夢見る・あるいは目前にしている方もいることと思います。生まれ育った土地を離れ、文化も人種も全く異なる土地で生活をすることは生半可なことではありません。特に、日本生まれの私のひいき目はあるとしても、日本という世界でもトップクラスに住みやすい土地に生まれ育った身からすると、どんな国・地域に行ったとしても、日々の生活の中で不便・不安を感じることは不可避だと思います。
一方で、その不便の裏には日本には無い“自由”や“柔軟性”があると、私個人は思います。仕事や生活の一つ一つをとっても、厳密にあるべき姿を規定し過ぎず、自分にも他人にも一定の融通と寛容を持って許す文化は、日本で生活するなかで無意識に自分を縛っていた常識や、“べき論”から人を解放してくれる良いきっかけになるかもしれません。私の身の回りにも、米国での駐在を経て、米国の自由さ、気楽さに魅せられ会社を退職し、現地企業に就職する人が続々と現れています。自分や他人を縛ることを良しとしない自由な文化は、時に貧富の差や差別などの負の側面をも助長する危険性をはらんでいますが、同時にあらゆる可能性を肯定し、チャレンジを後押しすることで米国という国の多様性・成長性を後押ししているのだと感じています。
勿論、「これだから日本は~」などとアメリカかぶれな事を申し上げるつもりはなく、私自身はどこまで行っても日本の米とみそ汁、温泉とホスピタリティが世界一だと信じて疑いませんが、アメリカでの生活の中で、海外移住を検討する皆さんの気持ちが少しだけわかったような気がしています。これから外国での生活を送る方には是非、不便や不安などの負の側面ばかりに捕らわれず、その根底にある文化や価値観の違いに目を向け、「日本より悪い」、ではなく、まず「日本と違う」というところから新しい生活に目を向けてみていただけると、きっと同じ景色であってもより前向きな気持ちでとらえられるのではないかと思います。
冗長な寄稿となってしまいましたが、お付き合いいただき誠にありがとうございます。観光資源が豊富な街ではございませんが、皆様がヒューストンにお越しの際は精一杯おもてなしをさせていただきますので、是非ご一報くださいませ。
2024年5月掲載
平成23年卒 徳田さん近況
徳田 大輔(平成23年卒)
ご無沙汰しております,平成23年卒の徳田です.寄稿のご機会いただきありがとうございます.
2023年の4月からアメリカ合衆国のGeorge Mason大学(ヴァージニア州)でポスドク研究員をしております.開成会のない空白地帯に来てしまいましたので,この場をお借りして生命反応を発信させていただこうと思います.また研究者たるもの再現性が命ですので,研究に関するマニアックな話というより,初めて出身国と出身研究室を出た人間が模索した「アメリカでのポスドク新生活におけるミニマムサクセスについてメモ」として,印象に残った点をかいつまんでお話しします.
写真1:George Mason大学の近くの住宅地(ヴァージニア州フェアファックス).ワシントンDC周辺は桜が多く植えられています.
まず日常生活についてですが,日本で抱いていたイメージと大きく異なることがいくつかありました.まずは「ペーパーレス社会」です.しばしばこの言葉は日本のFAX文化(まだ使っている方すいません!)を揶揄する文脈などで使われており,僕も入国までは「オンライン手続きが発達しているんだろうな」と考えておりました.確かにそういう面もあるのですが,多くの場面で電話が求められます,というか,電話しないと進まない手続きや場面にしばしば出くわします.自分はセンター試験に毛が生えた程度の英語力だったので,これには閉口しました.とはいっても全く心配する必要はありません.大切な行政手続きについては大体文字情報がありますし,会話せざるを得ない場面では相手も正しい英語を話しているとは限らないので!(これはタクシーに乗るとよく分かります,色々な出自の人がみんな異国の地で頑張っています.)
ひとたび手続きが終わると難しい英語も使わずに済みますので,一件落着!かと思えばそうではありません.うっかり油断して買い物に行くと,日本とは全く異なるブランドに面食らってスーパーマーケットの中で立ち尽くすことになります.歯磨き粉1つとっても見たことのない商品から選ばなくてはなりません.牛乳も紙パックではなくペットボトルです.またアメリカでは1つ1つのものがとても大きいので,生活必需品だけを買うにも徒歩では運びきれません.入国直後では車も持っていないでしょうから,1回はオンライン注文でじっくり買い物をすることをお勧めします.アパートであっても部屋の目の前まで配達してくれます.
そのように生活で困る度にインターネットで情報を探す訳ですが,日本語で出てくる情報のほとんどは「駐在妻(この時代ですが,彼ら自身がそう呼称するので僕は躊躇しません)」が発信するものです.貴重な日本語の情報源ではありますが,ここでの最大の問題は,およそ時間の使い方が違うのでしょう,自分の直面している課題に対する最低限の解決策を得るのが困難だということです.備え付けのオーブンを1日がかりで綺麗にする様子や豚バラ肉のブロックを薄切りにする過程などが仔細に記述されていますが,これらはもっと将来の楽しみとしてとっておきましょう.粘り強い情報収集が肝要です.
閑話休題して,次は家と車についてです.日本,特に東京では電車(こだわる人は徒歩?)を前提として家を探しますが,アメリカではまず「自動車を持つのか」という大問題に直面します.こちらはいかんせん現地通貨に乏しい新参者ですし,通行レーンをはじめ運転ルールが違う国でいきなり運転する自信がないので,できることなら自動車は持ちたくない,一方で学生ではないので学生寮にも入れない,さあどうしたものかと悩んでおりました.(ちなみに妻の会社では自動車が会社から支給され,更に馴染みの住宅コンサルタントが紹介されるので流れ作業で入居まで進みます.)
写真2:家探し中の1枚(ヴァージニア州フェアファックス).多くのアパートにはプールが併設されています.
これを解決してくれたのは,大学の運行する無料のシャトルバスです.このバス停の近くに住み,食料品や日用品も配送サービスを利用すれば,実は自動車大国アメリカでも自動車は必須ではありません(ただし空間的にも物的にもいちいち大きいので徒歩で済ますのはとても大変だと思います).自分自身が移動するときはUberやLyftという配車アプリを使えば大丈夫です.
ただし,これはいくら強調しても良いですが,一般のバスや地下鉄の治安は本当に地域に依るので,これは是非確認しましょう.僕はワシントンDCの観光にはこれらを使っていますが,妻の住む地域では危険を感じます.もちろん日々の買い物や週末の行楽に自動車は便利ですが,そこは1人1人の性格とも関係するかと思います.
また僕は住宅探し用Webページで探した結果,恐らく日本人が1人もいないようなアパートに落ち着きました.大学でも日本人には会ったことがありません.研究者として単身で渡米すると日本語を忘れるのも十分ありえますね!もちろん本稿に誤字脱字があってもそれは意図的な演出ではありません.
研究については分野や立場にも依るところが大きいと思いますので簡単に.日本時代も幸せでしたが,アメリカでも大変幸せに日々研究しております.
1番ざっくりした単位として,僕は地球の気候や気象を研究する分野におります.
この分野では全米の大学がUniversity Corporation for Atmospheric Research(UCAR)という組織を結成していて,研究に使う設備(僕の場合はPCサーバなど)は共同で管理されています.
特にすごいなと思うのはITサポートの分厚さです.研究プロジェクトにはかならずソフトウェアエンジニアの人が数人同席しており,技術的なサポートを潤沢に受けられます.また,自分が使いたいデータを他からダウンロードする場合,まずはITサポートに連絡します.何が起こるのかというと,他の人も使いたいということが分かれば,自分1人ではなくそのサポートデスクがデータを共用のスペースにダウンロード・管理してくれます.個人個人でデータやプログラムをやりくりしていた日本時代と比べて,技術的なことに関する手間が大幅に低減しました.
写真3:UCARの運営する研究所の近く(コロラド州ボルダー).ここは自転車での移動が活発です.
精神的なところで言うと,他の組織との連携も盛んで,1つの目標に向かって全員が一致団結して取り組む,という動きを日本よりも強く感じます.何はともあれ人を集めよう,何ができるかはそこから考えよう,という大らかな空気です.George Mason大学内でも"Mason Family"と団結感や愛校心を高揚し続けているので,チームを大切にする精神はアメリカの特徴なのかもしれませんね.寮制や寮歌(嗚呼玉杯とか)を廃止してきた東京大学とは全く別のアプローチです.まあ,これらは歴史的な経緯にも関わってくると思いますのでここでは深く議論しませんが,昨今「ビッグサイエンス」と呼ばれるような大規模プロジェクトにはアメリカ流のアプローチの方が相性が良いのかもしれません.
あと英語力について,少なくとも僕の環境では,アメリカにいるだけでメキメキ上達!ということにはなりませんね….上述の通り僕の貧相な英語力でも少なくとも研究の方はなんとかなってますが.もちろん僕の周りの人(主に上司)がとっっっっっっっっっっっっっても優しいことに負っているところが多いです.アカデミアで非ネイティブと話し慣れていることや,彼らも考え考え話すので日常会話よりゆっくりになることも関係してはいますが,周りの人の優しさに生かされていることを忘れてはいけません.また研究では他人との議論ももちろん大切ですが,9割はその水面下で行われる孤独な作業です.英語でとるリアルタイム・コミュニケーションは,駐在員の方と比べてはるかに少ないのではないでしょうか.結局僕は毎朝英語の勉強を20分ほどしています(日本でやっておけよという話ですが…).
さて,本稿の目的である「自分でも何とかなりそうだな」と思っていただく,というのは達成されたでしょうか…? 3週間程度仮住まいをしながら,法律的なこと(銀行口座の開設とSSNの取得)と大学の事務,住居の決定さえ済めば,後は走りながら考えても十分ですよ! 責任はとれないので軽率なことは言えませんが,少なくとも英語に自信がないからといって尻込みするには,あまりにも貴重でエキサイティングな経験をしております.渡米してからまだ1年ですが,この先アメリカに残るにしても日本に帰るにしても他の国に行くにしても,自分の人生における有形無形の糧になると確信しております.
折角頂戴した寄稿の機会ですが,今後も寄稿が続いて欲しいという願いを込めて,この辺りで筆を置かせていただきます.最初に申し上げた通り,生活立ち上げに関する最大公約数的なことを述べてまいりましたが(今回は敢えて食に関する記述は省きました,長くなりそうなので),これもやはり国や立場によって大きく異なるものだと思います.人間の肉体をもって生きている以上,大義や仕事以前に,生きていかねばなりません.真面目な報告書でも個人のブログでもないこのページは,そのような生活に密着したハウツーを蓄積するには最適な場と存じます.憶測で将来の負担を過大評価するのはとても勿体無いことですので,このページへの皆様の寄稿が,現役・OBが海外に出る時のガイドやお守り?になることを願ってやみません.
2024年2月掲載
昭和56年卒 天明さん近況
天明 宏之(昭和56年卒)
S56卒の天明です。2018年度から5年間OB会幹事長を務めました。予定ではもう少し続けるはずだったのですが本年6月に急にフィリピンへ転勤となり、幹事長を高橋さん(S58卒)に引き継ぎました。どのくらいフィリピンに居るのか全く分かりませんがしばらくはOB会活動に参加できなくなるのが残念です。次の節目となるイベントは2027年に迎える創部80周年になると思いますので、新しい運営体制で是非盛り上げていただきたいと思っています。
さて、そのフィリピン生活はすでに半年経過しましたが、生活環境の立上げや業務習得に忙殺されていることに加え、暑さ(本稿を書いているクリスマスイブでも最低気温は25℃、最高気温が30℃)に中々身体が慣れないこともあり、大好きな山歩きに行けていません。週末に近所をチョロチョロ散歩している程度のフィリピン滞在記になりますことご容赦ください。
海外生活は実は今回が2回目です。1回目は1999年から2008年までのオランダ駐在です。オランダは日本が蘭学・医学を教わった国、小国ながら貿易で栄えた国、風車とチューリップとチーズの国、ゴッホやレンブラントなど名だたる芸術家を輩出した国、サッカーとアイススケートが強い国、等イメージ通りの国でした。付け加えるなら女性(特に奥様)がとても強く旦那はいつも頭が上がらず、残業などもっての他。帰宅途中にちょっと一杯寄り道などは考えられず、さっさと帰宅して家族と夕食が基本。母国語はオランダ語ですが、ほとんどの人が英語を話しますので生活に不自由は無かったです。
ところでフィリピンというと皆さんどんなイメージを
抱くでしょうか。自分は、小野田寛郎さん(1974年)、
若王子さん事件(1986年)、海外への大勢の出稼ぎ(介護士や船乗り)、強権政治で知られた前ドゥテルテ大統領、最近ではニュースで盛んに報道されたルフィー、等あまり多くのことを知らずに赴任しました。右の写真は赴任直後に住んだ住宅街の様子です。空が青く高いのが印象的です。
半年の滞在で感じたところを列挙すると(主に職場体験と日常の買い物・外食に基づきますが)、若い(人口分布はきれいなピラミッド構造)、女性比率が高い(弊社社内も3分の2が女性)、よく働く、とても親切、礼儀正しい、明るい、前向き、等々。一方でもうちょっと頑張ってほしいなぁと思うことは、計画性、最後までやりきること、トイレットペーパーを普通に水洗で流せるようにしてほしい(ペーパーの質と配管の細さの問題らしい)ことですね。計画性については、これは持論になりますが、コメ作りは四季の天候変化に合わせないときちんと収穫できないので日本では計画的に取り組むのですが、フィリピンは1年中暖かい(暑い)のでいつ直播しても収穫でき計画性が無いのだと思います。狩猟民族であるアングロサクソンは獲物となる動物が出てくるのは相手次第なので、別の意味で自ら計画を作って実行することは苦手なのだとオランダで感じました。
こちらに来てバレーボールをする機会があり、久しぶりに楽しみました。社内スポーツ大会として、男子はバスケットボール(この国で一番人気)とバレーボール、女子はバレーボールを職場対抗(弊社の場合は6部門)で定時後に行います。コートは開成バレー部の中学時代を思い起こす屋外です。雨が降ると延期で、またしょっちゅうスコールがあるので、8月11日に始まり10月27日にすべての試合が終了しました。初日にはオープニングセレモニーがあり、各チーム選手がユニフォームを着て工場内をパレードします。
その後、フィリピン国家斉唱の後、日本では今や無くなって久しいミューズ(女神)コンテストがあり、社長(いちおう自分)の挨拶があり、試合開始となります。自分はスタッフ部門の一員としてフル出場しました(写真参照)。膝など少々擦りむきましたがケガもなく、仲間の足もそれほど引っ張らず楽しみました。バスケットボールの試合では女性の甲高い声援(というか、キャーキャーという嬌声)が毎日続きました。
以前、ボッカ駅伝の記事でも紹介した趣味のハイキングですが、未だ雨期が明けておらず実現出来ていません。日本のように自分で地図を片手に山に入るのはダメ、ガイドを付けないといけないということで、年が明けたら、職場の人にまずはお願いして近隣の山(標高1,000mくらい)を手始めに行きたいと思います。日本のようにテントと寝袋を背負って縦走するようなところは無さそうだし、途中で何が出てくるか(毒蛇、毒蜘蛛・・・)分からず、虫に刺されて伝染病になっても困るのでテント泊は止めておきます(笑)。
今、街中はクリスマスイルミネーションがとても綺麗です。日本では雪・冬をモチーフにしたデザインで白色基調の照明が多いように感じますが、フィリピンでは暖色系の色調のイルミネーションが多く、とても目に優しく落ち着いた感じを受けます(右写真はアパート玄関)。12月に入るとそれぞれの事業所ではクリスマスパーティーが行われます。私の職場でも1か月くらい前から各部門でダンスコンテストに向けた練習を定時後にやっていますし、飾りつけを自作したり。
12月に入った土曜日の定時後にパーティーがありましたが、昼過ぎからは会場準備やダンスコンテストに向けた化粧や、当日指定テーマの服装準備やらこちらの人たちは仕事が手に付きません。1,000人超が集まり、17時に社長の開会宣言で始まり、またもやミューズコンテスト、職場対抗ダンスコンテスト(右下写真は入賞チームと)。フィリピン人はみなリズム感が良くほとんどプロの様です、バンド演奏とそれに合わせてダンス、夕方5時に始まって10時にクローズ。アルコールも無しでよくこれだけ盛り上がるもんだという印象です。当然のようにダンスに引っ張り込まれましたが、多分、盆踊りか阿波踊りだったのではと思います。
さて、あと何年フィリピン駐在となるか分かりませんが、せっかくの機会なので、仕事も頑張り、オフも楽しみ、健康に過ごしたいと強く思っている今日この頃です。とにかく若くてエネルギーがある国と人々なので、気持ち先行で無理しない様にしたいと思っています。
最後に、この駄文を読んでいただいた若いOBや現役の方へのアドバイスです。一度でいいから海外で生活してみてください。一度海外に出て自分が生活していた日本を見てみると、日本の常識が世界の非常識だということが良く分かります。そこまで言わなくても、違う価値観の国・社会での生活を経験するのはとても将来役に立ちます。
2023年12月掲載
本物との長い付き合い
― 飯田線周遊の旅 ―
先日、長野県天龍村に住む大学バレー部の友人(M君)宅に、同期の丹治君と共に農作業の手伝いを名目にして、4泊5日の長逗留をしました。丹治君は他の開成バレー部の仲間との木曽駒ケ岳を目指したトレッキングの帰りに5度目の訪問をするそうで、農作業の手伝いに誘われたのです。
M君宅はJR飯田線平岡駅にあり、私は初めての訪問だったので、天竜峡に寄りたい、飯田線の秘境駅を散策したい、少し離れた多治見市にある人間国宝を輩出した「幸兵衛窯」にも行ってみたいと、予定を立てる段階で楽しみがどんどん膨らみます。丹治君とはM君宅で合流し、帰りに豊橋から田原市博物館に行き、「特別展示 ドナルド・キーンと渡辺崋山」展を鑑賞することにしました。
経路は、新幹線、新宿からの長距離バスなどいくつかの候補があったのですが、JR飯田線を走破できる一筆書きの経路にしました。横浜市内発着で、往路は東戸塚駅から横浜線、中央線を経由して飯田線の平岡駅まで、復路は平岡駅から飯田線、東海道新幹線を経由して東戸塚まで、総距離700kmを超えます。
山歩きをするわけではありませんが、天竜峡の散策に備え50年以上前に入手した登山靴を引っ張り出し、ミンクオイルで革に潤いを与え、中敷きも変えました。この靴は、今のトレッキングシューズとは比べ物にならないくらい重たいのですが堅牢で、靴底を2-3回張り替えて使っている年季の入った懐かしいものです。
初日(10/5(木))は、朝4時半に起床、東戸塚5:13の始発電車に乗り、横浜、東神奈川、八王子、岡谷で乗り換え、12:48天竜峡駅で途中下車、ここまでですでに7時間半もかかっています。乗り換え時間はいずれも数分なので、朝食、昼食を持参し車内で取りました。にわか「乗り鉄」です。飯田線には94駅ありますが、多くは無人駅の様です。乗車した列車は3両編成で、駅に停車するごとに車掌さんがホームを走り回って切符の回収、精算をしています。交通系ICカードも使用できません。「お客様対応をしていたため3分遅れの発車です」との車内放送には失笑しました。時間帯によっては、2両編成のワンマン運転もあるようです。
天竜峡では、観光案内所で地図をもらい、書かれている指示に従い、「姑射橋(こしゃきょう)の上に立って、おいしい空気を吸ってから、眼下に見える渓谷を眺め、これから楽しむ遊歩道をチェック!」。遊歩道に入ると鬱蒼とした木々で渓谷が見えませんが、一か所テラスがあり、縦に一筋の岩が見えます。これぞ「竜角峯」だとわかります。
さらに遊歩道を進むと「つつじ橋」に出ます。つつじ橋のたもとには「昇龍泉」と「幸せの鐘」がありますが、昇龍泉はかれていました。一人で幸せの鐘の音を天竜川に響かせました。その後の仲間との幸せな時を暗示するようです。つつじ橋はつり橋で、私の体重と歩く速度に共振し、一足踏み出すごとに揺れが大きくなります。途中で立ち止まり、揺れを抑えつつ渡りました。天竜峡駅の駅員さん、観光案内所の方とお話してから、だれとも出会いません。大自然を独り占め、満喫です。
つつじ橋の先は崩落のため立ち入り禁止となっており、引き返し、全長280m、高さ80mの天竜峡大橋、そして、その下に設けられた歩道「そらさんぽ天竜峡」に向かいます。橋の下部に、檻のような歩道が付いているのが写真からわかりますか。眼下には飯田線の鉄橋が見えます。
天竜峡駅には戻らず、ここから秘境駅ランキング20位の千代駅に向かいます。
秘境駅とは、「周辺に人の暮らしの気配がなく、鉄道以外では行くことの難しい駅」だそうです。車で駅まで行くもできません。
千代駅に向かう途中、数軒からなる小さな集落がありましたが、駅を含め人の気配はありませんでした。
M君には秘境駅ランキング13位の為栗(してぐり)駅まで迎えに来てもらいました。愛車の軽トラはつり橋のだいぶ手前までしか来られません。「これまずいよ」と言いつつ誰もいないのを良いことに危ないところに立ち入ったりしながら、平岡のM君家にたどり着きました。母屋は明治時代に建てられたものだそうで、太い柱や梁は黒光りして重厚感があります。
千代駅に行く途中 こんなところに駅があるの?⇒
二日目(10/6(金))は、丹治君は木曽駒ケ岳を目指してトレッキング中のはずです。私とM君は有田市にある「幸兵衛窯」を見学します。8:30に出発し、途中の道の駅にM君の商品を卸しつつ百数十キロの道のりを軽トラで移動します。山道に入ると、助手席に乗った私は乗り物酔いでダウン。休み休み行ったので、幸兵衛窯に着いた時にはお昼を回っていました。
幸兵衛窯は1804年(文化元年)に開窯した江戸城の御用窯で、六代加藤卓男氏は、古代ペルシア陶器の発掘研究を経て、幻のラスター彩の復元、正倉院三彩の復元などに成功し、人間国宝に認定されています。当主は七代加藤幸兵衛氏、八代が加藤亮太郎氏です。
幸兵衛窯では、翌日からの三連休に「秋のいろどり市」を開催するため準備で慌ただしくしていましたが、一部の作品、穴窯の説明をしてくださいました。穴窯では八代加藤幸兵衛(亮太郎)氏の作品を焼き始めたところで、火の面倒を見ている従業員ともお話ができました。穴窯には温度センサーが設置されており、まだ500度ほどでしたが、1,100~1,200度まで松の薪で焼き上げます。穴窯には、作品が15個くらいしか入っていないのに、山積みの薪を全て使ってしまうそうです。還元焼成し、窯出しの時には素地と表面の釉との収縮率の差により釉がひび割れる“貫入”が入るのですが、秋のいろどり市では貫入が入る音を聞かせるそうです。また、作品を引き出すのは金属棒を使用するのですが、その時にできる傷がまた模様になるとのことで、完全美と不完全美の話題でも盛り上がりました (多少の聞き誤り、記憶違いはご容赦ください)。本物を間近にし、プロとの会話でこのころには、乗り物酔いも吹き飛んでいました。
穴窯は斜面に作られており、上部に回ると空気の出口があり耐熱煉瓦で受ける形になっています。穴窯は何度も使用でき、空気の出口が真っ黒になっておりますが、還元焼成のためなのでしょう。
展示室には歴代幸兵衛の最高の作品が展示されています。ラスター彩は光の当たり方で色が変化し、見る角度により金色に輝いて見えることもあります。こんな素晴らしい作品が覆いもなく、監視員もなく置かれているなんて。
昼食を取るのも忘れて鑑賞しました。コーヒーを飲みながら休憩、丹治君に電話をしたら、とても寒く、木曽駒ケ岳に行くのは止めて千畳敷カールをトレッキングし、温泉に入ってすでに駒ヶ根駅に戻っているとのことでした。急いで遅い昼食を取り、平岡を目指しますが、我々の方が遅くなるため、丹治君には乗り合いバスで移動してもらい、先に家で待ってもらうことになりました。何しろ、家の鍵なんて閉めないのですから。
三日目(10/7(土))は、朝から温泉「おきよめの湯」に行き、大風呂、露天風呂、サウナ、水風呂に入りました。昼過ぎには家に戻り、ビールを片手に庭でバーベキューです。M君が手作りの五平餅とそれにつけるクルミみそを前日に準備してくれていました。大きな貝殻付き牡蠣、畑でとれた茄子なども焼いて、自然の中でどれも美味い。ドローンで写真を撮り、見上げると空にはうろこ雲でしょうか、空が高い。
寝室には大きな蚊帳をつりました。子供の頃に母の実家に行った時以来です。トイレは家の中だけでなく農作業のためでしょう、外にもあります。夜、外のトイレを使った時に空を見上げると、とにかく星だらけで感動です。こんな空を子供の頃に見たような気がするなあ。ノスタルジー。
四日目(10/7(日))、目的の農作業です。まずは、牛蒡を一本丹治君と二人で折らずに掘り上げ、次いで栗拾い。栗が大きい。落花生を一株引き抜くと、大きな殻が沢山ついていてこれだけで二袋分、我々のお土産になりました。後は、一畑分の胡麻を刈り取り、乾燥しやすいように葉を取り除き、縛って軒下に干す作業です。胡麻はさやの中に入っています。ほぼ刈り取ったころに雨が降り出しましたが、何とか間に合いました。一生懸命働いていたので、写真がほとんどありません。
お昼は、M君があっという間にナポリタンを作ってくれました。雨が降り続くので、昼食の延長で、テレビを見、音楽を聴きながら早くも飲み始めました。塩茹で落花生はとろける柔らかさ、帰宅後、家でもやってみました。ピーマン炒め、朝とった牛蒡を使った混ぜご飯、鹿のもも肉を使ったローストベニソン、ソースもM君のお手製です。この鹿肉は、畑を荒らす鹿を駆除したものだそうです。その間にも、餃子の餡を準備しており、丹治君と私は餡包み、後は栗の皮むき程度です。この栗は、栗ご飯にも使用しましたが、ほとんどが我々のお土産になりました。
M君はとにかくフットワークが軽く、かつ手際良く処理していきます。化学科出身のM君いわく、「料理は化学実験のようなものだ」。ちなみに、我々が来る直前まで横浜から奥様が来られていたのですが、奥様は「たまに来るのは良いけれどずっと住むのは嫌」なのだそうです。M君が横浜と天龍村の往復です。
五日目(10/8(月))、名残惜しくも帰る日になりました。平岡駅7:34発の快速電車に乗っても飯田線の終点豊橋駅到着は10:01、2時間半もかかります。M君が大きな握り飯を一つずつ持たせてくれました。丹治君お目当ての「特別展示 ドナルド・キーンと渡辺崋山」は田原市博物館でやっているので、豊橋鉄道渥美線に乗り換えです。
田原藩出身の渡辺崋山は学者で、画家、政治家でもありました。「報民倉」は飢饉に備えた備蓄庫で、天保7から8年にかけての全国的な大飢饉を、田原藩だけが餓死者を出さずに乗り切りました。桜門をくぐると、左手に田原市博物館が、正面の本丸跡には巴江神社があります。巴江神社には田原城主三宅氏の遠祖である児島高徳が祀られています。さあ、博物館に入館しましょう。
渡辺崋山は数え年49歳で自刃するのですが、それまでの濃縮した人生と必要もないのに自分のもとを比べてしまいます。丹治君が集中してみています。それぞれのペースで鑑賞し終え、それなりの疲労感です。蔵王山展望台を目指すには中途半端な時間となり、それでも途中まで歩き雰囲気を味わった後、三河田原駅に戻り、豊橋駅へ。豊橋駅では、缶ビールとつまみの焼き鳥、チーズを入手して、ひかり号15:41発に乗り込みました。
2023年10月掲載
平成18年卒、末續さん近況
平成18年卒業の末續信博(すえつぐのぶひろ)です。
皆様こんにちは。2回目の寄稿となります。
私は2022年5月から、仕事の関係で家族とともに中国の広東省広州市に住んでいます。
世界の分断が危惧される中、近くて遠いこの国を現地で生活しながら感じるという貴重な経験をさせて頂いています。
今回、少しでも中国がどんな国かを伝えられたら良いな、という気持ちで筆を執らせていただきました。
まずは、中国と広州市の基本情報です。
広州市は広東省の省都、広東省の人口は1億2千万人でほぼ日本と同じ、日本人は約7,000人いると言われています。広州市人口は1,200万人で東京とほぼ同じ。北京、上海に次ぐ第3のエリアで、省としては最大、かつGDP No.1です。北京、上海、広東省の政治を任されている党員は中央政府に最も近い、というのは現地の共産党員談で、実際に今回10月の党大会人事でも、その3地域の主要人物が政府中央(政治局常務委員)に昇格したようです。
位置は台湾と同じ緯度ぐらいで、四季がありますが10月末まで30度以上の気温(執筆時11月20日には最高気温29℃でした)。香港・マカオが近く、ITで有名な深圳も抱えているためか、越境者や外国人に比較的理解のある都市です。
ここ10年でGDPが倍以上に伸び、現在も年5%以上の成長率を示しているため、現在の円安と相まって、現地の駐在員は物価がここ数年で倍程度になっている、と感じているようです。
私が最初に着任してから感じたのは、とにかくエネルギーに溢れている、という事です。町中で大規模な建設がどんどん進み、車や人口も密度が日本とは比べ物にならず、人々も活発に我先に、と行き来しています。
生活のしやすさについてお話をすると、イオン、ユニクロ、無印良品、ニトリ、IKEA、食事で言えば、なだ万、スシロー、博多一幸舎の出店に加え、日本食料理店も豊富です。ただし大体値段は日本の2-3倍。特に刺身は4-5倍ぐらいします(でも食べられるだけいいじゃないか!とはインドやブラジル赴任経験者談(笑))。
無印良品やユニクロは、こちらでは比較的上級ブランドです。最近はシャトレーゼが上陸し出向者界隈で話題になりましたが、日本では100円で売っているどら焼きが15元(約300円)、ケーキも40元(約800円)と、なかなか手の出しにくい値段です・・・。スシローは味も日本と同じですが、10元から(約200円~)で、日本の2-3倍の値段設定です。
出前も発達していて、黄色が目印になっているバイクの美団(メイトゥアン)という会社が有名で、大体1時間もあれば、お店の料金+10元程度でなんでも配達してくれます。
普段の買い物は、通販が主流。アリババが運営する淘宝(タオバオ)は、中国人に言わせると「ここで買えないものは中国全土で探しても見つからない」という品ぞろえ。我が家では日本製のおむつ、肌に触れる日用品などは、完全に日本で売られている製品と同一のものを、全て通販で手に入れています。
ただし、日本のように時間指定配達は出来ず、配達が最初の予定日から遅れることもザラです。
スーパーでの食材の買い出しも、アプリで注文するとバイカーが30分以内に届けてくれるので、店舗で買う必要はありません。
しかし、現地Localのお店だと農薬や肥料に何を使っているのかわからない、お肉は臭みが強く処理も荒い、現地の人も乳製品は信用してない、冷蔵技術が低くすぐに痛む、等問題があるようで、信用できる店を選ぶ必要があります。結局日本人ご用達店を使うと、お値段は日本と同じぐらいか、乳製品・豚肉牛肉はそれ以上、ただし野菜や果物は安い、という印象です。
移動手段については、地下鉄・バス・タクシーが発達。アプリを使えば自分の乗るべきバスがどこにいるのか、何分後に来るのか一目瞭然。タクシーに至ってはUberのような業者が山ほどあり、アプリで乗りたいところと行き先を指定すれば、運転手と会話することなく目的地に到達し支払いも完了。
バスはどこまででも2元(約40円)、地下鉄も2元~、アプリだけでなく流しのタクシーも大量に走っていて、初乗りは12元(約240円)、街においてあるレンタル自転車も1.5元から。
教育面では日本人幼稚園、小学校、中学校もあります。我が家は日式保育園、という現地校でありながら日本語の喋れる先生と日本人が通う保育園に行かせています。料金は月3,600元(約72,000円、おうちまでのバス送迎付き)。KUMONもあり、友人で通わせている人も多いですが、費用は日本の倍だそうです。
病院も、日本人が通うところは通訳や送迎が付いているところが多く、費用はべらぼうに高いものの、会社の保険によってカバーされているところがほとんどです。
ちなみに我が家は中国で二人目の子供を出産しましたが、我が家でかかった費用は約120万円程度でしたが、臨月間近で渡航したので、妊娠初期からだとさらに数十万かかるようです。
ここまでお伝えすると、劇的に物価が安いわけでもない一方、日常生活を送る分にはなんら不便はなく過ごしやすい国なのではないか、と感じたかと思います。
実際、こちらに赴任された方からは、単身・家族帯同者にかかわらず「もう少し広州にいたい」という声を良く聞きます。
ここからは、半年間過ごした中国について、私なりの印象をお話ししたいと思います。
まずは、現地人の給料について。これは単に「裕福になっている」というより「格差がえげつなく広がっている」というのが私の捉え方です。
例えば、弊社から転職し、小鹏(シャオポン)という売上高4,000億円(21年時点)の新興自動車メーカー、管理職一歩手前ポジションになった方の年収は60-80万元(約1,200-1,600万円)で、管理職になるとさらに跳ね上がるようです。我々のライバル企業であるBYDに勤める工場長は、年末のボーナスだけで150万元(約3,000万円!!)。もはや日本企業より高いどころか、欧米もびっくりの給与水準です。
一方で、先ほどの出前バイクやタクシー運転手は、月給4-5千元(約9-10万円)、年収100万円程度です。この年収では、先ほど紹介したお店やスーパーに、ほとんどの現地人は行く事が出来ません。
日本でも当然格差は問題になっていますが、中国は制度がさらに格差拡大を助長しているように感じます。例えば教育に関し、日本では賃貸であれ、持ち家であれ、住民票があればその地域の公立小学校に行くことができますが、中国では「持ち家」がないと、その地域の公立小学校に行く事が出来ません。では家を買おうか、というと、我々の住む広州市天河区のマンションは500万元以上(1億円越え)がザラ。こんな家は高給取りしか買えません。この前公園を歩いていたら、120平米 1,000万元(2億円)という家が売りに出されていました。
さらには相続税も贈与税もないため、一人っ子政策によって富が数少ない子供に集中し、富める者は富み、貧しいものは抜け出せない、というスパイラルから抜け出せなくなります。
最近のコロナ政策で、広州市で暴動が起きた、というニュースが日本でも流れたようですが、それも海珠区には出稼ぎ労働者やエッセンシャルワーカーが多く、隔離されたことにより収入が途絶えた人が続出したから、とこちらでは言われています。さらに天河区、という我々出向者や外国人・政府関係施設が多い地域・中心街だけは今も封鎖をずっと免れているため、なんで俺たちだけなのか、という不満が余計に溜まっているようです。
青丸が中心街。南にある赤丸地域が今回暴動の起きた地域。海珠区は川で囲まれているため、11月12日現在、すべての橋が封鎖されていて、行き来が出来ない状態。
ここからはさらに完全な私見です。この国では、共産・社会主義思想のベースである、「基本お国の為に働くのだから賃金は最低限・平等でよい」という考えでの制度の上で、資本主義が後から入ったことにより、「事業により“個人”が富を得る事は、共産主義とは矛盾する」という考えを支える制度が作り切れないまま、成長してしまったように見えます。
日本の高度経済成長期と中国の今の成長を、同じように成長している、と理解している方もいるようですが、私が現地で感じる点は、本質的に「国とともに企業が成長し、豊かになっている」のではなく、極端に言うと「国に目を付けられないように金儲けをし、その利益で創業者とその仲間だけが金持ちになっている」という印象で、その結果が一部企業のべらぼうな給料と、スタッフと管理職、エッセンシャルワーカーと私的企業のとてつもない所得差を生み出しているのではないか、と思っています。
具体的な例や根拠を出せないままの感想で恐縮ですが、「中国はなんでもあるし、生活もしやすい!」という感覚もある一方で、私の中国への印象は「エネルギーもあって先進国並みにモノも街も整っている気がするのに、まだ本質的に豊かにはなっていないのではないか」なのです。
先ほどの「タクシーが安い!出前が安い!」といった事を享受できるのも、この安い人件費で成り立っていると思うと、最近では有難さよりも、労働力の搾取で成り立っている社会なのではないか、と感じるようになってしまいました。
現在は社会全体が成長していることから、格差が是正されていくだろうという期待感で、なんとかバランスを取っていますが、この成長が止まる、あるいは制度が変わらずに格差が広がり続けると、海珠区での暴動のような事が他の所でも起きる、という非常に危うい時期にきているな、と感じます。
そしてもう一つの懸念材料は、コロナ政策から始まる国際社会からの孤立です。
現在こそ、隔離期間がホテル5日+自宅3日の計8日間に短縮されましたが、私が渡航した5月時点の中国入国者は、政府指定ホテルでの2週間+自宅での1週間(自宅がない人はTotal 21日間のホテル隔離)を余儀なくされていました。
コロナ禍以前は週末に日本との往復も可能だった国が、一度出国すると10日近く家に帰れない(外に出られない)国になってしまったという事です。これによって、中国と日本の往来は激減、弊社でも出張者が激減した事で、さらに相互理解やコミュニケーションの分断が進んでいるように感じます。
私のチームの中国人と話していても、海外渡航・在住経験のない方ほど、文化や考え方の「違い」を認識できない、という点を強く感じます。
相互理解のためには、いい、悪い、ではなく、まずは違いを認識して話をする事。この大切な第一歩が、コロナ政策によって機会を失われ続けると、政府間だけでなく民間でも、ますます断絶が起きてしまうのではと危惧しています。私は今回の中国赴任で、少しでもこの国の考え方や文化を学べたらいいな、と思っています。
稚拙かつ些末な文章で大変恐縮ですが、皆様が少しでも中国という国に関心をもっていただければ幸いです。
最後に、広州に来られることがあれば、いつでもご連絡ください。
また、ご意見、ご質問もお待ちしています。 n.suetsugu13@gmail.com
参考:
ttps://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/articles/feature/2022/09/20/24169.html
2022年11月掲載
昭和45年組男旅 -智ちゃんお見舞い編-
私たち昭和45年卒組はLINEグループを作って連絡をしています。メンバーは同期8人に1学年上の片野さん、小石川高校同学年の酒井君の10人です。ことの起こりは小川君のラインでした。最近、ラインの反応が8人しかない。残る二人は誰だろうと言うのです。一人は竹内君で、残る一人は佐藤智由起(以下“智ちゃん”)君でした。ここで片野さんが「智由起さん その後の具合は如何でしょうか。実は2週間ほど前に彼が夢に出てきたのです。何事もないとは思うのですが今までそんなことがなかったので気になっています。」とラインで返してきたので、小川君が慌てて智ちゃんに電話し、無事を確認しました。そして、せっかくなので行けるメンバーで見舞いに行こうということになりました。
今回のメンバーは小川君と私に加えて竹内君(45年組の年金トリオ)です。7月8日に智ちゃん宅に見舞いに伺い、ついでに1泊旅行を楽しんできました。(本当は旅行がメインなのですが)
1.智ちゃんのこと
3年前の男旅のメンバーは小川君、私、そして智ちゃんでした。毎年、3人で旅をする予定でしたが、翌年は新型コロナウィルの蔓延で断念、その翌年秋に智ちゃんが骨髄のガン(難しい病名なので覚えられません)になり、外出できなくなってしまいました。そのため昨年は同期会を4月にネットで行いました。
智ちゃんも年金生活者ですから暇なはずなのですが、メール、ラインへの応答はほとんどありません。しばらく音信不通と言うこともしばしばあったのですが、現在は病気を抱えているということもあり、前記の騒ぎになりました。
2.初日
沼津港で海鮮丼をいただき(もちろんビール付きです)、竹内君の要望を受けて沼津深海水族館に行きました。5年前に智ちゃんのアレンジで同期8人と片野さんの9人で沼津、伊豆修善寺旅行を行い、その時にも深海水族館を訪問してたので、今回は2回目です。ところが、小川君は覚えてないというのです。年のせいでしょうか(物忘れ?(笑))
智ちゃん宅は沼津港から近いのでタクシーで向かいました。智ちゃん宅ではアイスコーヒーと冷たいお茶をいただき、近況などを話し合いました。薬の影響もあり、歩くのが大変とのことでしたが、元気な姿を見ることができ安心しました。智ちゃん宅での4人の写真を以下に載せておきます。(小川の顔がでかい?)
今回の旅行には条件があります。一つは旅館で、夕飯が個別に配膳されること。もう一つはウナギが食べられること。前回のツアー旅行では夕飯はブッフェ形式だったのが小川君には不満だったようです。この条件を付けたのは小川君。ですから宿とウナギ屋さんは小川君に選んでもらいました。場所は三島から電車で行けるところと言うことで伊豆長岡にしました。智ちゃん宅を出た後、沼津から三島までJR東海、三島からは伊豆箱根鉄道で伊豆長岡まで行き、宿には4時過ぎに到着しました。宿は伊豆長岡ホテル天坊です。部屋はベッドではありません。日本間です、部屋飲みは日本間ですよね。
私たちの最近の旅行には事件がつきもののようです。海鮮丼を食べに入った店で安倍元首相の銃撃を知りました。竹内君は直前(8月3日)の安倍さんの講演会に行くほどの大ファンですので、この事件にはショックを強く受けた様子でした。小川君は江戸っ子と言うか「野次馬体質」です。部屋に戻るなりテレビをつけ内容はかの事件報道。安倍さんファンの竹内君は「もうやめて」と言いながら飲み会が始まりました。酒は今回もキリンの「陸」。9時過ぎには竹内君が座椅子に座ったまま爆睡です。飲み会はここでお開き。
3.三島スカイウォーク&鰻
宿を10時に出て三島スカイウォークに12時前に到着。土曜なので混んでいます。三島スカイウォークでは色々なアトラクションが楽しめます。予定は3時半ごろまでアトラクションを楽しみ、三島に戻って鰻でした。
問題は往復だったこと。最初に谷を渡った後、帰るためには山登りが待っていたのです。これはキツカッタ!ようやく帰りのスタート地点までたどり着くと、オペレータのお兄さんから、少し休んでも良いですよと言われる始末。往復を無事に終えたのですが、もうへとへと。まだ1時半でしたが、他のアトラクションはあきらめ(体力が残っていません)帰ることにし、三島に向かいました。(70過ぎのジジイにはアトラクションはきつすぎました)
三島では小川君が見つけた駅前の鰻屋に飛び込み、しら焼きとうな重、ビールをいただきました。ウナギの味は今一つ。三島はウナギで有名ですが、駅前で済ませようなどと横着しないで三島広小路まで行かないと美味しいウナギは食べられないようです。
4.最後に
智ちゃんのお見舞いと珍道中を無事に終わることができました。小川君は東京、竹内君は千葉なので三島からは新幹線です。山本はお隣の神奈川県ですので、三島からは在来線です。二人とは三島でお別れです。新幹線の中で二人は飲みなおしていたのではないでしょうか。
何はともあれ、智ちゃんの元気な姿を確認出来て本当に良かった。智ちゃん、週に1回で良いからメールとLINEを見てください。
2022年9月掲載
昭和45年組男旅 小川さん、山本さん -知床編-
開成-麻布定期戦への出席確認と共に「北海道知床半島って行ったことは?」というラインが小川君から4月1日の朝に来ました。旅行の誘いです。知床には行ったことがなかったので、二つ返事で受け、日程も5月15日からの2泊3日に決まりました。今回は某社国内ツアーです。2日目のオプションに知床の観光船ツアーが用意されていたので、迷わずオプションツアー込みで申し込みました。
5月15日が待ち遠しかったのですが、4月23日にテレビに知床で観光船が遭難のテロップが流れました。遭難したのは小型船、私たちが乗船を予定していたのは大型船なので問題ないのではと思ったのですが、遭難の影響で観光船ツアーは営業中止と言う形でのツアーとなりました。
1.初日(5月15日)-ホテルでの夕食時の夕日が最高!
初日は羽田空港から女満別空港までJAL便です。初めてのツアーでの飛行機の利用でしたが、チケットを渡されたのは空港の集合場所でした。座席番号は書いてあるのですが、無記名だったのには“ビックリポン”(古いかしら(笑))。早速、門出を祝い空港でビールをいただきました。
添乗員さんと合流したのは女満別空港。ツアーに慣れた小川君は素早く手土産(日本橋の芋ケンピ)を渡しています。空港を出た後は3日間バスの移動が続くのですが、手土産効果でしょうか、私と小川君は2人分の席を一人で使えました。(ありがたや!)
初日は空港からホテルまで直行、1時間ほどのバス旅行でしたが、途中で丹頂鶴を見ることができました。丹頂鶴は釧路が有名なのですが、最近は知床や北見でも見られるそうです。サロマ湖は北見市にあり、カーリングで有名なLS北見の本拠地でした。(知らなかった。無知は恐ろしい)LS北見の練習リンクの前を通りホテルに向かいました。
初日のホテルはサロマ湖鶴雅リゾートです。サロマ湖のほとりにあり、景色は最高ですが、ホテルしかありません。もちろん、コンビニはありません。この日の楽しみは夕食時に見られるという、夕日です。当たり前ですが、晴れていないとみられません。今回も晴れ男二人のタッグですから、天気には恵まれました。レストランからの夕日の写真をご覧ください。
食事の後は、部屋飲みです。小川君が持参したキリンの「陸」を堪能。(この後「陸」にはまりました。帰った後「陸」を楽しんでます)
2.2日目(5月16日)-網走刑務所です。網走番外地?
(網走刑務所・網走番外地)
2日目は博物館網走監獄、天に続く道、オシンコシンの滝、夕陽台の順に訪問しウトロ港にある北こぶしHOTEL & RESORTを目指します。旧網走監獄を移築したのが博物館網走監獄です。見学にかかる時間が早足で1時間半程度という広い博物館です(博物館と言うと建物と言う印象ですが、広い公園、沢山の建物があります)。網走監獄というと映画の網走番外地と言う言葉が有名です。国有地には番地がなく無番地という言い方をするそうです。監獄も国有地にあるので無番地。これが番外地の由来とのこと。ご存知でしたか?
(天に続く道&オシンコシンの滝)
直線路の先が見えないほど続いているのが天に続く道です。これぞ北海道と言う光景でした。道路脇にあり、車でゆける数少ない滝の一つがオシンコシンの滝です。直前まで雨だったため、水量が豊富で迫力満点でした。
(ウトロ港)
ウトロに到着し向かったのが、夕日台、ここからはウトロ港が一望できます。今日の宿を確認できました。ホテル着は3時ころでしたので、ウトロ港に散歩にでかけました。ウトロ港には観光船が停泊していました。小型船と大型船のオーロラが停泊しています。オーロラにくらべ、小型船の小さいこと。知床の沿岸は岩場が多く、小型船でないと近寄れないそうです。オーロラ号は砕氷船なので冬は流氷ツアーに使われるそうです。砕氷船なので、船底が平らなため風に弱いそうで、風が強い日は大型船も出向しないそうです。知床は天候の変化が激しいので、運が良くないと観光船にはなかなか乗れないとのことでした。
二人とも下町生まれの野次馬気質です。港で船を見たとあとに事件で話題の観光船会社の事務所を探しにでかけました。T字路にぶつかったので、大型観光船の事務所が見える右に向かいました。大型船の事務所はあるのですが、小型船の事務所がありません。20分程度かけ1周した所でようやく事務所を見つけました。その先に先程のT字路があります。右ではなく左に行けばすぐに見つけられたのです。
ホテルで大浴場に向かう途中で、半纏を着たおじさんが何やら作業をしています。聞けば昆布を手作業で削っています。機械で削ったのが「とろろ」で、手作業で削ったものが「おぼろ」、おぼろはとろろより厚みがあり、噛みごたえがあります。試食させていただいたのですが、臭みも少なく味も濃くて美味しいのです。おみやげに「とろろ」、「おぼろ」とカット羅臼昆布を購入、おまけに酒の魚用おぼろをいただきました。
3.3日目(5月17日)ー知床5湖
3日目はいよいよ知床です。知床の入り口と言えるのでしょうか知床五湖に向かいました。湖が5個あるのですが、一般客が入れるのは木道が整備された一湖だけです。すべて回れる道は、人数が制限され、講習を受けたもののみが入れます。木道に入る際の注意が、1)飲み物は水かお茶、コーヒー、紅茶など砂糖の入ったものは持ち込み禁止、2)飴などの甘いお菓子も禁止です。甘いものは住んでいるヒグマを誘い出す危険があるからとのこと。まさに北海道です。木道からの景観は素晴らしかった知床連山が一望できました。
4.最後に
知床五胡を出た後はお昼をいただき女満別空港から羽田に向かいました。羽田では天ぷらでお酒を飲み、別れました。
今回も天気に恵まれました。添乗員さんに伺ったら、到着前に大雨が降ったとのこと。私たちが帰った翌日以降の天気は雨の予想だそうです。日ごろの行いの良さが通じた好天だったのだなーと改めて感じることのできた北海道旅行でした。
2022年8月掲載
S54年卒 熊谷さん、興村さん近況
昭和54年卒熊谷達範です。
昭和54年卒は関さんが部長で興村さん野々村くん横内くん井手本さん松井さん首藤さん熊谷の8人衆です。(8人衆と中村先生が話していた記憶があります)
開成卒業以来、最低1年に1回また結婚披露宴では8人衆が会う機会を現在まで継続しております。還暦過ぎの60代前半ですから、容姿の変化はあります。(個人差あります)しかし、お陰様で、8人衆全員が元気なようです。2019年5月18日以来、同期会が開催できませんでした。
ちなみに、2019年5月18日の同期会は昭和50年卒松下先輩の中華レストラン「ボーリージャー」で美味しい料理の中、開催できました。松下先輩だけでなく、市村先輩までサプライズでいらして下さり、思い出深い同期会になりました。その後、残念ながら、コロナ禍になり、同期会が開催できませんでした。
そこで、2022年5月4日にzoom会でリアルではありませんが、開催できました。(興村さんは欠席)開始時間の20時ホストの熊谷のところに誰もはいらないハプニングがありました。急遽井手本さんがホスト変更をしてくれて、無事開催できました。遠い昔の現役時代と比べると、チームワーク(カバー)が良くなったと思います。zoomも7人もいると、あっという間に2時間が過ぎ、消灯時間となりました。
熊谷の近況報告を申し上げます。
慶応義塾大学卒業後、荒川5中に赴任しました。バスケットボールは2面取れるのに、バレーボールのポール穴は1面でした。体育館設計時の体育の先生がバスケットボール専門の先生だったと聞きました。
荒川5中同僚の女子バスケットボール顧問の先生は、のちに開成バスケットボール部顧問の桜井先生と結婚されたと聞いて、びっくりしました。
荒川5中男子バレー部顧問は日体大出身のベテラン先生がいて、女子バレーボール部顧問を拝命しました。三屋さんと同じ筑波大学出身の先生が顧問でしたが、産休に入るところでした。女子とは言え、同じバレーボールなので、コートで一緒に指導させてもらい、わずか2か月で区内で勝てるチームになりました。
実は新任で1年担任でした。NHK特集番組になる位、荒れた中学校でした。以後荒川5中3年間はクラス担任で部活動指導まで余裕はありませんでした。それを知っていたのか、中村先生が開成も同じ荒川区の中学なので、いきなり荒川5中の職員室の熊谷の席に現れ、「頑張っているか」と一言言われ、去っていったのが脳裏に焼き付いています。
荒川5中3年間赴任後葛西3中に1年在籍しました。葛西3中男子バレー部顧問になりましたが、部員が3人で開店休業でした。以後埼玉県の私立川越東高校(男子校)で35年間勤務しています。筑波大学大学院出身のバレーボール専門の先生がいるので、反対に新聞文芸部の顧問を34年拝命しました。とは言え、1度宮先生が開成高校バレーボール部を引率して、川越東高校体育館(バレーボールコートが6面取れる)に練習試合にきてくれました。60歳定年なので、現在再雇用2年目になります。
また、兄が昭和48年卒矢澤先輩と同じ黄色組でした。そのご縁で父母の墓は赤羽の法眞寺にあります。
墓地の坂を上がって、右が父母、左が中村先生のお墓になります。いつも両方お参りさせて頂いています。
そして、本堂脇の歴代住職のお墓も墓参しております。私と同じ開成慶応義塾の矢澤先輩なので、印象的な戒名になっております。是非、墓参の際はご確認してください。
昭和54年卒興村と申します。
現役時代の試合成績が芳しくなかったせいなのか?大学が千葉で、卒業後は木更津などでの脳外科医生活が長く、遠方で多忙であったためか?OB会活動でお手伝いをした記憶は大学生時代に一度夏合宿のチーフをしたことくらいかな?それでも同期の関君、熊谷君がOB会活動に積極的だったこともあり、10年に1回くらいのペースでは総会などと繋がりを持っていたような気がします(会費は欠かさず払っております)。
同期の54卒の会には、ここ10年くらい参加できていません。運が悪すぎるのか?嫌われているのか?僕の都合の悪い日に開催されることが多いと僻んでいます。同期や、1年下の55年卒の佐藤君などはよく知っているのですが、昔から、よくいじけてしまうタイプでした。僕は。
それでも歳を重ねてくると古い友人との繋がりは貴重なものと
感じるようで55年卒の面々とはコロナ前までは1年に1回くらいの
ペースで集まるよう努力していました(きっかけは55年卒の柳田君の葬儀という悲しいものではありましたが)。
(右後方腕組みしてるのが興村、その前のスキンヘッドが熊谷です。他は55卒のメンバーです)
また、勤務医時代には多忙で手が出せなかったゴルフを開業した10年前から始め、それがきっかけとなり、52年卒の老川先輩、大関先輩、島田先輩などからゴルフのご指導をいただいています(とても恐ろしかった2年上の先輩方も昔よりは優しくなったかな?)。島田先輩のご尽力によりコロナ前ではありましたが、52卒、53卒、54卒の3学年合同飲み会も楽しかった思い出です。
(向かって左前から53橋本先輩、53羽井佐先輩、
70周年の会に参加できたのも楽しい思い出です。多くの先輩方や後輩たちとのひと時はとても貴重なものでした。
コロナ前に一度だけOB会のゴルフに参加できました。合宿に行くたびに暖かく?ご指導いただいた45年卒の小山先輩、OB会で初めてお目にかかった45年卒の竹内先輩、中1の時の高3で影を踏むことも許されないような存在だった49年卒の松原先輩、柏女先輩、高塚先輩、丹治先輩、中山先輩(中山先輩とは医学部のバレーリーグでも多少のご縁がありました)、バレーボールをしてない時は、とても優しい50年卒の市村先輩などと素敵な時間を送ることができました。一緒の組だった後輩の神長君は、後で知ったのですが、千葉大の後輩でもあり、とても著名な実業家(御免なさい、この表現が適切かどうかわかりませんが)でした。当日はとってもゴルフの上手な人だという印象のみでしたが。
コロナ落ち着いたらまたゴルフには参加したいですね。
まとまりのない文章になってしまいましたが、現在埼玉県、吉川市(越谷市と三郷市の間)で脳の診察を中心としたクリニックをやっています。頭部MRI 検査などに関心のある方はご連絡ください。開成OB やそのご家族の方がたには時々使っていただいています。
2022年6月掲載
H18年卒 小泉さん近況
平成18年卒の小泉と申します。この度、OB会の幹事を務めさせていただくこととなりました。
学生時代には4年間ほど幹事長という立場で会に関わらせていただいておりましたが、就職後10年の無沙汰を経て、職場では周りから「中堅」と呼ばれるようになった今、またこうして本会の幹事を務めさせていただくこととなり、大変ありがたく思っております。
微力ながら、会の運営に貢献していければと考えておりますところ、御指導・御鞭撻のほど、何卒よろしくお願いいたします。
さて、今回は、OB会ホームページへの記事執筆の機会をいただきましたので、簡単な自己紹介・近況報告に加え、つい先日開催した同期会(奇跡的に同期7人全員参加!)の様子をお伝えできればと存じます。
1. 自己紹介・近況報告
皆様のように語れることがそうあるわけではないのですが、私は、大学で不真面目にも法律を学んだ後、国家公務員試験を経て、大学卒業後は警察組織に身をおいています。
(諸先輩方からはまだまだ若輩として笑われてしまうかもしれませんが、)いつの間にやらそれなりに長い月日が流れ・・・、
大阪府警での研修時代には、大阪ミナミのど真ん中で、慣れない警察の制服に身を包み、不案内な大阪の街の道案内をしたり(そのほか、暴力団事務所や風俗店舗への捜索差押え等の刺激的な現場にもよく連れていってもらいました。)、
霞が関・警察庁での見習時代には、採用業務や各種制度立案のため、昼夜を忘れ馬車馬のように働き、
結婚し国費留学生の身分として渡米してからは、新婚気分も早々に、冬は-20度になる極寒の地・米国ミシガンで勉強に勤しみ、
長野県警での課長勤務時代には、新米組織管理者として試行錯誤しながら、課員と一致団結して、G20閣僚会合警備や災害対応に打ち込んだり・・・、
そして、2年半前に東京に帰ってきてからは、昨年開催された東京2020大会の諸警備も含め、各種サイバー攻撃対策の任務に就いています。
早いもので、就職後10年の月日が流れ、それなりの数の課員を指揮する立場となってしまいましたが、こうした立場に就いた今、改めて感じるのが「チーム全体で一体感を持って物事に対処する警察組織での各種対応は、まさにチームスポーツに通ずるところが多いな」ということです。
日頃の猛練習を糧として、スライディングで辛うじて繋がったボールを得点に結びつけた時のチームとしての「熱狂や一体感」には、数多くの関係機関との綿密な調整を経て、歴史的な大警備を完遂した際の、また、犯罪者につながるわずかな証拠や綻びを手繰り寄せ、犯人検挙に至った際の「熱狂や一体感」と、実は極めて近いものがあるように感じます。
私自身完全に文系の人間であり、業務上当たり前のように使われる数多くのテクニカルタームに、四苦八苦する毎日(それに加え、そもそもサイバー攻撃情勢が極めて深刻な中、各種対応でてんやわんやになることもしばしば)ではありますが、現役時代に培った「チームを大事にする精神」を糧としながらも、試合や練習でチームメイトと共有した「熱狂や一体感」と同種のやりがいを感じることができているありがたさを噛み締めながら、日々業務に打ち込んでおります。
2. 同期会開催報告
本年4月上旬(各種宣言発令なし)、東京都内にて、同期会を開催しました。
これまでも半年に一回程度はオンラインも含めて懇親の場を設けていましたが、同期の梶原くん(現役時代は(以下同)レフト)が勤務地のシンガポールから一時帰国するということで、岩手から米内くん(セッター・キャプテン)が、大阪から小川くん(レフト)が、関東周辺から大橋くん(レフト)・末續くん(センター)・近嵐くん(ライト)・小泉(センター)が駆けつけ、およそ5年ぶり?に同期7人が全員集まりました。
正直に申し上げ、何を話したのか覚えていないほど楽しい時間を過ごしたのですが、近況報告も早々に、現役時代の様々なエピソードに花を咲かせました(末續くんが中国赴任を予定していたところ、その送別も行いました。)。
卒業から15年が経ち、同期7人で延べ結婚回数8回、子供は8人(もうすぐ9人になります。)にもなり、もはや隔世の感すらありますが、活躍の場を道灌山から日本全国・全世界に広げてもなお、こうして輪を囲めば、現役時代がつい昨日のことのように心から笑い合える仲間は、本当に人生の宝だなと改めて深く感じた次第です。
これからも是非折に触れて集まり、皆様に御報告できれば幸いです。
2022年5月掲載
五反田にあるレモンサワーが美味しいお店にて
(左から、小川くん・末續くん・梶原くん・大橋くん・米内くん・近嵐くん・小泉)
H21年卒 溝口さん近況
H21年卒の溝口と申します。
ここしばらくOB会の集まりに参加できておりませんでしたが、お声がけいただき、今年より幹事に就任いたしました。
年度の近い幹事の徳田さんより、これを期に是非とのことで、ご挨拶と簡単な近況につきまして寄稿させていただきます。(徳田さんやOB会幹事の皆様のご功労の上でこのように接点を持ち続けられることに感謝です)
私は中高とキャプテンを務めておりました。といっても中学時代は同期のメンバーはほぼおらず先輩方・後輩方の支えでなんとか続けられ、高校に入ってからは新高としてバレー部に入ってきてくれた同期の心強い仲間とともに楽しく活動をすることができました。卒業後は高校生のコーチをさせていただき、またOB会ホームページの運営もしばらく担当しておりました。
現在、私はITスタートアップでエンジニアをやっています。創業当初から関わり3年になりますが、成功1失敗9のドタバタの中で日々忙しく働いております。
私の会社は美容室をはじめとして、ネイルやアイラッシュ等美容サロンのためのシステムを開発・販売しております。
最近はデジタル化が進んでいない産業・領域をITの力でより良く発展させる、いわゆるDX(デジタルトランスフォーメーション)という言葉をよく聞くようになりました。デジタル庁の発足もあり、デジタル化を加速させていこうという流れが強まっているのを感じます。
「DX」それだけで聞くと何かスマートで機械的な印象を受けますが、個人的には、もっと泥臭く、また人間くさい側面も併せ持つのかなと感じています。
実際、自身で美容室の現場に行くと、そこには美容に対する強い情熱を持ち、とても”人間的”に仕事をされている美容師の皆さんがいます。そのような方々の思いや、業務の内容、業界的な背景まで深く理解しないことには、本当に意味のある付加価値は提供できないのかなと思います。薄っぺらいIT化ではなく、あくまでデジタルは手段であることを胸に、IT技術者として何ができるのか日々考えるところです。
私の話はこのあたりにして、せっかくなので同期の皆の近況にも触れたいと思います。(私自身もほとんど連絡をとっていなかったので、いい機会でした)
最近はコロナも落ち着きつつありますので、またOBの集会などもできるようになるといいですね。
松山さん
私も溝口君と同じくスタートアップで働いており、伝統的且つ労働集約産業である保育業界で何ができないか日々向き合い、プライベートでは子どもが2人おり、公私共に子どもについて考える日々を送っています。
佐藤さん
今年から千葉大学病院で大学院生として働いています。ドクターXのドラマ撮影に来る米倉涼子をみてモチベーションを保ちつつ、失敗しない外科医を目指し研鑽を積んでいます。
仲澤さん
今は千葉大学医学部附属病院で消化器内科医として勤務してます。
なかなかバレーをする機会はないですが、前の勤務先(千葉メディカルセンター)のバレー部の練習にたまに参加してます。あと6月に結婚しました。
2021年12月掲載
平成15年卒 吉田さん近況
平成15年卒の吉田 和成(よしだ かずなり)と申します。
ほとんどの会員の皆様とは、大変ご無沙汰、もしくは初めまして、となるかと思います。
平成15年卒の代では部長をさせていただき、ポジションはセッターでした。卒業後、なかなかバレーボール部やOB会の活動に参加できておらず、大変申し訳なく思っております。
簡単ではありますが、わたくしの近況をご紹介したく筆をとりました。
2020年は、東京オリンピックもコロナ禍で延期となり、皆様も色々とご苦労がたえないかと存じます。わたくし個人も、今年は変化の多い年となりました。
わたくしは大学卒業以来、第一生命保険に勤めておりますが、4月付で関連会社の第一リース大阪支店に出向となりました。業務内容も改まり、新しい環境、かつ転勤早々にコロナ禍による緊急事態宣言と、目まぐるしい日々でした。
そんな中ですが、9月20日に家族で結婚式をあげることができました。日枝神社での式の写真を以下添付致しますので、ご覧ください。
妻も職場でバレーボールのサークルに入っているそうで、わたくし達はある意味ではバレーボールという共通点がある夫婦です(もっとも、妻のトスの形を確認したところ、突き指が多発しかねない危険な我流の形でしたので、指導・矯正しなければと思います)。今後は、夫婦でバレーボールを共通の趣味にできればと考えております。
わたくしは高校卒業からもうすぐ18年となりますが、改めていま感じますのは、バレーボールがわたくしに与えてくれ、また部活動を通じて培われたものの大きさです。
スポーツを通じた身体能力の向上は勿論のこと、人格形成にもバレーボールの果たした役割は大変大きなものがありました。
バレーボールは、チームワークが試合の勝敗を分けることを会員の皆様はよくご存知のことと思います。苦しいとき、つらいとき、周囲の仲間と声を掛け合い、乗り越えていくことは、公私ともに重要なことですが、そのかけがえのない経験をバレーボール部の活動で幾度となくさせていただき、いまの自分があると感じます。試合や練習の記憶を振り返り、「あの時、もう少し頑張っていれば」と思うことは数限りがありません。中村先生や栗原先生、奥山先生からいただいたご指導の数々を思い出すと、感謝とともに当時の自分の未熟さを痛感します。
今後の社会生活という長く続いていく「試合」で確実に勝利を収めるべく、そうした経験を存分に活かしていきたいと思っています。
先日、一期先輩の大内隆成さんと、同期の川原康朋君とZOOMでオンラインにて交流する機会がありました。コロナ禍でリアルな会食は難しいなか、貴重なお話ができました。 バレーボール部で得た先輩、仲間との繋がりも、これまたかけがえのないものです。 また、バレーボール部の色々な活動で皆さまにお会いできることを楽しみにしております。
新型コロナウイルスの流行はまだ終息が見通せない状況ですので、皆さまくれぐれもお身体ご自愛ください。
S45年組男旅 小川さん、佐藤さん、山本さん
バレー部同期3人で山陽・山陰を旅行してきました。メンバーは昭和45年卒の小川、佐藤、山本です。(原爆ドーム前の集合写真で左から、佐藤、小川、山本です)
期間は2019年5月23日(木)から5月29日(水)までの6泊7日、訪問先は広島、秋芳洞・秋吉台、玉造温泉、出雲大社、鳥取砂丘、倉敷です。駆け足で山陽・山陰を一周しました。
3人は晴れ男、メンバーの日ごろの行いも良かったせいでしょうか、鳥取砂丘以外は晴天で天候に恵まれた1週間でした。
1. 広島
最初に訪れたのは広島。JRを中心に動くので、宿は広島駅前のアークホテル広島駅南です。
駅近・大浴場の条件をクリアしたのは1件だけなので、宿探しは迷わずに済みました。広島着が
13:34、宿に荷物を預けて、平和記念公園、原爆ドームを見てから広島城に行きました。
平和記念公園までは広電、原爆ドームの前を通り広島城までは徒歩。初日と言うこともあり、おじさんたちは元気いっぱいです。その晩は小川さんの《広島の彼女》の案内で“広島風”お好み焼き。そばとうどんの2種を堪能。うどん入りは初めて食べました。
2日目は午前が大和ミュージアム、午後が厳島神社。広島と呉の往復はJR、広島と宮島口との往復もJRで、宮島口から宮島はJR西日本フェリーに乗りました。大和ミュージアムは興奮しました。記念写真のサービスがあり、帽子を貸してくれるのですが、小川さんだけ顔が大きいのでしょうか?合うものがありませんでした。お隣の鉄のクジラ館には本物の潜水艦がおいてあり、中に入れます。お昼はここで海軍カレー。宮島は鹿がたくさんいました。
夕食は小川さんの友人に紹介して頂いたホテルのそばの居酒屋。そこで出会った地元の人に、教わったシャコのうまかったこと。これから島根、鳥取に行くと話したところ、鳥取は島根に比べて田舎だとのこと。個人的には島根のほうが田舎だと思っていたので、「ビックリ!」2日目もたっぷり歩きました。
2. 秋芳洞・秋吉台
3日目に広島から新山口まで新幹線で移動。新山口から秋芳洞・秋吉台まではバスで1時間半ほどでした。新山口でおり、バス乗り場に向かうと長蛇の列。年配の女性ばかりです。さすが秋芳洞と感心していたら、女性陣はリムジンバスにのり、萩に行ってしまいました。ジャニーズ事務所のアイドルの公演(嵐?)があるとのこと。秋芳洞に向かったのは我々3人+数人でした。
バスを降りると秋芳洞はすぐです。秋芳洞の奥まで行き、エレベータで地上に出ます。
宿は近いと聞いていたのですが、迷子になった様で、着いたのは秋吉台の観光台。秋吉台を目に収めてから宿探し。宿泊したのは秋吉ロイヤルホテル秋芳管、秋吉台唯一のホテルでしたが、今年の春にCOVID-19の影響で閉館したそうです。
翌日は、バスで新山口駅まで戻りJRで次の訪問先の玉造温泉まで移動です。新山口駅での美味しい駅弁を楽しみにしていたのですが、駅には駅弁はなく、セブンイレブンで弁当を買うことになりました。乗車したのは特急「スーパーおき4号」。特急なのですが2両編成、ジーゼルでしかも単線。いきなりローカル色豊かな旅となりました。
3.玉造温泉
新山口から玉造温泉までは特急で3時間半。山陰の景色を堪能するぞ!と思っていたのですが、旅の疲れに勝てず、爆睡。残念ながら途中の記憶はほとんどありません。玉造温泉の宿は、今回の旅行で唯一の温泉旅館、玉造グランドホテルです。夕食は懐石料理とお酒。お風呂も最高。至福のひと時でした。
4.出雲大社
翌朝、玉造温泉駅から出雲市駅までJRで移動、出雲市駅からは一幡バスで出雲大社まで30分程度でした。平日でしたので、参拝客も少なく、落ち着いて拝観できました。
お昼は出雲大社裏のお蕎麦屋さん「八雲」で出雲そばをいただきました。
出雲市駅から鳥取駅まで特急「スーパーはくと8号」で移動。出雲市駅は電化されていたのですが、米子-鳥取間が電化されていないので、ここもジーゼル。米子からはまたしても単線でした。本日もよく歩きました。
5.鳥取砂丘
鳥取の宿は駅の近くのホテルモナーク鳥取。もちろん、大浴場があります。
夕食はホテルのそばの居酒屋。残念ながら良かったという以外記憶に残っていません。
翌日に鳥取砂丘に行きました。バスで30分程度だったと思います。駅によると「鳥取の居酒屋」なる駅弁がありました。今回の旅行初の駅弁です。午後に移動なので、駅弁を予約して鳥取砂丘に向かいました。
この日は生憎の小雨、風も吹いています。おまけに長旅で疲れてもいました。鳥取砂丘は眺めるだけにして、砂のミュージアムを見て帰路につきました。
6.倉敷
倉敷訪問は佐藤さんのリクエストでした。
鳥取から姫路までスーパーはくと、姫路から岡山までが新幹線、岡山と倉敷はJR在来線です。鳥取-姫路間はもちろんジーゼルで単線です。姫路が近づくと都会色にあふれていて別世界。ようやく電車に乗れました。
その晩は居酒屋で夕食。翌日の倉敷観光の下見をしました。倉敷のお目当ては「倉敷美観地区」。夜はライトアップされています。下見を兼ねてライトアップした姿をチラ見しました。
翌日に「倉敷美観地区」に行ったのですが、偶然だったのですが、ボランティアのガイドさんに案内してもらえました。川船流しにも乗れたし、お昼をいただいたお店も紹介してもらえました。ガイドさんの力はすごいですね。「ありがとうございました!」
7.帰路
無事、倉敷観光も終わり帰路につきました。倉敷から岡山まで在来線。岡山から「ひかり」です。佐藤さんは三島下車、山本は新横浜下車、小川さんは東京です。
おじさん3人の1週間の旅は楽しかったですね。よく歩いたこともあり、心地よい疲れを久々に感じることができました。
今年は、東北旅行を予定していたのですが、COVID-19の影響で断念しました。来年こそ実現したいですね。
8.JRのジパング倶楽部
今回の旅行ではJRのジパング倶楽部のお世話になりました。ジパング俱楽部は全国版でJR東では大人の休日俱楽部ジパングと呼ばれています。男性は65歳以上、女性は60歳以上で入会でき、最初の3回の利用までは20%割引、それ以降は30%も割り引いてもらえます(大人の休日倶楽部ジパングはJR東であれば最初から30%割引です)。
前々から利用するよう勧められていたのですが、大人の休日倶楽部ジパングはJR東でしか使えないものと勘違いしていました。長嶺君に確認したところ全国で使えると言うではありませんか。3人で早速、入会し、特典のお世話になりました。年会費が3,840円かかりますが、元はすぐにとれます。
新幹線を使う場合、のぞみが使えません。往きは岡山までひかり、その先さくらに乗りました。帰りは岡山から新幹線だったので、ひかりを使いました。小川さんは東京、山本は横浜、佐藤さんは三島なので、ひかりを使えば、それぞれが近くの駅で乗車できたので、のぞみを使うよりも良かったと言えます。
大人の休日倶楽部はこの他にも特典満載です。次の東北旅行はJR東なので、特典を使いまくるつもりです。
まだ、入会されていない人、ご存じなかった方がいらしたら入会をお勧めします。
昭和45年卒 山本惠一
平成18年卒末續さん近況
平成18年卒業の末續信博(すえつぐのぶひろ)です。
皆様初めまして。お久しぶりの方はご無沙汰しております。
こちらに載せるほどの大したことは書けないかと思いますが、皆さんと繋がれる良い機会なので、誠に僭越ながら筆を執らせていただきました。
簡単に自己紹介をすると、私は開成を卒業後、仙台にある東北大学・大学院で6年間を過ごし、現在神奈川は厚木市にある日産自動車の開発拠点に勤めております。早いもので社会人になってから7年半が経ちました。
今日は、私から“価値ある無駄な話”をテーマに近況をお話しますので、しばしお付き合いください
ませ。
私の仕事は、簡単にかつ理想的に言うと、人々の暮らしが豊かになるような車を世に送り届ける事、
です。
宣伝になってしまいますが、先日弊社からキックス e-POWERという素敵な車が発売されました。私はそのプログラム責任者の一人として仕事をしていたため、店頭に並んだり街中を走ったりしている姿を見て、とても興奮しました。
恐らく、都心に住んでいる方からすると、“車を持つ事”を価値と感じない人も多く、移動をするだけであればレンタカーやタクシーでいいから、買うことは“無駄”な事だと思っている人も多いのではないかと思います。車作りにかかわっている身、そして車が大好きな私としては、残念だなぁ、車を持ったら幸せになれるのに、とずっと悲しく思っていました。
しかし最近はむしろ、だからこそ車には価値がある、と思うようになりました。何故なら、車の価値が本当に移動手段だけだとしたら、各社がデザインを気にしたり、独自の技術をつぎ込んだりはしないと思うのです。電車のように、画一的になっていくはずなのです。つまり、デザインやブランドといった、特に目に見えない“無駄”に価値を感じてもらう事が、車を買っていただく原動力なのだと考えるようになりました。
そもそも、無駄が経済を回している、なんて言葉もあるぐらいです。車というのは、個人が買えるものの中で最も高い商品の一つです。そして所有物で“愛”(=愛車)が付く、珍しいものの一つです。
日本では車が売れない、なんて皆さんは聞いていると思いますが、それでも日本国内だけで500万台近くの新車が、毎年購入されていることを、皆さんはご存じでしょうか?私は、初めて知ったとき、そんなに売れているのかと驚きました。
やはり、私が携わっているこの製品は、ただ人を運ぶだけでなく、その無駄を楽しむ誰かをきっと幸せにしている、と思う事が私の誇りであり、日々辛い仕事を耐える理由なのです。
さて、その無駄繋がりで思うのは、経済だけでなく、仕事や人生そのものも、無駄があるからこそ出来る、生きていける、という事です。そしてこのコロナ禍でそれを痛感するようになりました。
昨今どこもかしこも在宅化、オンライン化が進んでいると思います。それに伴い、色々なツールやアプリのお陰で、リモートでも仕事や生活が出来る、と謳っており、実際弊社でもそうなってきています。
しかし、本当にそれだけで、効率や満足度は100%になっているか、と言われると私は疑問です。
その要因の一つとして、明らかに減ったなぁと思うのが、雑談、つまり無駄話です。
会社にいれば、どこかですれ違った時に、“あ、この前の件ありがとうございました!”なんて一言かわし、“そういえばあれってどうなったんですか?”という一言で情報を貰う事も。
コロナショックの前、会社内の雑談で出身高校の話になり、たまたま後ろの席にいた別の課の先輩が“え?お前開成なの?俺もだよ?”なんて事になり、それから何度か飲み会に連れて行ってもらい、楽しい話を聞かせてもらいました。
さらにはこんな事も。買い物もオンラインでできる世の中にありながら、あえて町田のヨドバシカメラの店舗に用もなく行ったら、たまたま一つ上の浅川先輩夫妻にばったり会いました。
さらには昔、社会人になってすぐの頃、開成とは全然関係ない友人の紹介で、慈恵医大の女子バレー部の指導をお手伝いしていた頃、東医体の応援に行ったら、バレー部OBの森禎三郎先輩もたまたま応援に来ていて、挨拶をすることができました。
こういった事は、無駄が運んだ幸せだ、と私は思っています。
効率化、生産性向上、詰め込み教育などと、何かとストレスが溜まりやすい世の中だからこそ、無駄を大切にできるのが、幸せに生きることの秘訣なのかもしれないな、なんて思って日々を生きています。
さて、そんな私はバレー部同期とも定期的に会っており、先日は梶原君がアメリカから、大橋君がメキシコから、そして小泉君は長野から(近いですが笑)帰ってきたお祝い、というこじつけで飲み会を開催しました。写真はその時のもので、私の結婚祝いに、サプライズデザートを頼んでくれていました。
この時間は全く無駄ではなく価値のあるものですが、その中の無駄話もまた、私を幸せに、そして楽しませてくれる大切なものでした。
最近ではリモートも活用し、岩手にいる米内君や、大阪にいる小川君、最近転職した近嵐君も含む同期全員で、飲み会をする事が出来ました。
少々長くなってしまいましたが、そんな訳でこんなコロナ禍だからこそ、私は無駄な事と、それを生み出す人とつながる機会を大切にしたいと思っています。
最後に今、日産の中で開成出身者を探しており、いずれは日産開成会がこじんまりでも出来たらいいな、と思っています。
この機会を利用して人を探したいので、周囲に日産関係や自動車業界関連にお勤めやかかわりのある方がいれば、n.suetsugu13@gmail.comまで、お気軽にご連絡いただけると幸いです。
もちろん、この業界に興味のある学生の連絡もWelcomeです!
ここまで、私の無駄話に付き合って下さりありがとうございました!
平成18年卒 末續 信博
平成23 年卒徳田さん近況
平成23年卒業の徳田です.皆さまご無沙汰しております.
私はこの3月に東京大学の博士課程を卒業し,(状況が状況でしたので)海外への渡航を取りやめ,元の研究室に特任研究員として急遽雇用して頂きました.
「新しい生活様式を」という号令の下様々な試みが行われていますが,会員の近況というページをちゃっかり利用して,一研究員としてのスタイルや私見を皆様に共有致しますので,ご笑覧頂ければ幸いです.
## 研究室のこと
この研究室は,水文学(天文学と同じく「すいもんがく」と読みます,英語ではhydrologyです)が専門です.水文学は,空からの降水,陸や海からの蒸発,河川や海での流れといった水の循環を対象とした学問であり,私たちは特に空(大気)や陸(陸面)での水の動きを,主にコンピュータ上の数値
モデルを用いて分析することに突出しております.
近年しばしば話題になる豪雨による河川氾濫の予測なども集中している研究テーマの1つです.このような研究ですので,業務はほぼテレワークで完結してしまいます.実験室に泊まり込んで実験をするというイメージの強い工学部の中では,とても珍しい部類かと思います.
東京大学でも全学的に講義形式の授業や(一定人数以外の)ミーティングは全てオンラインに移行しましたので,テレワークが最も進んでいる環境なのではないかと自負しております.
## 自分のテレワーク環境のこと
私のテレワーク環境自体はとてもシンプルで,大きいモニターと大きい机,質の良い椅子を基本に,部屋の広さや予算に合わせて適宜調整(妥協とも言います)しただけです.
やはり最も重要なのはテレワークに対する態度だと思います.しばしば「テレワークは仕事に集中
できない」という声が聞かれます.もちろん人によって事情は様々に異なるでしょうけれど,それは「テレワークをして初めて,仕事に集中できていない自分に気づけた」と前向きに捉えるのが良いと
思います.
もちろん研究は,他人と議論をしてこその営みです.従って,研究室で通りすがりの人を捕まえて
研究の相談に乗ってもらう,という従来の様式をどう移行すべきか,というのが目下の悩みです.
ZOOMやTeams,Slackといった様々なチャンネルを現在試しておりますが,やはり人と直接会って
話をするという単純さと効率にはまだ及んでいない気がします.
## 海外との研究のこと
話を国際的な研究に移します.この状況なので学会や出張はほぼキャンセル,またはオンライン開催になっておりますが,反対に国際会議や外国の研究者との議論の場は急増しております.
今までは国際会議に参加するためには(1) 向こうから招待して頂いた上で,(2) 現地まで出張しなければならなかったのですが,オンラインですとその障壁が著しく下がります.私も先生に誘って頂いて
会議に参加することが増えてきました.先生に言わせれば,これまでは国際会議の出張中は日本の業務から距離を置けたのに,今では,昼は日本時間で働き,夜は海外の時間で働くという状況になっているそうです…. このような柔軟な会議開催は,先生方を含めたこれまでの研究者ネットワークの賜物であり,今はその貯金を切り崩しながらやっている状況ではあるのですが,ようやく名刺に「博士 (工学)(裏面にはPh.D.ですよ♪)」と印刷されたばかりの新参者にとっては大変ありがたいことです.
ただし,これからキャリアを積み上げていかなければならない中,どのような人材がオンライン
コミュニケーションで評価されるのか,といった点に関しては敏感にならなければならないと思って
おります.オンラインですと発言の内容によって場をリードする人が移り変わるという空気は作りづらいので(司会を固定して,研究発表→質疑応答を繰り返す),こんな論文を書いた,こんなツールを
作ったという進捗の見えやすい評価軸が偏重されていくのでしょう.
他人を評価する立場になるのは当分先になりますが,オンラインでは難しいが必要なこと/実は不要だったこと/それでも相手が重視していることなどをコミュニティ全体で言語化していくことが必要
だと思います.オンライン化の進展に伴うこのコミュニティの規模や定義そのものの変化についても
気になるところです.
## 将来のこと
話に将来のことが見え隠れしてきたので,直近数年間の予定について少しお話します.在学中は元々水文学の大家がいらっしゃるニューヨークの大学の方に行く予定だったのですが,諸々の事情で中止になりました.
しかし幸いにもこの分野では,世界全体の経済状況が悪くなって研究予算も削減されるという波が
比較的小さいように感じます.現在もカナダとアメリカに応募先が見つかりました.
ただ,旅行で行くことすらリスクを感じるのに,就職しても大丈夫なのか,とは悩むところです.
日本に留まること自体も,より長期的なキャリアからすればリスクになり得るので,それとのバランスになると思います.
## 終わりに
長くなりましたが,このオンライン環境で最も悩むのは,新しい友人の作り方ですね.いや同期の
数名を代表して申し上げると友人には限らずなのですが.
コミュニケーションを(こう表現するととんでもなく乾燥的ですが)相手のバックグラウンドから
感情を予測し,態度や反応からリアルタイムでその予測を修正していくという過程として捉えると,
いかに私たちが言外の相手の様子を頼りにし,また様々な工夫で自分の考えを表現していたか,ということを痛感致します.
またチャットや通話を誰かと始めるときの気苦労を考えると,今まで研究室やキャンパスでしていた雑談というのは「相手を特定しない」ものだったのですね.それはお互いがちょうど居合わせたから
始まったものであり,それを(時には意図的に)積み上げた先に相手を特定したコミュニケーションがある,そんな手順をこれまで無意識に繰り返してきたということにようやく気づきました.
同時に,昔からの知人を大切にしたいという思いが一層強まっているのも事実です.同期はもちろん,バレー部の部活でしか会わなかった先輩後輩とお酒を一緒に飲める数少ない場所がOB会でした.この近況報告ではついつい自分語りが過ぎましたが,開成会会報の短信ほどの分量でも勿論嬉しいので,皆様の近況を共有して是非見応えのある場にして頂けると幸いです.
卒業後はほとんどバレーボールをしないOBになってしまいましたが,自分が開成バレー部の一員であったことを改めて自覚させられるような,また海外に行っても懐かしさや元気を頂けるような,そんな年代の方々の投稿をお待ちしております! そうするとネットサーフィンの要領で会費納入のリンクのクリック数が増えるかも…? クレジットカードでも払えるのですね(ダイレクトマーケティング).
平成11年卒 楓さんご子息が小学生バレーボール大会で全国優勝(2019年8月)!!
長男である淳道(あつみち)は小3の6月から杉並区阿佐ヶ谷の杉並第一小学校を拠点として活動する「東京杉一クラブ」に入団し、5年生の時に男女混合の部で全国ベスト16、6年生の時(2019年)には男子の部で全国優勝を飾ることができました。運良く身長が早く伸びたこともあり、スパイカーとして起用していただきました。
何よりも長男が幸運であったことは、開成バレー部の大先輩である片野様が、都大会はもちろん全国大会での優勝時も間近で見守ってくださっていたことです。改めて、開成バレー部のご縁を有り難く感じた次第です。片野先輩、本当にありがとうございました。
平成11年卒 楓 淳一郎
月刊バレーボール2019年7月号 楓淳道君インタビュー
「お父さんに『バレーボールをやらないか』と言われて、バレーボールを始めました。3つのチームに体験に行ったのですが、東京杉一クラブはチームの雰囲気が一番良かったので入団しました。それまではスイミングをしていましたが、バレーボールはチームプレーで、声を出したりボールをつないだりするのがおもしろいと思いました。得意なプレーは身長を生かしたスパイクとブロックです。今年の目標は日本一になること。そのためには声を出したり仲間を助けるプレーでつなぐことが大切になると思います。」
楓淳一郎さんコメント:
お父さんに「バレーボールをやらないか」と言われて…
とありますが、事実は違います。私は野球でもサッカーでも良かったのですが、バレー経験者である妻が「野球もサッカーもルールが分からないから引率してもつまらない」と主張した結果、バレーになったというのが真相です。
関連リンク