会員の近況

本ページは最新の記事が上になるようにして掲載しています。
掲載記事一覧については、「OBの活躍・近況・趣味」のページをご覧ください。

H21年卒 溝口さん近況

H21年卒の溝口と申します。

ここしばらくOB会の集まりに参加できておりませんでしたが、お声がけいただき、今年より幹事に就任いたしました。
年度の近い幹事の徳田さんより、これを期に是非とのことで、ご挨拶と簡単な近況につきまして寄稿させていただきます。(徳田さんやOB会幹事の皆様のご功労の上でこのように接点を持ち続けられることに感謝です) 

私は中高とキャプテンを務めておりました。といっても中学時代は同期のメンバーはほぼおらず先輩方・後輩方の支えでなんとか続けられ、高校に入ってからは新高としてバレー部に入ってきてくれた同期の心強い仲間とともに楽しく活動をすることができました。卒業後は高校生のコーチをさせていただき、またOB会ホームページの運営もしばらく担当しておりました。 

現在、私はITスタートアップでエンジニアをやっています。創業当初から関わり3年になりますが、成功1失敗9のドタバタの中で日々忙しく働いております。
私の会社は美容室をはじめとして、ネイルやアイラッシュ等美容サロンのためのシステムを開発・販売しております。
最近はデジタル化が進んでいない産業・領域をITの力でより良く発展させる、いわゆるDX(デジタルトランスフォーメーション)という言葉をよく聞くようになりました。デジタル庁の発足もあり、デジタル化を加速させていこうという流れが強まっているのを感じます。
「DX」それだけで聞くと何かスマートで機械的な印象を受けますが、個人的には、もっと泥臭く、また人間くさい側面も併せ持つのかなと感じています。
実際、自身で美容室の現場に行くと、そこには美容に対する強い情熱を持ち、とても”人間的”に仕事をされている美容師の皆さんがいます。そのような方々の思いや、業務の内容、業界的な背景まで深く理解しないことには、本当に意味のある付加価値は提供できないのかなと思います。薄っぺらいIT化ではなく、あくまでデジタルは手段であることを胸に、IT技術者として何ができるのか日々考えるところです。

 私の話はこのあたりにして、せっかくなので同期の皆の近況にも触れたいと思います。(私自身もほとんど連絡をとっていなかったので、いい機会でした)

最近はコロナも落ち着きつつありますので、またOBの集会などもできるようになるといいですね。

 

松山さん

私も溝口君と同じくスタートアップで働いており、伝統的且つ労働集約産業である保育業界で何ができないか日々向き合い、プライベートでは子どもが2人おり、公私共に子どもについて考える日々を送っています。
 

 佐藤さん

今年から千葉大学病院で大学院生として働いています。ドクターXのドラマ撮影に来る米倉涼子をみてモチベーションを保ちつつ、失敗しない外科医を目指し研鑽を積んでいます。
 

仲澤さん

今は千葉大学医学部附属病院で消化器内科医として勤務してます。
なかなかバレーをする機会はないですが、前の勤務先(千葉メディカルセンター)のバレー部の練習にたまに参加してます。あと6月に結婚しました。 

2021年12月掲載

溝口さん
松山さんのお子さん
佐藤さんの双子ちゃん

平成15年卒 吉田さん近況

 平成15年卒の吉田 和成(よしだ かずなり)と申します。
 ほとんどの会員の皆様とは、大変ご無沙汰、もしくは初めまして、となるかと思います。
 平成15年卒の代では部長をさせていただき、ポジションはセッターでした。卒業後、なかなかバレーボール部やOB会の活動に参加できておらず、大変申し訳なく思っております。 

 簡単ではありますが、わたくしの近況をご紹介したく筆をとりました。
 2020年は、東京オリンピックもコロナ禍で延期となり、皆様も色々とご苦労がたえないかと存じます。わたくし個人も、今年は変化の多い年となりました。

 わたくしは大学卒業以来、第一生命保険に勤めておりますが、4月付で関連会社の第一リース大阪支店に出向となりました。業務内容も改まり、新しい環境、かつ転勤早々にコロナ禍による緊急事態宣言と、目まぐるしい日々でした。

 そんな中ですが、920日に家族で結婚式をあげることができました。日枝神社での式の写真を以下添付致しますので、ご覧ください。

 妻も職場でバレーボールのサークルに入っているそうで、わたくし達はある意味ではバレーボールという共通点がある夫婦です(もっとも、妻のトスの形を確認したところ、突き指が多発しかねない危険な我流の形でしたので、指導・矯正しなければと思います)。今後は、夫婦でバレーボールを共通の趣味にできればと考えております。 

 わたくしは高校卒業からもうすぐ18年となりますが、改めていま感じますのは、バレーボールがわたくしに与えてくれ、また部活動を通じて培われたものの大きさです。
 
スポーツを通じた身体能力の向上は勿論のこと、人格形成にもバレーボールの果たした役割は大変大きなものがありました。
 バレーボールは、チームワークが試合の勝敗を分けることを会員の皆様はよくご存知のことと思います。苦しいとき、つらいとき、周囲の仲間と声を掛け合い、乗り越えていくことは、公私ともに重要なことですが、そのかけがえのない経験をバレーボール部の活動で幾度となくさせていただき、いまの自分があると感じます。試合や練習の記憶を振り返り、「あの時、もう少し頑張っていれば」と思うことは数限りがありません。中村先生や栗原先生、奥山先生からいただいたご指導の数々を思い出すと、感謝とともに当時の自分の未熟さを痛感します。
 今後の社会生活という長く続いていく「試合」で確実に勝利を収めるべく、そうした経験を存分に活かしていきたいと思っています。 

 先日、一期先輩の大内隆成さんと、同期の川原康朋君とZOOMでオンラインにて交流する機会がありました。コロナ禍でリアルな会食は難しいなか、貴重なお話ができました。 バレーボール部で得た先輩、仲間との繋がりも、これまたかけがえのないものです。 また、バレーボール部の色々な活動で皆さまにお会いできることを楽しみにしております。

 新型コロナウイルスの流行はまだ終息が見通せない状況ですので、皆さまくれぐれもお身体ご自愛ください。

S45年組男旅 小川さん、佐藤さん、山本さん

 

 バレー部同期3人で山陽・山陰を旅行してきました。メンバーは昭和45年卒の小川、佐藤、山本です。(原爆ドーム前の集合写真で左から、佐藤、小川、山本です)
 
期間は2019年5月23日(木)から5月29日(水)までの6泊7日、訪問先は広島、秋芳洞・秋吉台、玉造温泉、出雲大社、鳥取砂丘、倉敷です。駆け足で山陽・山陰を一周しました。
 3人は晴れ男、メンバーの日ごろの行いも良かったせいでしょうか、鳥取砂丘以外は晴天で天候に恵まれた1週間でした。

1. 広島

 最初に訪れたのは広島。JRを中心に動くので、宿は広島駅前のアークホテル広島駅南です。
駅近・大浴場の条件をクリアしたのは1件だけなので、宿探しは迷わずに済みました。広島着が
1334、宿に荷物を預けて、平和記念公園、原爆ドームを見てから広島城に行きました。
平和記念公園までは広電、原爆ドームの前を通り広島城までは徒歩。初日と言うこともあり、おじさんたちは元気いっぱいです。その晩は小川さんの《広島の彼女》の案内で“広島風”お好み焼き。そばとうどんの2種を堪能。うどん入りは初めて食べました。

 2日目は午前が大和ミュージアム、午後が厳島神社。広島と呉の往復はJR、広島と宮島口との往復もJRで、宮島口から宮島はJR西日本フェリーに乗りました。大和ミュージアムは興奮しました。記念写真のサービスがあり、帽子を貸してくれるのですが、小川さんだけ顔が大きいのでしょうか?合うものがありませんでした。お隣の鉄のクジラ館には本物の潜水艦がおいてあり、中に入れます。お昼はここで海軍カレー。宮島は鹿がたくさんいました。

 夕食は小川さんの友人に紹介して頂いたホテルのそばの居酒屋。そこで出会った地元の人に、教わったシャコのうまかったこと。これから島根、鳥取に行くと話したところ、鳥取は島根に比べて田舎だとのこと。個人的には島根のほうが田舎だと思っていたので、「ビックリ!」2日目もたっぷり歩きました。

2. 秋芳洞・秋吉台

 3日目に広島から新山口まで新幹線で移動。新山口から秋芳洞・秋吉台まではバスで1時間半ほどでした。新山口でおり、バス乗り場に向かうと長蛇の列。年配の女性ばかりです。さすが秋芳洞と感心していたら、女性陣はリムジンバスにのり、萩に行ってしまいました。ジャニーズ事務所のアイドルの公演(嵐?)があるとのこと。秋芳洞に向かったのは我々3人+数人でした。
 バスを降りると秋芳洞はすぐです。秋芳洞の奥まで行き、エレベータで地上に出ます。

 宿は近いと聞いていたのですが、迷子になった様で、着いたのは秋吉台の観光台。秋吉台を目に収めてから宿探し。宿泊したのは秋吉ロイヤルホテル秋芳管、秋吉台唯一のホテルでしたが、今年の春にCOVID-19の影響で閉館したそうです。

  翌日は、バスで新山口駅まで戻りJRで次の訪問先の玉造温泉まで移動です。新山口駅での美味しい駅弁を楽しみにしていたのですが、駅には駅弁はなく、セブンイレブンで弁当を買うことになりました。乗車したのは特急「スーパーおき4号」。特急なのですが2両編成、ジーゼルでしかも単線。いきなりローカル色豊かな旅となりました。

3.玉造温泉

 新山口から玉造温泉までは特急で3時間半。山陰の景色を堪能するぞ!と思っていたのですが、旅の疲れに勝てず、爆睡。残念ながら途中の記憶はほとんどありません。玉造温泉の宿は、今回の旅行で唯一の温泉旅館、玉造グランドホテルです。夕食は懐石料理とお酒。お風呂も最高。至福のひと時でした。

4.出雲大社

 翌朝、玉造温泉駅から出雲市駅までJRで移動、出雲市駅からは一幡バスで出雲大社まで30分程度でした。平日でしたので、参拝客も少なく、落ち着いて拝観できました。

お昼は出雲大社裏のお蕎麦屋さん「八雲」で出雲そばをいただきました。

 出雲市駅から鳥取駅まで特急「スーパーはくと8号」で移動。出雲市駅は電化されていたのですが、米子-鳥取間が電化されていないので、ここもジーゼル。米子からはまたしても単線でした。本日もよく歩きました。

 

5.鳥取砂丘

 鳥取の宿は駅の近くのホテルモナーク鳥取。もちろん、大浴場があります。
夕食はホテルのそばの居酒屋。残念ながら良かったという以外記憶に残っていません。

 翌日に鳥取砂丘に行きました。バスで30分程度だったと思います。駅によると「鳥取の居酒屋」なる駅弁がありました。今回の旅行初の駅弁です。午後に移動なので、駅弁を予約して鳥取砂丘に向かいました。

 この日は生憎の小雨、風も吹いています。おまけに長旅で疲れてもいました。鳥取砂丘は眺めるだけにして、砂のミュージアムを見て帰路につきました。

6.倉敷

 倉敷訪問は佐藤さんのリクエストでした。

 鳥取から姫路までスーパーはくと、姫路から岡山までが新幹線、岡山と倉敷はJR在来線です。鳥取-姫路間はもちろんジーゼルで単線です。姫路が近づくと都会色にあふれていて別世界。ようやく電車に乗れました。

 その晩は居酒屋で夕食。翌日の倉敷観光の下見をしました。倉敷のお目当ては「倉敷美観地区」。夜はライトアップされています。下見を兼ねてライトアップした姿をチラ見しました。
 翌日に「倉敷美観地区」に行ったのですが、偶然だったのですが、ボランティアのガイドさんに案内してもらえました。川船流しにも乗れたし、お昼をいただいたお店も紹介してもらえました。ガイドさんの力はすごいですね。「ありがとうございました!」

7.帰路

 無事、倉敷観光も終わり帰路につきました。倉敷から岡山まで在来線。岡山から「ひかり」です。佐藤さんは三島下車、山本は新横浜下車、小川さんは東京です。
 おじさん3人の1週間の旅は楽しかったですね。よく歩いたこともあり、心地よい疲れを久々に感じることができました。
 今年は、東北旅行を予定していたのですが、COVID-19の影響で断念しました。来年こそ実現したいですね。

 

8.JRのジパング倶楽部

 今回の旅行ではJRのジパング倶楽部のお世話になりました。ジパング俱楽部は全国版でJR東では大人の休日俱楽部ジパングと呼ばれています。男性は65歳以上、女性は60歳以上で入会でき、最初の3回の利用までは20%割引、それ以降は30%も割り引いてもらえます(大人の休日倶楽部ジパングはJR東であれば最初から30%割引です)。

 前々から利用するよう勧められていたのですが、大人の休日倶楽部ジパングはJR東でしか使えないものと勘違いしていました。長嶺君に確認したところ全国で使えると言うではありませんか。3人で早速、入会し、特典のお世話になりました。年会費が3,840円かかりますが、元はすぐにとれます。

 新幹線を使う場合、のぞみが使えません。往きは岡山までひかり、その先さくらに乗りました。帰りは岡山から新幹線だったので、ひかりを使いました。小川さんは東京、山本は横浜、佐藤さんは三島なので、ひかりを使えば、それぞれが近くの駅で乗車できたので、のぞみを使うよりも良かったと言えます。
 大人の休日倶楽部はこの他にも特典満載です。次の東北旅行はJR東なので、特典を使いまくるつもりです。
 まだ、入会されていない人、ご存じなかった方がいらしたら入会をお勧めします。

                                   昭和45年卒 山本惠一

平成18年卒末續さん近況

平成18年卒業の末續信博(すえつぐのぶひろ)です。
皆様初めまして。お久しぶりの方はご無沙汰しております。 

こちらに載せるほどの大したことは書けないかと思いますが、皆さんと繋がれる良い機会なので、誠に僭越ながら筆を執らせていただきました。

簡単に自己紹介をすると、私は開成を卒業後、仙台にある東北大学・大学院で6年間を過ごし、現在神奈川は厚木市にある日産自動車の開発拠点に勤めております。早いもので社会人になってから7年半が経ちました。

今日は、私から“価値ある無駄な話”をテーマに近況をお話しますので、しばしお付き合いください
ませ。 

私の仕事は、簡単にかつ理想的に言うと、人々の暮らしが豊かになるような車を世に送り届ける事、
です。

宣伝になってしまいますが、先日弊社からキックス e-POWERという素敵な車が発売されました。私はそのプログラム責任者の一人として仕事をしていたため、店頭に並んだり街中を走ったりしている姿を見て、とても興奮しました。
恐らく、都心に住んでいる方からすると、“車を持つ事”を価値と感じない人も多く、移動をするだけであればレンタカーやタクシーでいいから、買うことは“無駄”な事だと思っている人も多いのではないかと思います。車作りにかかわっている身、そして車が大好きな私としては、残念だなぁ、車を持ったら幸せになれるのに、とずっと悲しく思っていました。 

しかし最近はむしろ、だからこそ車には価値がある、と思うようになりました。何故なら、車の価値が本当に移動手段だけだとしたら、各社がデザインを気にしたり、独自の技術をつぎ込んだりはしないと思うのです。電車のように、画一的になっていくはずなのです。つまり、デザインやブランドといった、特に目に見えない“無駄”に価値を感じてもらう事が、車を買っていただく原動力なのだと考えるようになりました。

そもそも、無駄が経済を回している、なんて言葉もあるぐらいです。車というのは、個人が買えるものの中で最も高い商品の一つです。そして所有物で“愛”(=愛車)が付く、珍しいものの一つです。
日本では車が売れない、なんて皆さんは聞いていると思いますが、それでも日本国内だけで500万台近くの新車が、毎年購入されていることを、皆さんはご存じでしょうか?私は、初めて知ったとき、そんなに売れているのかと驚きました。
やはり、私が携わっているこの製品は、ただ人を運ぶだけでなく、その無駄を楽しむ誰かをきっと幸せにしている、と思う事が私の誇りであり、日々辛い仕事を耐える理由なのです。

さて、その無駄繋がりで思うのは、経済だけでなく、仕事や人生そのものも、無駄があるからこそ出来る、生きていける、という事です。そしてこのコロナ禍でそれを痛感するようになりました。
昨今どこもかしこも在宅化、オンライン化が進んでいると思います。それに伴い、色々なツールやアプリのお陰で、リモートでも仕事や生活が出来る、と謳っており、実際弊社でもそうなってきています。
しかし、本当にそれだけで、効率や満足度は100%になっているか、と言われると私は疑問です。
その要因の一つとして、明らかに減ったなぁと思うのが、雑談、つまり無駄話です。
会社にいれば、どこかですれ違った時に、“あ、この前の件ありがとうございました!”なんて一言かわし、“そういえばあれってどうなったんですか?”という一言で情報を貰う事も。 

コロナショックの前、会社内の雑談で出身高校の話になり、たまたま後ろの席にいた別の課の先輩が“え?お前開成なの?俺もだよ?”なんて事になり、それから何度か飲み会に連れて行ってもらい、楽しい話を聞かせてもらいました。
さらにはこんな事も。買い物もオンラインでできる世の中にありながら、あえて町田のヨドバシカメラの店舗に用もなく行ったら、たまたま一つ上の浅川先輩夫妻にばったり会いました。
さらには昔、社会人になってすぐの頃、開成とは全然関係ない友人の紹介で、慈恵医大の女子バレー部の指導をお手伝いしていた頃、東医体の応援に行ったら、バレー部OBの森禎三郎先輩もたまたま応援に来ていて、挨拶をすることができました。

こういった事は、無駄が運んだ幸せだ、と私は思っています。
効率化、生産性向上、詰め込み教育などと、何かとストレスが溜まりやすい世の中だからこそ、無駄を大切にできるのが、幸せに生きることの秘訣なのかもしれないな、なんて思って日々を生きています。

 さて、そんな私はバレー部同期とも定期的に会っており、先日は梶原君がアメリカから、大橋君がメキシコから、そして小泉君は長野から(近いですが笑)帰ってきたお祝い、というこじつけで飲み会を開催しました。写真はその時のもので、私の結婚祝いに、サプライズデザートを頼んでくれていました。

写真の前列左で白いシャツを着ているのが私です。右の灰色ポロシャツに眼鏡姿が梶原君、左上紫ポロシャツが小泉君、右上灰色シャツが大橋君です。                       

この時間は全く無駄ではなく価値のあるものですが、その中の無駄話もまた、私を幸せに、そして楽しませてくれる大切なものでした。
最近ではリモートも活用し、岩手にいる米内君や、大阪にいる小川君、最近転職した近嵐君も含む同期全員で、飲み会をする事が出来ました。 

少々長くなってしまいましたが、そんな訳でこんなコロナ禍だからこそ、私は無駄な事と、それを生み出す人とつながる機会を大切にしたいと思っています。 

最後に今、日産の中で開成出身者を探しており、いずれは日産開成会がこじんまりでも出来たらいいな、と思っています。
この機会を利用して人を探したいので、周囲に日産関係や自動車業界関連にお勤めやかかわりのある方がいれば、n.suetsugu13@gmail.comまで、お気軽にご連絡いただけると幸いです。
もちろん、この業界に興味のある学生の連絡もWelcomeです!

ここまで、私の無駄話に付き合って下さりありがとうございました!

                                   平成18年卒 末續 信博

平成23 年卒徳田さん近況

 

 平成23年卒業の徳田です.皆さまご無沙汰しております.

 私はこの3月に東京大学の博士課程を卒業し,(状況が状況でしたので)海外への渡航を取りやめ,元の研究室に特任研究員として急遽雇用して頂きました. 
 「新しい生活様式を」という号令の下様々な試みが行われていますが,会員の近況というページをちゃっかり利用して,一研究員としてのスタイルや私見を皆様に共有致しますので,ご笑覧頂ければ幸いです. 

 

## 研究室のこと

  この研究室は,水文学(天文学と同じく「すいもんがく」と読みます,英語ではhydrologyです)が専門です.水文学は,空からの降水,陸や海からの蒸発,河川や海での流れといった水の循環を対象とした学問であり,私たちは特に空(大気)や陸(陸面)での水の動きを,主にコンピュータ上の数値
モデルを用いて分析することに突出しております.
 近年しばしば話題になる豪雨による河川氾濫の予測なども集中している研究テーマの1つです.このような研究ですので,業務はほぼテレワークで完結してしまいます.実験室に泊まり込んで実験をするというイメージの強い工学部の中では,とても珍しい部類かと思います.
  東京大学でも全学的に講義形式の授業や(一定人数以外の)ミーティングは全てオンラインに移行しましたので,テレワークが最も進んでいる環境なのではないかと自負しております.


## 自分のテレワーク環境のこと

  私のテレワーク環境自体はとてもシンプルで,大きいモニターと大きい机,質の良い椅子を基本に,部屋の広さや予算に合わせて適宜調整(妥協とも言います)しただけです.
 やはり最も重要なのはテレワークに対する態度だと思います.しばしば「テレワークは仕事に集中
できない」という声が聞かれます.もちろん人によって事情は様々に異なるでしょうけれど,それは「テレワークをして初めて,仕事に集中できていない自分に気づけた」と前向きに捉えるのが良いと
思います.
 もちろん研究は,他人と議論をしてこその営みです.従って,研究室で通りすがりの人を捕まえて
研究の相談に乗ってもらう,という従来の様式をどう移行すべきか,というのが目下の悩みです.
ZOOMやTeams,Slackといった様々なチャンネルを現在試しておりますが,やはり人と直接会って
話をするという単純さと効率にはまだ及んでいない気がします.

 
## 海外との研究のこと 

 話を国際的な研究に移します.この状況なので学会や出張はほぼキャンセル,またはオンライン開催になっておりますが,反対に国際会議や外国の研究者との議論の場は急増しております.
 
今までは国際会議に参加するためには(1) 向こうから招待して頂いた上で,(2) 現地まで出張しなければならなかったのですが,オンラインですとその障壁が著しく下がります.私も先生に誘って頂いて
会議に参加することが増えてきました.先生に言わせれば,これまでは国際会議の出張中は日本の業務から距離を置けたのに,今では,昼は日本時間で働き,夜は海外の時間で働くという状況になっているそうです….  このような柔軟な会議開催は,先生方を含めたこれまでの研究者ネットワークの賜物であり,今はその貯金を切り崩しながらやっている状況ではあるのですが,ようやく名刺に「博士 (工学)(裏面にはPh.D.ですよ♪)」と印刷されたばかりの新参者にとっては大変ありがたいことです.

 ただし,これからキャリアを積み上げていかなければならない中,どのような人材がオンライン
コミュニケーションで評価されるのか,といった点に関しては敏感にならなければならないと思って
おります.オンラインですと発言の内容によって場をリードする人が移り変わるという空気は作りづらいので(司会を固定して,研究発表→質疑応答を繰り返す),こんな論文を書いた,こんなツールを
作ったという進捗の見えやすい評価軸が偏重されていくのでしょう.
 他人を評価する立場になるのは当分先になりますが,オンラインでは難しいが必要なこと/実は不要だったこと/それでも相手が重視していることなどをコミュニティ全体で言語化していくことが必要
だと思います.オンライン化の進展に伴うこのコミュニティの規模や定義そのものの変化についても
気になるところです.

 
## 将来のこと 

 話に将来のことが見え隠れしてきたので,直近数年間の予定について少しお話します.在学中は元々水文学の大家がいらっしゃるニューヨークの大学の方に行く予定だったのですが,諸々の事情で中止になりました.
 
しかし幸いにもこの分野では,世界全体の経済状況が悪くなって研究予算も削減されるという波が
比較的小さいように感じます.現在もカナダとアメリカに応募先が見つかりました.
 ただ,旅行で行くことすらリスクを感じるのに,就職しても大丈夫なのか,とは悩むところです.
日本に留まること自体も,より長期的なキャリアからすればリスクになり得るので,それとのバランスになると思います.

 
## 終わりに 

 長くなりましたが,このオンライン環境で最も悩むのは,新しい友人の作り方ですね.いや同期の
数名を代表して申し上げると友人には限らずなのですが.
 
コミュニケーションを(こう表現するととんでもなく乾燥的ですが)相手のバックグラウンドから
感情を予測し,態度や反応からリアルタイムでその予測を修正していくという過程として捉えると,
いかに私たちが言外の相手の様子を頼りにし,また様々な工夫で自分の考えを表現していたか,ということを痛感致します.
 またチャットや通話を誰かと始めるときの気苦労を考えると,今まで研究室やキャンパスでしていた雑談というのは「相手を特定しない」ものだったのですね.それはお互いがちょうど居合わせたから
始まったものであり,それを(時には意図的に)積み上げた先に相手を特定したコミュニケーションがある,そんな手順をこれまで無意識に繰り返してきたということにようやく気づきました.
 同時に,昔からの知人を大切にしたいという思いが一層強まっているのも事実です.同期はもちろん,バレー部の部活でしか会わなかった先輩後輩とお酒を一緒に飲める数少ない場所がOB会でした.この近況報告ではついつい自分語りが過ぎましたが,開成会会報の短信ほどの分量でも勿論嬉しいので,皆様の近況を共有して是非見応えのある場にして頂けると幸いです.

 卒業後はほとんどバレーボールをしないOBになってしまいましたが,自分が開成バレー部の一員であったことを改めて自覚させられるような,また海外に行っても懐かしさや元気を頂けるような,そんな年代の方々の投稿をお待ちしております! そうするとネットサーフィンの要領で会費納入のリンクのクリック数が増えるかも…? クレジットカードでも払えるのですね(ダイレクトマーケティング).

平成11年卒 楓さんご子息が小学生バレーボール大会で全国優勝(2019年8月)!! 

 長男である淳道(あつみち)は小36月から杉並区阿佐ヶ谷の杉並第一小学校を拠点として活動する「東京杉一クラブ」に入団し、5年生の時に男女混合の部で全国ベスト166年生の時(2019年)には男子の部で全国優勝を飾ることができました。運良く身長が早く伸びたこともあり、スパイカーとして起用していただきました。

 何よりも長男が幸運であったことは、開成バレー部の大先輩である片野様が、都大会はもちろん全国大会での優勝時も間近で見守ってくださっていたことです。改めて、開成バレー部のご縁を有り難く感じた次第です。片野先輩、本当にありがとうございました。

平成11年卒 楓 淳一郎

 月刊バレーボール20197月号 楓淳道君インタビュー

「お父さんに『バレーボールをやらないか』と言われて、バレーボールを始めました。3つのチームに体験に行ったのですが、東京杉一クラブはチームの雰囲気が一番良かったので入団しました。それまではスイミングをしていましたが、バレーボールはチームプレーで、声を出したりボールをつないだりするのがおもしろいと思いました。得意なプレーは身長を生かしたスパイクとブロックです。今年の目標は日本一になること。そのためには声を出したり仲間を助けるプレーでつなぐことが大切になると思います。」

楓淳一郎さんコメント:

お父さんに「バレーボールをやらないか」と言われて…

とありますが、事実は違います。私は野球でもサッカーでも良かったのですが、バレー経験者である妻が「野球もサッカーもルールが分からないから引率してもつまらない」と主張した結果、バレーになったというのが真相です。

関連リンク

昭和50年卒 故杉山氏を偲ぶ会

【昭和50/51卒 故杉山君を偲ぶ会開催】
2020年2月10()13年同月に亡くなった同期の杉山君を偲ぶ会を松下君経営の東大前駅近くの中華レストラン「玻璃家(ボーリージヤー)」で開催しました。
1年下の上野君も駆け付けてくれ、ピアノでシャンソンを奏でるなど多才だった裏エース(今風には?ウィングスパイカー)を、おいしい上海料理をいただきながら偲ぶことができました。
残念ながら都合の合わなかった安藤君、木村君、1年下の島川君、上田君も揃った会を催せる日が1日も早く訪れることを祈っているところです。
【写真説明:左から 海老沢・竹内・松下・上野・市村】

2020年7月掲載

昭和49年卒 故岡本氏を偲ぶ会

【昭和49卒 故岡本君を偲ぶ会開催】
2020年118()2019年に亡くなった同期の岡本君を偲ぶ会開催しました。
テーブル奥に岡本君の遺影を飾り、昔の写真や資料を見ながら懐かしみました。
【同期14名出席】

2020年7月掲載

 

岡本洋君を偲ぶ

昭和49年卒 堀口 健一

 岡本さんとバレー部関係のことは皆さんが書くでしょうからバレー以外のことを。

 私は1987年から1994年までロスアンゼルスに赴任していたのですが、岡本さんは同時期にノースカロライナ州のシャーロッテに転勤してきて、同じ家族帯同の米国勤務という境遇で、会社への不満や米国生活の苦労、家族の悩み等、けっこう頻繁にやり取りし、岡本さんも辛い立場だったでしょうけれど、ひたすら私の立場を慮って聞き手に回ってくれ、それが当時の私にとって大きな支えになっていました。「道灌山の坂ダッシュ10本の後のバレーコートうさぎ跳び2周を思い出せばどうってことないじゃん」。改めて岡本さんのユーモアと誠実さに感謝です。

 もっと若い時ですが、ひときわ鮮明な思い出は、岡本さん、清水さん、丹治さんと堀口の四人で高校2年の春休みに四国一周旅行を決行したことです。誰が言い出したのか、なぜこのメンバーになったのか等記憶がさっぱりないのですが(清水さん、丹治さん、もしおじいさんの記憶が間違っていたら訂正・追加してください。すみません)、バレー仲間で一番気の置けない人たちだったのだと自分では思っています。約一週間、周遊券等を使って宇高連絡船、鳴門の渦潮、かずら橋、室戸岬、桂浜、足摺岬と貧乏旅行。

 なかでも、岡本さんが祖谷渓国の民宿で出された手打ちの十割蕎麦を「まずい、ゴムみたいだ」と言いながら淡々とたいらげたこと、ちょうど四人なのに麻雀もせず、夜遅くまでしゃべって少し酒を飲んで、私は高校生レベルの幼い猥談にはしゃいでいたのに、岡本さんは「むふふ」とむっつりなんとかの笑いで応えていたのが印象的でした。今思えばmatureな、いっしょにいて心から寛げるともだちでした。

 岡本さんとは個人的に約束したことがあって、その後病気や諸々の事情があって話せないままになってしまったのですが、きっと自分はその約束を最後まで守っていくと思います。

ご冥福をお祈りします。

2021年11月掲載

岡本洋君の想い出

昭和49年卒 松原 秀彰 

私達の学年同期の岡本洋君は、2019年春、この世を去ってしまった。バレー部同期で偲ぶ会をした写真はホームページに掲載したが、山本純一先輩の追悼文特集を読んでいるうちに、無性に岡本君の想い出を書きたくなった。

まず開成時代の彼のバレーボールのプレーについて書く。彼は中学時代、セッターでレギュラーだった。9人制ではフォワードセンターである。オーバーもアンダーもパスは基本に忠実だったと思う。私は彼のトスは打ちやすかった。サーブは高い弾道で変化(振動)の多い、レシーブしにくい球を打っていた。

中学時代の彼らしい話を二つほど紹介する。バレー部の仲間として打ち解けてきた頃(中2か中3)、私は昼休みに岡本君のいるクラスの部屋に遊びに行ったときのことである。彼は、顔の頬を両手で抑えてうずくまっていた。「どうしたんだ」、「S君にぶたれた」、「どうして」、真っ赤に腫れあがってとても痛そうな顔をしかめながら、「パンを食べたあとの袋をベランダから投げたら、S君にたたかれた」。S君は当時確か風紀委員長か何かで、しかも柔道部である、力の入ったビンタは、それはそれは痛かっただろう。私は岡本君に同情するというか、そこ(ビンタ)までしなくても良いのではと思ったが、岡本君はそのきつーいお仕置きを、多少腹は立っていたと思うがじっとこらえて受け入れているようであった。もう一つの話も普段の学校生活のエピソードである。岡本君の家は小平(当時は都内に対して都外とか都下といっていたような?)で、私は中村橋(練馬区)で、一緒に山の手線で帰ることが多かった。私達が話しているとK君(確か上石神井)が寄ってきて、岡本君のことををからかうのである。内容は、「小平なんてほんとド田舎かだようなあ、人住んでるの、スーパーあるの・・・」、ひどいつっこみである。岡本君はたまに反論というか、内容は思い出せないが、気の利いた反抗をタイミング良くするのである、「小平はいいところだよ~・・・」って感じで。二人の会話は本当に傑作な漫才になっていて、私は電車の中で人目を気にせずゲラゲラ笑っていたし、周りの赤の他人もおかしいと思っていたに違いない。岡本君は、いろんな人とのつきあい、とくに個性の強い奴からのつっこみを非常に巧みに、しかもおかしくかわしていく性格(特技)をもっていたと思う。小平の家には仲間と泊めてもらったことがあるが、とても都会的な街並みと、素敵なおうちで、ご両親、お姉さん、お兄さんにもお会いできて、優しくて穏やかなご家族であったことをよく覚えている。

岡本君と私は高2、高3と一緒のクラスとなり、彼は安定して良い成績をとっていて、現役で東大文2に合格し、そして東大のバレー部に入った。私は1浪して東大に入り、かなり迷ったあげく、バレー部に入って、岡本君を「岡本さん」と呼ばねばならない状況になった。とは言っても、二人になったときは「岡本」と呼び捨てだったが。東大バレー部は確か当時4部でそれなりに強く、バレーの上手い選手が揃っていて、岡本君も私もレギュラーにはなれなかった。彼はセッターとしてレギュラー入りを目指していて、彼に頼まれてクラブの時間以外に彼のセッターの練習を頻繁(ほぼ毎日?)に手伝った。1年間、彼とともにどっぷりと大学のバレーの生活につかった。春秋リーグ戦、七帝戦、遠征、合宿、練習(+α)とほぼ毎日、彼と過ごしていたと思う。しかし、私は決心して東大バレー部をやめることにし、彼に「あとは頼む」みたいなことを告げたように記憶している。彼は、4年間、立派に東大バレー部を続け大学を卒業した。

時を遡ってしまうが、岡本君の想い出で、どうしても忘れられないことがある。たしか高校卒業時(3月?)の開成バレー部の合宿に彼も私もあと何人かの同期も参加したとき、たいへんな事件が起こってしまった。「コンビーフ缶事件」と私たちは呼んでいるが、OBなり立てで、はしゃいで、たぶん飲酒して、布団に入って、消灯して、寝静まった頃、岡本君が、「いてー!」と叫んで、電気をつけたところ、コンビーフの空き缶のひっくり返っているものを、彼が踏んでしまい、切れた足(かかと)から血が大量に出ているのである。みんな飛び起きて、応急処置(タオルでぐるぐるまきに)して、救急車を呼んで病院に駆け込んだのである。彼は、包帯で覆われた足をかばいながら帰ってきて、みんな少しほっとしたが、ほんとにたいへんな事件であった。この話は、同期の集まりでは決まって話題になる。

大学時代、私が実家(仙台)に帰るとき、岡本君もついてきて、二人で三陸を旅行した。私もはじめてだったので、三陸の海と山と島の景色と、魚介類の美味しさを二人で堪能した。泊ったのは安い民宿だったが、そこでオーナーと食事の後も少し長く話して部屋に帰って、また二人で話した。ある時、「松原って、地元の人の言ってること、ちゃんと分かっているんだね」と感心されたことがある。民宿のオーナーは都会から来た客と分かっているので、方言はほとんど使っていないのだが、どうもアクセントで彼にはさっぱり分からないみたいだった。「わかんない場合は聞きなおしていいんだよ」と言ったが、どうも彼はその場を乱すのや、相手に失礼だと思うのか、「わからないままでいいよ」という対応だった。これも彼らしい一面であったと思う。

彼は大学を卒業して就職、私は4年生で文京区のアパートにいたが、急に彼から連絡がきて、「そろそろ親元を離れて一人暮らしをしたいので住まい探すのを手伝って欲しい、文京区がいい」ということで、私のアパートから歩いていける場所に適当なアパート(私より高級)が見つかり、引っ越しも手伝って、彼の一人暮らしが始まった。彼はうきうきしていたように思う。たまに二人で夕食や飲み会をした。ある時は、『合コン』をした。女性に「松原さんはいつまで学生でいるの」と、しっかり就職した岡本君と比較されてしまった。彼は、「こいつは勉強が好きでたぶん大学院にいくんじゃないかなあ」と、かえって私の立場を苦しくするコメントをされたような気がする。彼らしいフォローだったかもしれない。

彼の風貌について書く。中学の坊主頭のとき、頭の形でからかわれていた。頭の先がとんがっているとか、三角形とか、あと頭の後ろも出っ張っていた。実は、私も四角形とか絶壁とかでからかわれたので、岡本君がからかわれているとき、次にはこっちに回ってくるといやだな、と思っていた。彼のもう一つの風貌のポイントは、就職後にはやした鼻の下の髭である。「どうして髭をはやすことにしたの」「これまでの顔(髭なし)では目立たないから、髭でもはやして少し個性をだそうと思って」「はあ~」なんて会話をしたと思う。彼の顔は男前だったと思う、高橋幸治に少し似ていたと思う。でも髭はあまり似合っていなかったと私は思う。まあ、彼の価値観の変遷の一つであろう。

最後に岡本君と心の中でやり取りをしたい。「君はあの世に先に行ってしまったが、私もそのうち行くので、また一緒に遊んでくれ。」「いいよ!」って言ってくれるだろう。

2021年11月掲載