「リレー・エッセイ」の開始に関するお知らせ

このたび、OB会員相互の親睦を一層深めるとともに、OB会ホームページ掲載原稿をさらに充実させるため、「リレー・エッセイ」を開始することとしました(従来からの自由寄稿はこれまで通り継続します)。

 寄稿者が(あらかじめ本人の内諾を得たうえで)次の寄稿者を指名する形で、次々とエッセイをリレーしていきます。エッセイの内容は自由。近況報告あり、開成バレー部の思い出あり、日頃の雑感ありで、OB同士の親睦のきっかけになればと思います。エッセイ末尾に次の寄稿者を若干の紹介を付して予告してもらいますので、次のエッセイへの期待も膨らみます。

 幅広い世代からの寄稿を期待して、リレーの系列を複数トラック設けることとします。多くの方の参加を心よりお待ちしております。

以上

  以下はリレー・エッセイ寄稿者への連絡事項です。 

リレー・エッセイの指名を受けた方は、次の要領にしたがって、執筆をお願いいたします。

1.エッセイの内容は自由ですが、ホームページ寄稿に際しての一般的なルール(*1)には従ってください。
 写真の添付を歓迎します。
   *1:
ホームページ掲載記事の基本的方針

2.分量は自由です。最長1,300字程度(12ポイントの字の大きさでA4用紙1枚から1枚半程度)を目安として
 
ください。なお、エッセイ末尾で次の寄稿者を簡単に紹介してください。

3.次の寄稿者は、ご本人の承諾を得たうえで、ご指名ください。指名対象者は、OB会会員ならどなたでも
 結構です。指名したい方の連絡先が分からない、指名したい人がどうしても見つからないなどの場合には、
 事務局(*2)に遠慮なくご相談ください。

4.原稿は、ワードファイルで事務局(*2)までご送付ください。その際、次の寄稿者の氏名、卒業年、連絡先
 も合わせてお知らせください。

   *2kaiseivbob@gmail.com

2023年5月掲載

白子智義君(昭和60年卒・白組)からの引き継ぎにより、リレーエッセイをお送りします。
本稿に登場する場所、人物名はフィクションとさせて頂きます。ご笑納下さいます様お願い申し上げます。
                                
高橋 究(昭和60年卒・青組)

<12>【かいせいバレー部合宿の思い出】

SCENE1 昭和54(1979)年 春
べつに入りたくて入ったわけじゃない、勧誘会のあの日、しゅうきゅう先輩とぶー先輩に声をかけられ、ただなんとなく名前を書いて、ただなんとなく練習に参加したことからバレー部がはじまっただけだ。
真っ黒に日焼けしたヒトが、よっしゃーとか言いながらボールをネットに手でひっかけて、オラオラオラとかいって生徒に拾わせるのがバレーボールなんだと思った。聞けば国際審判員の資格を持っていて、よく見るとたまにテレビに映るヒトだった。全日本女子の選手のどこかを触ったとか触らないとか、そういえば夏の水泳学校で「オマエはでかいから、はみ出しちゃ困るしな」とニヤッと笑って真っ白なサラシから、長めにふんどしを切ってくれたのもこのヒトだった。ようやく先生なんだと理解した。

SCENE2 昭和54(1979)年 夏
まえしば荘での合宿は、現役部員たち、少なくとも自分にとっては最初のころ地獄だった。岩井までの電車は、各駅停車がほとんどで、特急さざなみに乗ることはまずなかった。特急はエアコンが効いてるけどすぐ着くからイヤだった。各駅停車は岩井に着くまで時間がかかるからまあいいけど、佐貫町を過ぎたあたりから海のにおいがし、うんざりだった。駅にはこれまた真っ黒に日焼けした明らかに漁師だろうと思われるおじさんが、軽トラで迎えにきて荷物を積んでいってくれた。
家族連れが海水浴に来ていてきゃあきゃあ言っている。海はーとおあさどこまーでつづくー、岩井ビーチはーヤングーのてんち‥‥(*)。なにが天地だ、こっちは白い体操着で、波打ち際をただ走らされてるだけだ。

(*)註;今でも耳に残るこの曲は、ザ・ブレッスンフォー「房州岩井海岸~岩井讃歌」。YouTubeで聴ける。カップリングされたA面は、なんと春日八郎の「岩井音頭」。

SCENE3 昭和55(1980)年 夏
昼はむぎ茶、夕食後の自由時間はかき氷。「栄養補給のため」という理由で一人2個、缶詰を持ってきていたが、なぜか食卓にはシーチキンばかりで、親が持たせてくれたフルーツ缶とか大和煮とかコンビーフとかはなぜか食卓に上がることはなかった。
まえしば荘のパンフレットには「ヤングの食欲にもたっぷりお応えします!」とか書いてあったけどな、缶詰なんか出したら失礼じゃないのかな。 「オマエなー、素材缶なんかだれが食うんだよ」とか言われ、誰かがもって帰らされた。フルーツ缶は冷蔵庫で冷やされデザートに。大和煮とコンビーフは酒のアテ。
胃の腑に収まる先がまったく違うことが分かってきた。ここに社会の縮図があった。

SCENE4 昭和57(1982)年 春
もう半往復、あと半往復と、あごで砂浜を走らせる合宿チーフだった。Tシャツ短パンで走らされるのにもだいぶ慣れた。「ファイトー、イッパーツ!」勝野洋のCMでおなじみの「リポビタンD」は買出しの必須アイテム、15,6歳の奴がぐびぐびとやる。
「男には男の武器がある!シャキーン!」の勝新太郎のアルギンZが発売される少し前だ。少年たちにとって「リポタンパワー(通称)」はてきめんで、浜の北側の先の、造船所まで走れた。

このころになると暇をもてあまし、えなり君と給茶機から飲んだお茶の数を競った、かすかにむぎ茶の風味がする、生ぬるいお茶だった。オレ358ぱーい!そんなに飲んでどうする。

SCENE5 昭和57(1982)年 夏
練習の合間はいつも、あーあと何分寝られるーとか言ってゴロゴロしていた。夕食後のミーティングは修行の時間だ。OBの話はかわるがわる長く、精神論とか昔話に終始しほとんど記憶にない、とにかくはやく横になりたかった。先生はというと、原付を乗り回し、楽しそうに砂浜を方々走っていた。
トイレは和式で水洗じゃなかった。「筋肉痛で(しゃがめず)クソができねー」と叫んだOBがいた。
あとサーフボードを持参し朝夕海岸に通うOB、いつの間にかきて、いつの間にか帰ってしまった。
体育館の西日を背に、サンオイルを塗って焼いているOBもいた。
合宿の帰りは国鉄 両国駅が終着、そこから家まで都バスが通ってて少しだけおトクな感じだった。

その後のまえしば荘と、その後の私
会社に入って6,7年目の頃、取引先の店主が釣り好きで内房から釣り船を出そうと言った。クルマを出したところ館山だった。同乗は店主と私の上司2人、帰りも岩井を通るので少しだけ寄り道したいと申し出て、せまい道をまえしば荘に行ったところ、宿舎も体育館も取り壊され、基礎だけ残っていた。なにかひとつ終わった気がした。脳裏にはいまもあの岩井のギラついた陽光が残っている。

かいせい在学中に教師からもらったビンタの数では、おそらく学年最多を自負する私だが、なかむら先生からもらったあの一発は忘れられない。進級判定会議にかかって学校に母親が呼び出された時、先生が体育教官室で「成績ごときでお母さんを泣かすとは何事だ」と、喝とともに一発もらった。
効いた。数年前、水泳学校で褌を切り出してくれた同じ手で。
あの時のなかむら先生の御顔と、隣席の組主任のいとう先生の御顔がいまもまぶたに浮かぶ。

出来の良い生徒ではなかったが、わたしの人生の「原体験」は、これらにある。

あと数年で私は父親を終える。子に3人恵まれ、全員、中高一貫校に通った。長男はバレーボール、次男は硬式野球、長女は新体操と、学校生活を謳歌した。あの頃の私と同じように、かけがえのない友人達を得、輝く思い出を胸に、社会に出て、多少のお役に立つことができる、自立した市井人になってほしいと願う。

次は、私の同期で、学年幹事でもある、草野昌行君にバトンを渡します。

2024年3月掲載

<11>雑想記

飯塚 公啓(昭和37年卒)

 開成バレー部での想い出は多々あるが私の中学から高校の時代(昭37年枠)はバレー部存亡の危機の状況にあった。
 理由の一つは先ず部員数の不足。同学年では故,稲毛智鉄君、上田一成君,安井高明君の四名、一年先輩では三浦・三崎・小板橋・小田木・菊池・大木の諸先輩六名、更に一年上では平松和久先輩の一名であった。又、この時代は競技ものものが九人制から六人制に移行する過渡期にあり混乱状態でもあった。
 
更には顧問の先生が温厚で「明るく、仲良く、楽しく。」をモットーとする上迫先生から日体大を卒業したばかりの熱い男、中村博次先生に交替となり、 スローガンも「試合に勝つバルーを目指す」に変更されました。
 メンバー不足から高校の試合に中学生部員を参加させる等のヤリクリをして、それでも「出ると負け」のチームを どうすれば部として成長させられるのかと、思い、悩み続けた頃でもあった。
 これらの難題を克服する為に同級四名が中心となり後輩部員達の全面的な支援を受けて活動した内容に付いては話が長くなるので省略するが雰囲気だけを多少伝えると、
 ①顧問の中村先生には当時フトン屋さんの娘である婚約者(其の后、結婚)が在り、店の近くのアパートで一人暮らしをしておりました。ある日、私と同学年グループで中村先生のアパートに泊り込みで話し合いをすることになりましたがフトンが足りず急遽、婚約者に連絡。借りたフトンを抱えてアパートに運ぶ途中で、時間が深夜でもあり、警察官から不審尋問を受け大騒ぎになった事あり。
 ②校舎裏の坂道を登り切った所に(当時は中学校の新校舎なし)時々、屋台が出ており顧問の先生のジャケットを借りて一緒に(秘)オデンを食べ乍ら談議を重ねていた事。
 ③長野県白馬村での夏合宿での出来事。等々を挙げておきます。尚、この中には平松先輩の妙な踊り等も含まれます。
 

 免に角、バレーボール自体に汗を流す、と同時に中学、高校の学園生活を、(今から思えば)楽しんでいた頃でした。今年八十才を迎える自分としては貴重な人生経験でもありました。開成を卒業后、本日に至る迄、人生を思う場面では必ず自分一人の力では今日迄生きて来られなかった、と思い知らされます。
 特に若い後輩諸君には、非常に有り難いことですが、開成の卒業生と言う事実は生涯自分の人生に着いて廻るという事を忘れないで欲しいと思います。夫々が自分の夢を抱き、自分の道を歩んで行く中で自分が努力することは当然の事として何等かの場面で信頼し合える開成の仲間をバレー部の活動を通じてお互いに育てて欲しいと思っています。お互いの信頼を基に、みんなで一緒に将来に向って飛び出せる様にとの思いを込めて本文の締めに一句、

『つつましき 梅が小枝に 雪衣 忍ぶ夢路に 春こそ来たれ』

バレー部仲間の人生が豊かで有ります様に

 

20242月掲載
*編集者注 お寄せいただいた原稿の内容のまま掲載いたしました。

<10>Connecting the Dots

木村 哲哉(平成11年卒)

  私どもの代(平成11年卒)は毎年忘年会or新年会を開いており、最低でも年に1回は近況報告をしています。同輩たちは医者・公認会計士・教師・研究員など、公的資格を持った「まっとうな」仕事をしっかり勤めています。一方私はというと、何回かごとに「また転職したのか」と言われる始末で、職場を転々としてきました。私は性分として常に「新しい刺激がある場」にいないとすぐに次の刺激を求めてしまうきらいがあります。例えば、いわゆる「行きつけの料理屋」というものがなく、常に行ったことのないお店を探しては飛びこんでみる、頼んだことのない料理を注文する、というようなことをずっとやっています。仕事もご多分に漏れず、大学卒業以来20余年で、現職を含めて6つの会社に勤めて来ました。

 大学卒業後に最初に勤めたのは戦略コンサルティング会社ですが、その最大の理由も、「色々な会社の経営戦略アドバイスって飽きることがなさそう」という理由からでした。そこには7年超勤めましたが、それが在職期間最長記録となりました。その後、六本木の携帯ゲーム会社、大阪の外資系製薬企業、社員25名の教育系ベンチャー企業と、業界も規模もカルチャーも全く違う会社を渡り歩き、その後、プライベートエクイティ投資ファンド、そして現職の再生系コンサルティング会社に至ります。

 財務経理や人事など、業界や会社を問わずに専門性を磨ける職種ならいざ知らず、私は「経営戦略」「事業戦略」という役割をやってまいりましたので、専門性があるようでないような、悪く言えば「何でも屋」をやってきたようなキャリアです。実際、数多の面接の中で、たまに(実はあまり聞かれませんが)「何が専門ですか」と聞かれると答えに窮することもありました。ベンチャー企業からの転職のあたりでは、これまでのキャリアで何を培ってきたのか、悩むこともありました。

 ただ、プライベートエクイティ投資ファンドで、投資先企業の改革担当として会社のあらゆる面を見ざるを得ない状況の中で、それまでの経験が全て活きていることに気づきました。ゲーム会社時代に事業指標を数値化し管理する仕組みを作ったことや他企業との提携を推進したこと、製薬企業時代に経営会議を運営したことや全国の営業所をどさ回りして飲み歩いた経験、ベンチャー企業の際にWeb広告運用をしたことや法人営業をしたことなど、すべてが生きた経験として役に立ちました。

 転職の際は、長期的なキャリアプランというよりも、その時々で「面白そうか」「自分が活かせそうか」「意味があるか」などを考えながら職場を選んできたため、一見するとなんの関連性も積み重ねもないように見えるキャリアですが、結果としてすべての経験が活き、スティーブジョブズの言う”connecting the dots”のように繋がっていました。

 おそらく今後もある特定の会社に骨を埋めるようなことは無いのだと思いますが、それに後ろめたい思いをせず、”connecting the dots”の精神で、”like a rolling stone”で気の向くままに仕事人生を転がって行きたいと思います。

 次は同学年の我らがキャプテン、家族まるごとバレー漬けの楓淳一郎くんにバトンを渡したいと思います。

2024年1月掲載

<9>「コロナ禍明け?の近況報告」 

市村幹司郎(昭和50年卒)

リレーエッセイ4トラック目 昭和49年卒の老川さんから引き継いだ同50年卒の市村です。
まずは50年・51年卒の合同同期会開催の報告から。 

去る1013()にコロナ禍以来となる合同同期会を今回も松下君のお店、都営地下鉄大江戸線東大前駅近くの「ボーリージャー」で開催しました。
タイミングが合わず欠席を余儀なくされたメンバーもいるなか、それぞれ齢を重ねて、体に少々ガタは来ていますが、遠方から駆けつけてくれた者も含めて元気な姿で楽しいひとときを過ごすことができました。
次回は夫婦同伴で、という案も出てきており、継続的にこの会を続けていきたいと思います。 

次に個人的なご報告。

2020年に『マラソン全国走破への道と「コロナ時代」』と称して当HPでご報告していた、コロナ禍のため残していた福岡県も、3月に開催された小郡ハーフを完走し、全国制覇を果たすことができました。
1412月の宮崎・青島太平洋マラソンを皮切りに、コロナによる3年の空白期間を含め、結果として8年半を費やし、1/316都道府県でフル、残りをハーフマラソンで ほぼ歩くことなく完走できたことは家族の協力なしには実現できなかったと思っているところです。
制覇に当たっては、以前も触れたように、各大会に前後して実施した小旅行や名物料理を味わうことも大きな目的の一つで、それを果たせたことも成果と考えています。 

312日開催 福岡小郡ハーフマラソン会場にて

今後は「現役ランナー」としては一段落、卒業し、続けてきたスポーツボランティアにより注力しているところです。
東京オリ・パラを始め、以前から続けている東京マラソンや横浜マラソンなどに加えて、湘南国際や東京レガシーハーフ(先日パリ五輪予選を兼ねた雨中の大会)、国立競技場での短距離リレーフェス、浅草のリバーサイドリレーマラソン、年代別となるチビリンピックやねんりんピック、また、変わったところではインラインスケートやアームレスリング、お台場でのGRAND CYCLE TOKYO の自転車ファンライドの大会など、それぞれ特徴ある運営に関わっています。
 

コロナ禍の間は声掛けやハイタッチもできませんでしたが、それぞれの大会で様々な形で参加者やボランティアメンバーと触れ合うことができることが一番の楽しみとなっています。 

最近ではJ1マリノスの日産スタジアムに加えて、J3 Y.S.C.C.のニッパツ三ッ沢競技場のボランティアを始めましたが、弱小ながら(失礼)毎回懸命に応援を続けるサポーターの姿に感銘を受けています。

同じく当時は弱小だった(またまた失礼)プロバスケットチームの横浜ビー・コルセアーズのボランティアを本拠地の横浜国際プールで務めたことがありましたが、最近では有名選手の加入もあって好成績を収めるようになり、ボランティア希望も通らなくなるなど様変わり。その経緯を別の視点で眺められることも楽しみの一つかもしれません。 
朝早い集合もあって体力勝負のところもありますが、今後もできるだけ様々な大会に関われればと考えているところです。 

次回は冒頭の合同同期会にも参加してくれた昭和51年卒の上野雅資君にバトンタッチしたいと思います。

2023年12月掲載 

<8>合宿での思い出

白子 智義(昭和60年卒) 

1. 石賀さんのレシーブ理論
 1学年先輩の石賀さんから引き継ぎましたので、まずは石賀さんのことから書きたいと思います。先回石賀さんがレシーブ理論のことに触れられていましたが、石賀さんのレシーブ理論は、現役のときから私たちの学年の中では有名でした。体の正面でボールを受けることを強調されていたと記憶しています。当たり前のように聞こえますが、このような重要な基本を実践できるのが、石賀さんのすごいところです。いつだったかの合宿で「マッハはどう対応しているのですか(とても体の正面では受けられない)」と聞いたことがありますが、「コンマ3秒で調整する」とのことでした。基本の徹底、それに尽きるのですね。

2. マッハ
 合宿では名物でしたが、あまり良い練習ではありませんね。ボールへの恐怖感をなくすことと根性は身についたと思いますが。しかし、これボールを打つ方もつらいのです。OBになってからわかりました。打つOBの方も、受ける現役の方も大変な練習のわりには、あまり意味がない。だいたい、そういうことの方がよく覚えているものなのかもしれません。他にもいろいろな練習があったはずなのですが、今となってはマッハ以上に鮮明に記憶しているものはありません。

3. 時間の使い方
 中1か中2のころの合宿で、中村先生が、私たちの学年の全員を前芝荘の一室に集めて何やらお話をされていたのですが、練習開始の時間が迫ってきて、下級生の私たちは練習の準備をしなければと焦っていました。おそるおそる「そろそろ体育館に行かなければなりません」と切り出したところ、中村先生は「3分あれば、掃除して、飯食って、〇〇して、風呂も入れるから、まだ行かなくていい」と言われ、練習開始直前まで解放してくれませんでした。先輩方に怒られたのは言うまでもありません。しかし、私には、この言葉が後々まで記憶に残りました。例えば、試験を受ける時など、残り時間3分などといわれると焦って何もできなくなりますが、中村先生の言葉を思い出すと、不思議に焦らなくなりました(焦らない代わりに内心では大笑いで、結局は何ができるわけでもないのですが)。社会人になってからも、仕事をする上で、(3分では難しいですが)15分あるからこれができるというような発想に自然になっていました。時間の使い方がうまいねと言われることがあるのですが、原点は中村先生このお言葉にあるようです。

4. 洗濯と掃除
 普段は自分ではなかなかやらないことですが、合宿の時ばかりは、これはやらざるをえません。最初の合宿で見よう見まねで洗濯機を使ってみたことが懐かしく思い出されます。前芝荘の合宿の最終日はみんなで掃除でしたが、つらい合宿も終わりということもあって、掃除の時間はなぜか少しうれしかったように思います。このような何気ない経験も、後々役に立つもので、社会人になって通算6年半ほど海外に単身赴任しましたが、洗濯も掃除も炊事もほとんど苦になりませんでした。今では洗濯は妻に任せきりですが、掃除と炊事は結構やっています。それも合宿で鍛えられたおかげなのでしょう。

5. 次の方のご紹介
 次は、同学年の高橋究さんにお願いすることになりました。中1でクラスが同じで、いっしょにバレー部に入り、帰る方向もいっしょでした。つい先日も彼が赴任している高知を訪問しましたが、相変わらずの昔話から最近の話題まで、会うと話はつきません。どのようなエッセイとなるのか、今から楽しみです。

 

以上
2023年11月掲載

<7>開成板橋都電会始末

上田  一成(昭和37年卒)

板橋区の志村と言われる地域から8名が都電を使って開成に通っていた。

小生は一番遠い志村橋から乗り巣鴨、篭町で乗り換えて道灌山下まで乗っていた。中学では柔道部に入っていた。部活が終わって帰りの電車が排球部の飯塚君、稲毛君と一緒になる事が多く、排球部に入るよう誘われた。1年以上の誘いで高校1年より排球部に入ることになった。当時は9人制で身長が低くても後衛のポジションでやることが出来た。おかげで高校の時、クラス対抗スポーツ大会が行われていて、バレーボールと柔道に出場し優勝した事があった。

都電で通っていた8名は全員、通った大学は別々だったが、月一回位の間隔で土曜日に志村坂上の麻雀屋に集まり徹夜で遊んでいた。大学生活が終る年の1月に記念として温泉に行こうという話しになり、千葉県の養老渓谷の温泉に電車で行く事になった。飲んで食べて麻雀して温泉に入ったが、たまたま温度管理が悪くぬるい温泉だった。この会の名前を付ける話しが出て「開成板橋都電会」と言う事になった。各自就職して暫くは続いたが結婚や転勤で集りは無くなった。

開成を卒業し30年経過した頃、あのメンバーで集り将棋をしようと話が出て、常盤台の税理士事務所の2階で集り、月一回で日曜日の午後1時半集合で始まった。排球部の稲毛君は2回位の参加、飯塚君は将棋しないので不参加だった。将棋は小学生の頃、よくやっていたので直ぐ思い出した。千駄ヶ谷の将棋会館に行き対局時計を2台購入し、本物に近づけた。毎回集まると中学高校の気分になり言いたいことを言っていた。

平成7年になり将棋の駒で有名な天童市に行こうということになり、10月に6名で車1台で出かける。高速道路で山形市に出て山寺によって天童市のホテルで泊まる。温泉の風呂場で将棋が出来るし、館内のあちらこちらに将棋関係の物がおいてあった。翌日は街中の将棋の店で駒と将棋盤を購入し蔵王を回って帰路に着いた。

平成11年には福島県猪苗代町で開成の後輩が経営しているホテルに車で出かける。行きは郡山市の開成山公園で休み、翌日は桧原湖でモーターボートに乗る旅行でした。
将棋の場所は新宿のマンションの事務所から志村坂上の工場の食堂と変わったが2カ月1回の間隔で平成20年まで続いた。

都電が無くなって約60年、現在生きている人が6名、あの頃を時々思い出すこの頃です。

次の寄稿者は同期37年卒業の飯塚公啓さんにお願いし、了解を得ています。よろしくお願い致します。

2023年10月掲載

<6> 映画「THE FIRST SLAM DUNK」について 
月刊CGWORLD +digitalvideo vol.298より

石川 達大(平成9年卒) 

私は新卒でバンダイ系列のアニメDVDメーカーに入社しました。現在は専門学校を経営する学校法人に勤務しています。仕事をする過程でCG(コンピューターグラフィックス)に関する知識が少々増えましたので、掲題のバスケットボールアニメ映画の魅力について、信頼性の高い専門誌を参照(https://cgworld.jp/magazine/cgw298.html)しながら書くことにしました。

SLAM DUNK」が週刊少年ジャンプに連載されていたのは1990年から1996年。私が開成にいた時期とほぼ重なっています。ほどなくアニメ化もされ、オープニングに登場する江ノ電 鎌倉高校前駅付近の踏切は、今や東アジア全域にわたり認知された聖地巡礼スポットです。

その大人気作品を、原作のクライマックスである山王工業戦に、桜木花道に代わり主人公に据えられた宮城リョータの回想を中心とする新たなシーンも加えて映像化したのが、昨年公開された「THE FIRST SLAM DUNK」です。この映画は原作者であり本作の脚本・監督も務めた井上雄彦の絵がそのまま動いているかのようなムービーを目指して作られました。原作や過去のアニメシリーズにあったデフォルメ的な表現は極力排除し、どこまでもリアルに見えるような演出がされています。

メインとなる試合のシーンはモーションキャプチャーという技術を用いてその基礎が作られました。モーションキャプチャーとは人間などの動きをカメラを用いて三次元(3D)座標のデジタルデータに変換し、それをCGで再現する技術のことです。各キャラクターはモデルと呼ばれる人形のような立体CGデータとなり、モーションキャプチャーデータにそのモデルを乗せることでキャラクターが本当にバスケットボールをプレーしているかのようなアニメーションを作ることができます。

もちろん、実際の作業はこんなに単純ではありません。モーションキャプチャーで捉えられる人体の座標はそのごく一部ですし、もともと平面に描かれたキャラクターをそのまま3Dにすることはできません。リアルに見せるためのディテールの工夫も、ユニフォームのシワや髪の揺れ、時間の経過に伴う汗の量の変化などと枚挙に暇がありません。しかし何から何までリアルに作ればよいというものでもなく、三井の3ボイントシュートが入った瞬間のネットの揺れなど、物理シミュレーションの結果とは異なる動きにして見栄えのほうを優先した表現が採用されたシーンもあります。

そして完成された映画はその圧倒的なリアリティとドラマチックな展開で多くの観客を魅了し、アニメ史上有数の大ヒットとなりました。自分がスポーツ少年の端くれだった頃の大人気漫画が、21世紀の技術で映像エンタテインメントとしてよみがえったことに、私もひとかたならぬ感動を覚えました。映画のエンディングに、私自身が専門学校で指導した人物がスタッフとしてクレジットされていたことは、あまり軸が定まっていたとは言えない自らの職業人生の中でも、数少ない誇りとするところです。

 

次回はコンサルティングやインターネットビジネス、メディカル、教育、投資ファンドなど幅広く活躍されてきた、平成11年卒の木村哲哉さんに執筆をお願いしています。

2023年9月掲載

<5>『思えば嫁さんより長いつきあい』(昭和49年卒同期会報告)

老川 知永(昭和49年卒)

 大変お待たせいたしました。リレーエッセイ4トラック目のスタートとして昭和49年卒業の同期会の模様を写真とともに掲載いたします。
 
私たち49年はOB会費学年別納入額がいつもトップ。総会出席者が少ないと声がかかればさそいあって無理にでも出席。と物心両面でOB会を支えてきたのは皆さん御承知のとおりでございます。
 
また同期の団結も強く、今でも年に2回は集まりその他個人同士の付き合いもかなり濃密に行われています。

 今回も7月15日に11名が集結いたしましたがメチャ盛り上がりました。写真にうつっている少年のようにはじける笑顔を見てもらえれば想像して頂けるかと思います。
 
誰かが近況報告を始めるとみんなで茶々を入れ最後に柏女君のダジャレで締めるというのがいつものパターンです。おもしろいですよ~。
 
今回はいつものメンバーの松原君 稲垣君 清水君 荻野君は都合が悪く欠席でした。 

さて我々の学年は中学まではボーズ頭。バレーボールも中学は9人制、高校は6人制という過渡期の学年でした。おまけに中村先生担当の学年ということもあり、先生が張り切って無理やり1年生を入部させたので体験入部を含めると総数100名を超えたときもあったと思います。学年の約3分の1ですね。

 しかしあのコンクリートの上でしごかれ、体のそこら中が傷つきあごは裂け練習着がボロボロになるうちにみるみる部員は減っていきました。そらそうだわね。()

 当時の1年先輩の矢澤さんにOBになったあとで聞いたところ、数が多すぎて練習にならないので必要以上に練習を厳しくしたとおっしゃっていました。でも人数が減っても練習はなぜか厳しいままでした。私は中2の時に膝のオスグット病というのになり手術しましたが、その時のお医者さんが私の傷だらけの体を見て家庭内暴力かと勘違いしたみたいだったのでコンクリートの上でバレーボールの練習していることを言うと、そりゃ正気の沙汰ではない。膝も絶対治らないよ。と言われたのをよく覚えています。確かにいまだに少し痛いのですが。

さて中村先生も面白い先生でしたが当時はその上を行く先生方があまたいらっしゃいました。もう時効だと思いますのでほんの一部をご紹介します。

 いつも酒の匂いがしていたけれど二日酔いではなく実は朝から酒を飲んでいたらしいという世界史の山下先生。独特のなまりで優雅な授業をされた生物の寺田先生。(寺田先生の息子さんは私より数年下ですが一時わがバレー部に所属していました)
 あてられて変な答えをすると両拳で生徒のこめかみをぐりぐりする幾何の森河先生は昼になると職員室のベランダでものすごくおおきなおにぎりを七輪で焼き醤油をかけて焼きむすびにして食べていました。

 現在ではモラハラ・パワハラになるのかもしれませんが思い出すだけでも楽しい先生方でした。断っておきますがこの先生たちは素晴らしく優秀で授業も本当に面白く我々の大学入試にもものすごく貢献して頂いたと思っています。また生徒たちとの距離感もすごく近かったと思います。

 とにかく冷暖房はおろかストーブもなく、教室のガラスは割れまくっていて冬になると授業の前におしくらまんじゅうをして部屋を暖めていたような時代に、それなりのお年の先生方がさぞや寒い中で講義をされていたのだなと考えると本当に頭が下がる思いです。 

 さて同期会は西日暮里『一合』でやったのですが終わりごろになると上の階から「開成エ~~ル」という懐かしい雄たけびが聞こえてきました。やはりここは開成御用達なんですね。ちなみに一合の店長さんは中山君の知り合いです。 

 このあとのリレーエッセイは私たちの1年下の昭和50年卒の市村さんにお願いしています。彼は仕事の傍ら様々なボランティアにも参加してきたので話題は豊富だと思います。
 
また今回のリレーエッセイは昭和59年卒の清水さんの発案で始めました。指名制ではありますが皆さん気持ちよく楽しく書いていただいています。きっと投稿するきっかけがなかったんでしょうね。今後もずっと継続し二回り目三回り目と永遠に続いていくことを願っています。

2023年8月掲載

        (後列左から) 中山、尾鷲、石塚、加藤、柏女

      (前列左から) 青木、丹治、井上(山崎)、保條、老川、高塚

     前列中央で保條君が持っているのは全員にお土産として持ってきてくれた加藤君の落花生(左)と
     中山君の手ぬぐい(右)です。

<4> バレーボール人生と経営理論 

石賀 和義(昭和59年卒)

【はじめに】
 
最近、大学の経営学部の先生になりました。なので、マイケル・ポーター先生の経営戦略論(差別化戦略などを提唱)とジョン・D・クランボルツ先生の計画的偶然性理論(キャリアの8割は予想外の偶然に左右されるが、偶然を活かす積極的行動が大切という理論)をキーワードにして、自分のバレーボール人生を思い返してみます。

 【中学1年生】
 
中学1年生のとき部活浪人でした。部活探しをしていたとき、同級生の松本さんに「バレーボール部に来たらいいんじゃない」と声をかけてもらいました。スポーツは不得意で若干コミ障でしたが、「あのメンバーならやっていけるかも」との思いもあり、思い切って入部しました。まさに、人生はちょっとした偶然で決まるようです。
 因みに、リレーエッセイの創始者の清水さんとテニス部の鈴木さんとは同級生で、3人とも大学、就職先が一緒でした。鈴木さんと小生は大学の先生になったので、清水さんが大学の先生になれば3人とも同じ道を歩むことになりますね。

 【レシーバー】
 
バレーボール部では、アタッカーのポジション争いから脱落して退部する人がいました。自分は身長が低くて、そもそもハンディキャッパー状態でしたから、誰も好まないレシーバーでがんばることにしました。今思えば、差別化戦略であり、自分の居場所もできました。アタッカーはレッドオーシャンだけど、レシーバーはブルーオーシャンでした。
 
合宿では、左右を反復しながら、ひたすらアタックを受けるマッハという練習がありました。自分は反復横跳びが好きで、マッハは苦にはなりませんでしたが、眼鏡をしてマッハをするなんて、今思えば「狂気の沙汰」ですね。
 
初めてテニスをしたとき違和感がありました。バレーボールのレシーブはボールの球筋に対して体を垂直に対峙させますが、テニスでは体を球筋に平行に位置させ、ラケットの距離を空けます。この適応が難しく、バレーボールの最適化はマイナスもあるのだなあと実感しました。

 【中村先生】
 中村先生は、授業を受けたことがなく、遠い存在でしたが、卒業後は焼鳥屋へ連れて行ってくれたりしました。あるとき、「いしがあ、今度、リベロって制度ができたんだ。レシーブの専門職で、石賀がやっていた役割だ。今度またバレーボールをやらないか」と薦めてくれました。しかし、就職後は、バレーボールというよりスポーツ全般から足が遠のいてしまいました。先生には申し訳なかったなあと反省しております。

 【大学生活】
 
昨年から大学の先生をやっていますが、金融と地域活性化の組み合わせは珍しいらしく、就職活動を含め意図しない差別化が図られているようです。
 
ところで、本学の1年生ゼミはランダム抽出なのですが、2年連続で女子バレーボール部の学生さんが在籍しています。2年生ゼミでは、ビーチバレーの西日本大会で優勝した学生さんがいて、1年生ゼミの学生さんとペアを組んでいます。あらためて計画的偶然性を感じています。

 【白子さん】
 
最後にリレーの話です。とあるOB会で昔話が盛り上がった際、「石賀さんってレシーブの理論を構築していましたよね」と指摘してくれたのが1つ下の白子さんでした。次は白子さんにお願いいたします。

2023年8月掲載

<3>  弁護士53年を振り返って
                        
 小田木 毅(昭和36年卒)
                                   一般社団法人 食肉加工協会
                                     
元監事  弁護士 

1.私は、昭和454月、石井法律事務所()に入所、50年を機に独立、令和210月個人事務所を開業、今年は弁護士54年目になる。
 私が担当した食品業界関係の思い出深い事件といえば、平成12年の雪印乳業()の大阪食中毒事件と平成14年の雪印食品㈱の牛肉偽装事件である。
 
本稿では雪印食品()の牛肉偽装事件を振り返ってみたい。 

 註: 創立者である石井成一弁護士は、第二東京弁護士会会長、日本弁護士連合会会長、国家公安委員を歴任
   された弁護士界の大御所である。
 

2.雪印食品牛肉偽装事件
 (1)平成139月、日本産牛肉に牛海綿状脳症(BSE)にかかったものがあることが農水省から発表され、農水省は、BSE対策として全頭検査前の国産牛肉買い取り事業を行った。
 
BSE発生後、外国産牛肉は売れず在庫の山となっていた状況下において、雪印食品㈱関西ミートセンターは、外国産牛肉を国内産と偽って国内産牛肉のパッケージに詰め、農水省に買い取り費用を不正請求、取得した。
 
日本産牛肉より取得価格の安い外国産牛肉を国内産と偽ることにより内外価格差からの利得をも見込んだ詐欺行為であった。
 
事件は、123日取引のあった冷蔵会社の内部告発にて発覚、128日、朝日新聞に大きくスクープ報道され、会社も牛肉偽装を発表、翌日、社長は責任をとって辞任、食肉部門からの撤退を発表、事後、毎日「雪印」の看板を掲げた工場建物を背景にテレビのワイドショーにてとりあげられ、12週間内にスーパー内の「雪印」商標を付した全商品の撤去を余儀なくされ、222日経営再建を断念、330日をもって営業業務を全て終了、翌日付にて全社員解雇、426日臨時株主総会にて430日をもっての解散決議がなされた。

 牛肉偽装発覚から僅か3カ月にて、52年の歴史を有し、嘱託・パート社員を含め従業員1,500名、年間売上高770億円の東証2部上場会社は、解散決議にまで追い込まれた。 

 (2)この事件の教訓としては、
 
① 内部告発から朝日新聞報道まで5日あったが、現場責任者は、あくまでも偽装を否定していたため、会社自ら偽装を公表、謝罪し、買い取り費用を返還、関係者を処罰するなどの善後策をとる機会を失し、会社はマスコミ報道の事後対応に終始するのみであった。
 
朝日新聞報道前に善後策をとっていれば、解散決議にまで追い込まれることはなかったと思うと残念である。 

 ② ハウスマークである「雪印」という同一商標使用の危険性である。
 
問題となったのは牛肉偽装にて不正に買い取り費用を請求、取得したことである。
 
ところが、テレビのワイドショーにて「雪印」「雪印」と発言される毎に、商標「雪印」の商品はすべて問題であるかのように世間からは受け取られ、12週間内にすべてのスーパー店内から「雪印」商品の撤去を余儀なくされ、この時点で経営再建は困難と判断された。 

3.雪印乳業大阪食中毒事件、雪印食品牛肉偽装事件が起きたのは、今から2123年前のことである。
 
当時は、現在のような企業におけるコンプライアンス(法令遵守)やマスコミ対応の重要性は、さほど問題となっていなかった。
 
この事件後、企業におけるコンプライアンスやマスコミ対応の重要性が認識され、実践されるに至ったことは、両事件に関与した弁護士としてはせめてもの救いである。 

 次の寄稿者は、昭和37年卒 上田一成さんにお願いし、了解を得ております。

<2>  H9年卒 同期会 開催報告

                                  市原 将樹(平成9年卒) 

519日、平成9年卒の同期会を開催しました。長いコロナ禍で、集まる機会を探っても感染者の増加に阻まれるといった状況が続いていましたが、ようやく実現しました。何年かぶりの開催とあって、遠くは茨城から仕事帰りに駆けつけるなど、多忙な合間をぬって9人が参加しました。

新校舎。夜に浮かび上がる姿も趣深い。
渡り廊下が特徴的で新たなシンボルに
なりそう。

ご存じの方も多いかと思いますが、平成9年卒には、現バレー部顧問の宮くんがいます。(やはり「宮先生」と呼ぶのは慣れません・・)。

場所はどうしようかと思案していると、ちょうどいい機会なので新校舎・新体育館を見学しないかという提案をしてくれました。それでは、と厚意に甘えることにして、西日暮里に集まりました。

この日の時点では、正門はまだ工事のフェンスに覆われていましたが、道路からは校舎の全貌を覗うことができました。

校舎に入り「完成したばかりにしては、中は汚いなあ(笑)」などと話しながら歩いていると、教員室の前に掲示されている時間割表が目にとまりました。先生方の名前が書かれた数センチ四方の色の付いたプラスチック板が並んでいる、あれです。(写真がなく、うまく表現できません。分かりますか?)。「デジタルの時代にずいぶんアナログだな」といった感想も出ましたが、新しい校舎もよく見てみると昔を思い起こさせる部分がところどころにあって、懐かしい気持ちになりました。

もちろん体育館も訪問。エアコンが付いた、広くてきれいな体育館に、「ここで合宿をすることもできるのでは」との声も聞かれました。また、他の部活と練習が重なってもコートを2面張って効率的に練習ができるようにと設けられた、ポールを立てるための「穴」もきちんと確認して参りました。

写真:新体育館にて
左から 市原、遠藤、宮、石川、金田

そして、道路を渡って反対側の居酒屋「一合」に場所を移して懇親会です。私たちも高校を卒業してから25年以上が経ちました。医療、教育、司法、行政、報道、企業経営と、それぞれ進んだ道は違いますが、いつの間にか中堅と呼ばれるような立場になってしまいました。肩書きがつき、部下を率いて、目標の達成に知恵を絞る一方、中間管理職の悲哀や経営に携わる難しさも感じているところです。 

プライベートでは子どもの進学が関心事の1つで、こんな場面もありました。「うちの子どもは受験で都内の私立S中学に入学した。バレー部に興味があって・・・」、「バレー部だったら開成と対戦することもあるのでは?」などとひとしきり盛り上がった後、遅れて到着したメンバーが「うちの子どもはS中学っていう学校に通っていて・・・」。「え??」。なんと子どもが同じ私立中学に1学年違いで通っていたことが判明。不思議な縁を感じる一幕でした。

ただ、母校への入学者は、まだいません。子どもの受験を経験したメンバーや宮くんの話によると、我々が通っていた当時より、はるかに入試が難しくなっているとのこと。果たして、この中から親子鷹、親子バレー部員は生まれるのでしょうか。

当然、部活や合宿のことも話題に上りました。「前芝荘」に「紀伊国屋」。水を飲めない前時代的な練習、夜のいたずらや先輩方の醜態。そんな話をしていると、「今度、夏合宿に行ってみようか」なんていう話も飛び出しました。なんとか実現させたいものです。

西日暮里 居酒屋「一合」にて

(前列左から)石川、飯田、金田、市原  (後列左から) 柿沼、日吉、中川、宮

わたしたち平成9年卒は、「迷九会」と自らを称し、お正月を中心に毎年集まってきました。あるときはメンバーの自宅で、またあるときは、中村博次先生のお墓参りを計画して。家族を連れて来るときもあれば、先輩や後輩を交えて実施したこともあります。コロナ禍で開催できなかった数年間を経て、今回集まることができ、改めて、このつながりを大事にしたいと感じた次第です。 

さて、ここからはOB会ホームページ運営担当の1人としてのお願いとなりますが、先輩方、後輩の皆さんも、それぞれの代で集まりがあれば、是非、このホームページにご寄稿頂ければと思います。前後の代の活躍や近況を知りたい方も多いと思いますし、新たな交流も生まれるかもしれません。よろしくお願いします。 

 このコーナーの原稿執筆は、リレー形式で引き継いでいくことになっています。次は、我が同期の誇る奇才で名文家の石川達大くんにお願いしています。楽しみにお待ちください。

2023年7月掲載

<1>「ミュンヘンへの道」から「ハイキュー!!」へ 

清水 誠一(昭和59年卒)

  記念すべきリレー・エッセイの第1号として、OB会の幅広い世代で共有できる話題を提供できればと思います。

 私(1965年生まれ)にとってバレーボールとの最初の出会いは、1972年のミュンヘン・オリンピックの男子バレーの金メダル獲得です。そのオリンピックに前後してテレビで放映された、アニメと実写を組み合わせた「ミュンヘンへの道」というドキュメンタリー風の番組に小学生の私は魅了されました。そこで紹介された、全日本選手たちの世界で勝つための並々ならぬ決意と、(一人)時間差攻撃やドライブサーブなどの新しい技の開発にかけた知恵と苦闘に、ワクワクさせられました。間違いなく、開成中学に入学してバレー部に入部したきっかけになったと思います。

 ただ、当時のバレーを題材にしたアニメやドラマを振り返ってみると、「アタックNo. 1」にせよ「サインはV!」にせよ、厳しい指導者のもとで、ひたすら努力で試練を乗り越えていくという、悲壮感漂う根性物語であった記憶があります。前者の「苦しくたって~、悲しくたって~」で始まる主題歌に象徴されています。同時に、中高6年間、そうした根性中心の部活に大きな疑問を持たなかった自分がいますし、卒業時にはそれをやり遂げた達成感を感じたものでした。

 その後、大学、社会人では趣味としてバレーを続けた一方、度重なるルールの変更(ラリーポイント制やリベロの導入など)や、アイドルを用いた派手な演出で始まる国際試合、それでもなかなかオリンピックに出場できない全日本チームの低迷(とくに男子)を見るにつけ、一時期、バレーとの距離がどことなく離れていく気がしたものでした。

 そんな形で月日は流れ、コロナ禍で自宅で過ごす時間が増えた中、動画配信サービスで、男子高校バレーのアニメ「ハイキュー!!」(原作は2011年から)に出会いました。そもそも、バレーボールの漢字表記である「排球」をタイトルにするとは随分イケてないアニメかなと思ったら、どうしてどうして、少年時代に見た「ミュンヘンへの道」に通ずるワクワク感に溢れていました。そこでは、ボールの軌道や、スパイクとブロックに跳んだときの空中での視界、フライング・レシーブをする際のぎりぎりの感覚などが、まるでコートの中でみているかのように描かれています。また、セッターのトスの球質、キャプテンの役割、ピンチサーバーの心構え、強敵に対してもフルセットを通して勝つための戦術など、高校時代に少し感じた思い、いや、当時もっと気付いておけばよかったと思うバレーの奥深さが見事に伝わってきます。何よりも主人公たちに悲壮感はなく、純粋にバレーが好きで上手くなりたいという彼らは生き生きとしています。

 ちょうど、1年遅れの東京オリンピックで、男子バレーの躍動に久々に興奮した時期にも重なり、もしかしたら、こういうアニメがバレーに新たな息吹をもたらしているのではと感じたところです。高校時代からすでに遠く離れた我々のような世代も、今まさにバレーに打ち込んでいる若い世代も、ワクワクしながらバレーボールの魅力を楽しめればと思います。

 次は、私の同期で、職場も長くともにし、現在は神戸の学界に転じた石賀和義君にバトンを渡します。

2023年5月掲載