「リレー・エッセイ」の開始に関するお知らせ
このたび、OB会員相互の親睦を一層深めるとともに、OB会ホームページ掲載原稿をさらに充実させるため、「リレー・エッセイ」を開始することとしました(従来からの自由寄稿はこれまで通り継続します)。
寄稿者が(あらかじめ本人の内諾を得たうえで)次の寄稿者を指名する形で、次々とエッセイをリレーしていきます。エッセイの内容は自由。近況報告あり、開成バレー部の思い出あり、日頃の雑感ありで、OB同士の親睦のきっかけになればと思います。エッセイ末尾に次の寄稿者を若干の紹介を付して予告してもらいますので、次のエッセイへの期待も膨らみます。
幅広い世代からの寄稿を期待して、リレーの系列を複数トラック設けることとします。多くの方の参加を心よりお待ちしております。
以上
以下はリレー・エッセイ寄稿者への連絡事項です。
リレー・エッセイの指名を受けた方は、次の要領にしたがって、執筆をお願いいたします。
1.エッセイの内容は自由ですが、ホームページ寄稿に際しての一般的なルール(*1)には従ってください。
写真の添付を歓迎します。
*1:ホームページ掲載記事の基本的方針
2.分量は自由です。最長1,300字程度(12ポイントの字の大きさでA4用紙1枚から1枚半程度)を目安として
ください。なお、エッセイ末尾で次の寄稿者を簡単に紹介してください。
3.次の寄稿者は、ご本人の承諾を得たうえで、ご指名ください。指名対象者は、OB会会員ならどなたでも
結構です。指名したい方の連絡先が分からない、指名したい人がどうしても見つからないなどの場合には、
事務局(*2)に遠慮なくご相談ください。
4.原稿は、ワードファイルで事務局(*2)までご送付ください。その際、次の寄稿者の氏名、卒業年、連絡先
も合わせてお知らせください。
*2:kaiseivbob@gmail.com
2023年5月掲載
<19>私と開成バレー部
大木 聡(昭和53年卒)
昭和53年卒業の大木聡と申します。
今更ながら驚きますが高校を卒業して早や半世紀近く経ってしまいました。
その間バレー部の公式行事には何も出席せず何の貢献もしなかった中で、同期の羽井佐さんからこのリレーメッセージを書いてもらいたいと依頼があり、これが貢献になるのかわかりませんが、バレー部との関わりについて書くことにしました。
読者のOB諸氏はほとんど私の事はご存知ないと思いますので、自己紹介も兼ねてつらつらと書くことにします。
私は昭和34年(1959年)に東京に生まれましたが、その後親の転勤により(決して街を都度追われたわけではありません)幼稚園2回、小学校5回、中学校3回と東京と地方を転々とした後に高校から開成に入りました。今まで私ほど転校を繰り返した人に会ったことはありません。おわかりになるようにひとつの学校に一年半以上いたことがないので高校の3年間というのはその時の私にとり一番長くひとつの学校にいた事になります。この転校の多さは今にして思えば人格形成にも大きく影響をしており、諍いを避け、事なかれ主義を通したことによってイジメられた記憶はありません。
まあ当時はイジメという言葉すらなかったおおらかな時代だったのも確かです。
その代わりに小中学校を通して今も付き合いのある友人はひとりだけです。
いい事と言えば私の転校は夏休みや冬休みにするので長い休みの宿題というのをほとんどやらずに遊び呆けて過ごせたことぐらいでした。
さてそんな私がバレーを始めたのは当時の多くの少年がそうだったようにテレビ
『ミュンヘンへの道』に感化されたからでした。中学入学は群馬県高崎市の中学校で
当時は群馬県の公立中学は全員坊主頭(五分刈)でした。ただし野球部だけは更に短い五厘刈で小学校でやってた野球への情熱(これもテレビ巨人の星に感化)が瞬時に
萎んでしまった事も理由のひとつです。ただその中学校は後に群馬県代表で全国大会に出るくらいバレーに一生懸命でした。私はその中学ではたかだか1学期を過ごしただけで次なる札幌の中学に転校したのでした。札幌の中学は髪の毛が自由でしたのでその夏休みは毎日髪の毛を引っ張っていた事を覚えています。
その後中学2年の3学期に東京の中学校にまた転校しましたが、学校は変われどバレーだけはずっと続けていました。
そして開成に入るのですがバレーの話の前にびっくりする事がたくさんありました。
小中と公立でしたから男子校というのが最初は全く馴染めませんでした。
学期毎にある席替えに好きな女の子の隣に座ることを願うドキドキ感は全くなく(そも席替えがあったかも覚えていません)、フォークダンスなんていう行事も全くなく
教室には革靴で土足で入り誰も掃除をしないから床はタール状態で週刊誌は散乱して
いて教科書を床に落としたりすればそのページは黒塗り状態となり、教師も全員男性で変わった黒いマントを着ているし、冷暖房がない上に窓ガラスは色付きであちこち割れていて冬はコートを着たまま授業を受けるという今では考えられない状態でよく
三年間過ごしたものだと感心します。
これも男女共学の国立2校と当時でも冷暖房完備だった武蔵と他校を全部落ちてしまった報いだと観念した次第です。
バレー部には何の躊躇いもなく入部しました。
新高(と呼ばれていました)だったにも関わらず当時の先輩も同級生もとても温かく迎えてもらった事を今でも覚えています。特に同期は最終的には10人になるのですが、
卒業後何十年も経った今でも年に2、3度は会える人間で集まっていて高校まで友人と呼べる人がほとんどいなかった自分には本当にかけがえの無い仲間です。
羽井佐さんのメッセージに写真が載っていたと思います。
バレー部の思い出というと試合よりも千葉県岩井での合宿です。
今では死語でしょうが蚊帳を吊っての雑魚寝で夜に腹が減るとみんなが寝静まった頃あいに羽井佐さんと蚊帳から這い出して、みんなで持ち寄った焼き鳥やサバの缶詰をこっそり食べた味は忘れられません。
それから浜辺のランニングはキツくてつい手を抜こうとすると疲れそうなところにハチさん(故山本さん)が立っていて怒号と共に応援されてやむなく走っていたのも思い出します。
また風呂が共有だったこともあってか一年上のO先輩にインキンタムシをうつされた事も今ではいい思い出です。うつされた時は大変でしたけど、今ではこの単語もあまり聞きませんね。
その後大学、会社とそれなりに友人も増えていきましたがやはりニキビ面の頃からの
友人というのは別格です。開成バレー部でできた同期の絆を今後も大事にしていきたいと思います。大学では身長もないのでバレーを諦めて他の運動部で過ごしましたが
大学でもバレー部を続けたやはり同期の橋本さんに次はお願いしたいと思います。
2024年11月掲載
<18>部活動あれこれ/1980年から1984年
藤田 佳秀(昭和60年卒)
小生が在籍し5年間のバレー部活動のあれこれを、思い出して書いてみます。記憶違いはご容赦ください。
中学に入学した1980年は、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、アメリカがモスクワオリンピックをボイコット。日本も同調しました。泣いて訴えるレスリング選手の当時の映像がよく流れますが、バレーは女子のみ出場権を獲得していました。当時から人気スポーツで、男子は新日鉄、日本鋼管、女子は日立、ユニチカのゲームをテレビ観戦していました。選手のプレーする姿がスマートで気に入っていたので、運動会の後早速に、自分から入部の手続きをしました。
部室は、中学グランドに入って右手の部室棟一階、室番号は確か”2”でした。4、5人も入れば一杯です。置いてあるボール、ネット、アンテナを練習場所に運ぶのは、下級生の仕事です。
活動日は、火、木、土の放課後週3回で、体育館の舞台と反対の半分、コート一面を使用。中高合同で、部員は3、40名くらいでした。反対側では、卓球部と体操部が1/4ずつを使用。前者は規律厳しく、後者は和気あいあいの雰囲気でした。また、木曜は、中学のみ中学校舎前の屋外コートで、地面は普通のコンクリートでした。ひとまわり小さい中学用のボールの表面は、ガビガビになっていました。
メニューは、準備体操>ダッシュ>対人パス>三人レシーブ、その後にスパイク、サーブ、レシーブ、ブロック、トスのプレー別に練習します。試合の前は、相手返球からの攻撃など、実践的になります。キャプテンがメニューを指示し、生徒のみで進めます。競技技術を指導、教授された記憶はなく、見様見真似で各自が修得します。練習方法と順番は、代が変わっても変わりません。終了は5時。試合前の一週間は、朝練もありました。
春・夏・冬休みの前には、練習日の予定表が渡され、隔日午前または午後のペースでした。普段はない屋外のランニングがあり、駒込の聖学院の辺りまで走っていました。
夏と冬には、千葉県内房の岩井海岸、敷地内に体育館のある民宿前芝荘で、一週間くらいの合宿がありました。中学と高校夫々に、大学生OBがついてくれます。一日のスケジュールは、中学は【海岸で陸トレ>午前①>午後②】、高校は【午前③>午後④>ナイター】でした。各スロットは2時間くらいで、体育館は、③⇒①⇒④⇒②⇒ナイターの順番で、切れ目なく使いました。到着初日に、普段にはない強度のサーキット筋トレを全員で行い、翌日からは筋肉痛全開。宿舎の階段を上がるのも苦労するのに、動き始めると動けるのは、なんとも不思議でした。中学の時には、館内二階の欄干から、高校のナイターを見学。先輩大学生も混じっての、迫力ある練習光景を覚えています。
戦術については、我々の代の話ですが、攻撃は、センターがクイックに入って、レフトのエースが平行気味の低めのトスを打つ、が基本。ライトのオープン攻撃もあり。クイックはAのみ。バックアタックはなし。移動攻撃もありませんでした。シンプルでしたが、レフトの両エースが強力でしたので、よいトスまできちんとつなげれば、決めてくれました。サーブは、ほとんどフローターで、ジャンプは試合で見たことがありません。肩から腕を回すドライブサーブは、まれにありました。一方、サーブレシーブは、セッター以外の5人がW形に構えます。リベロはいませんので、前衛のエースも含めて、レシーバーの役割分担は均等です。
最後に、改めて振り返って思うことをひとつ。
従順な気質や幼さによるのでしょうが、当時、練習方法を工夫して改善する点、試合を記録・分析してフィードバックする点で、もう少しできることがあったと感じます。最近は、自主性が重んじられ、いろいろなマネジメント手法が普及しているので、今の生徒さん達は、上手に運用されているのでしょう。
大学生になって合宿のお手伝いに行った時、ひとつ下の学年の掛け声がそれまでと変わっていて、「変えていいんだ。」と感心しました。そんな感覚でした。
ただ、自分自身にできた?と冷静になると、高校の三年間は、気力、体力、技量で及ばず、目の前のプレーで正直精一杯でしたから、考えが至っても同じだったかもしれません。
2024年10月掲載
<17>開成バレー部という絆
大多賀政昭(平成11年卒)
このリレーエッセイでも、すでに同期の木村やキャプテン楓が寄稿しています。他にも私たちの代(1999年)は、他にも温厚な部長の石岡、運動神経の塊エースの山口、ドSセッター河津、熱血漢のイケメン飯塚、いじられマルチプレイヤー藤野、個性豊かな面々がおります。6年間は続けなかった部員にも、いつもにこにこおしゃれな若林、いぶし銀の裏レフト吉里、学年でも異彩を放っていた個性派レフティ佐々木、モノのでかさは誰にも負けない山本、カールした長髪が印象的な元テニス部センター鵜沢など、個性豊かなものがおり、それぞれとの印象的な出来事が未だに記憶に残っております。誰かが結婚式をあげるたびに余興で凝った寸劇を披露するなど、高校卒業後も定期的に同期で集まり、旧交を温めてきました。
そんな私たちの代は5つ上が今井先輩らの代であり、何人かは運動会後の先輩後輩の交流の中で入部したものもいます。中1の時から同期や先輩を変なあだ名で呼ぶなど、ふざけることが多く、顧問の中村先生や先輩方の手を焼かせたのではないかと思います。本エッセイでは、私たちが集まる時に今でもよく話に出る先輩との思い出を紹介したいと思います。
現役時に、私たちを熱心に指導してくれた先輩に、2つ上のキャプテン市原先輩がいます。中3の時私たちはバレーボールがインドアスポーツであり日焼けしないことに悩んでおりました。健康的に日焼けし、第二ボタンまで開けたラフなスタイルが女子学生の目を惹くと信じて止まなかったのです。そんな私たちは自主練の坂ダッシュをサボっては、今はもうない旧校舎の部室棟の上に裸で寝転がり、日焼けに勤しんでいました。そんな私たちを咎め市原先輩はこう言ったのです。
市原先輩 お前らそういうのなんて言うか知ってるか。
「本末転倒」って言うんだ。
市原先輩 本はなんだ。
私たち バレーです。
市原先輩 末は何だ?
私たち 日焼けです。
市原先輩 わかってるじゃないか!怒
この名言は今でも私たちの語り草で、決して大事なことは何かを見誤ってはいけないという人生の教訓になっています。このように私たちの代は、先輩方に多大な迷惑をかけながら、様々な学びを得ていたと思います。
そんな私たちの代は、中学の時にさわやか杯(全国都道府県対抗中学バレーボール大会、現JOCジュニアオリンピックカップ)にも選抜されたエースの山口や部長の石岡と共に、なかなかの成績を残し、高校生にもなるとキャプテン楓を中心に真面目にバレーに取り組むようになっていました。そんな折に、私たちの部活動に大きなインパクトを与え、卒業後にも大変お世話になった先輩がいます。昭和38年卒の山本先輩です(以下、敬愛を込めて山さんと表記します)。山さんがいつ頃から私たちの代と関わるようになったかは定かではありませんが、高校1年生ぐらいから平日の練習時によく来るようになりました。声のよく通るOBが部活に来て、文字通りボールを投げつけるように指導を始めたのを覚えています。
私の記憶だけでは、私たちの代と山さんとのかかわりを十分に伝えられないと思ったので、同期にエピソードを募りました。ここでいくつか紹介したいと思います。
山さんから一番の熱血指導を受けた飯塚のエピソードです。「ある日から、自分から立候補したのか、指名されたのかは覚えていないんだけど、練習の合間にコートの端で二人きりの特訓が始まったんだよね。特訓は至極シンプルなもので、山さんがハイ、ハイ、という怒号のような掛け声と共に、左右に手で投げつけてくるボールをレシーブで拾うというもので、これは果たしてレシーブの練習なのか、反射神経の練習なのかと、自問自答をしながら、ひたすら自分めがけて投げつけられるボールに食らいついていたのを覚えているよ。その特訓の成果かはわからないけれど、その後バレーボールが少しうまくなったように感じたかな。後日、山さんと話していた時に、当時は部活の練習に行くことに逡巡することもあり、特に奥様は部活に迷惑になっているのではないかと危惧していたらしい。けど、私が送った暑中見舞いに山さんへの感謝の言葉が書いてあることを奥様が読んで、山さんが部活に行く許可を出したということを聞いたことがあってね。暑中見舞いの時期になると、このエピソードを嬉しそうに語ってくれた山さんの顔を思い出すんだよね。」
石岡は以下のような山さんとのエピソードを語ってくれました。「いつも食べ放題、飲み放題の養老の滝にご飯を食べに連れて行ってくれたのを覚えているかな。練習や試合の後の話合いで、山さんと楓の意見が合わない度に『こうた、楓がキャプテンでいいと思う?』としょっちゅう聞かれていたけど、自分は漢気のある楓キャプテンを慕っていたのと他に頼りになる同期もいなかったと思っていたので、『楓しかキャプテンの器を持っている奴はいません!』とその度に答えていて、『こうたがそういうなら、俺、信じる!』と山さんが返事するといったやりとりを何度もしたかな。」
山さんと意見がぶつかることがあった楓は「練習メニューのことで対立した時に、飯田橋のホテルでステーキをご馳走になりながら、こんこんと諭してもらったこともあったかな。いつの日か、『俺、かえでと話したい!』と夜遅くなることを自宅に突然電話したことがあって、母がとてもびっくりしていたのを覚えているよ。」というエピソードを教えてくれました。
ちなみに木村は「『きむらさーん!これ、僕の彼女!』と毎回違う女性(全て別人)の写真を山さんに見せてもらったこと。」が山さんとの一番の思い出だそうです 笑。(もう時効ということでいいでしょうか)。卒業後に、色々な文化を学べるお店にたくさん飲みにつれていってくださったことも、同期の間で話に出ます。
これらのエピソードからもわかるように、私たちの代に濃密に関わってくれた山さんは私にとっても大きな存在でした。私は身長こそ、180オーバーでしたが、中学の時に病気で長期休学をしていた関係からプレーではチームに貢献できず、高校からは半分マネージャー的な役割を担っていました。山さんが初めて私を認識した時、「お前はどうしたんだ?」と私に問いかけました。上に書いたような私の事情を話すと、「そうか。お前のようなやつは大事だ」と認めてくれました。また、事あるごとに「大多賀が楓の代で一番大人だ」といい、部活の時も度々「大多賀、どう思う?」と聞いてくれました。卒業後も会えば「何してるんだ?」と気にかけてくださり、会えない時も年賀状を通じて、交流は続いていました。
そんな山さんが亡くなられたという出来事は、私たちの代にとっても衝撃的であり、お墓参りができていないことが心残りでした。先日(2024年6月18日)、同期有志で、山さんが眠るという八柱霊園に行ってきました。事前にお墓の場所を確認しておかないという失態を私が犯し、最後は近くの合同祭壇のようなところからお墓のある方角に向かって皆で山さんのご冥福を祈る形になりましたが、きっと私たちの思いは届いていると思っています。
6年間を一緒に過ごした同期はもちろんですが、親と子ほど年が離れていても、学年を超えて一緒の目標に向かって励んだり、思い出を共有したり、交流したりできる開成バレー部という絆は素晴らしいものであると思っています。今後もこの絆を大事にしたいと思っています。そして、同期の仲間と共に、開成バレー部そして現役を含む後輩たちに、私たちにとっての山さんや市原先輩との思い出のように、価値ある何かを還元できたらと思っています。
次のエッセイは、3つ下の大内くんにバトンタッチしたいと思います。私たちが池袋のプリンスと呼ぶ大内くんとは学生時代によく飲んだりしましたが、今は化学の研究者として立派に活躍されているそうです。では、よろしくお願いします!
2024年9月掲載
<16>「我、事において後悔する」
羽井佐 利彦(昭和53年卒)
今もよく走っている。
走っているといっても東京マラソンやホノルルマラソンではなく、自宅から駅、駅での乗り換え、駅から職場といった通勤途中のことである。思い出してみると開成に通学していた頃も朝はよく走っていた。で、残念ながら時々遅刻していた。開成では運動会の団長と組責、そして皆勤賞受賞者が尊敬を集めていたが、私は皆勤賞とは無縁だった。
でも駆け足は速い方で、高校三年生の時の運動会ではスウェーデンと学年別と全学年リレーを走った。私は赤組だったが、高三の棒倒し(赤組優勝)が終わった時点で総合一位。その時団長からかけられた言葉が「バトンさえ落とさなければ総合優勝だから」。全学年リレーはオフコースして失格することもなく二位で(最終順位をほぼ決める中一、中二の走者に感謝)、赤組はそのまま総合優勝。この瞬間が人生のピークだったかも。
ご興味があればこちらを↓
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=COud-RIS7P4&ab_channel=ShinjiKono
橙組の記録動画で、全学年リレーは 55:39~57:43
一方バレーボールの思い出は… 晴れがましい感じのものではなく、苦く切ない。
Ⅰ.開成学園の頃
開成中学に入ってすぐの頃、一学年上のF先輩に声をかけられ勧誘されたことがバレーボール部に入部したキッカケだった。精神的に幼かったのか「中学生になったら〇〇部に入って○○したい」という気持ちがなかったようだ。だらしなかったようで練習に遅れたり夏休みにはサボったりしたため、同級のYさんは不愉快そうだった。練習そのものは真面目にやっていたつもりだが。
中一の九月、長身のNさんがスカウトされ入部。我々が球拾いをしているなか先輩に交じってアタック練習を始めたのを見た時は少し複雑な気持ちになった。
中三に上がる前の春合宿か中三の夏合宿での出来事だっただろうか。そろそろチーム作りをということになり、指導に来てくれていた先輩たちが決めたフォーメーションでエースアタッカーのNさんの対角(裏)になった。内心嬉しかったが、誰かが異議を唱えたため翌日には変更に。その時なぜ「頑張るからやらせて欲しい」と主張しなかったのか、あるいは死に物狂いで練習してそのポジションを獲得しようとしなかったのか、悔やまれる。弱い性格だったようだ。
その後の記憶は曖昧だが、高校生の頃はNさんの対角(裏)を務めることに。しかしNさんとの実力差は大きく、試合でNさんが後衛に下がる(私が前衛に上がる)とチャンスとばかり喜ぶチームもあったような。悔しく、情けない想いをした。我々にとって最も重要な高二の新人戦では、私が打ったアタックがアウトになり終戦。
私は後悔ばかりしているが、現役の生徒には後悔することのないよう練習に励んでもらいたいと願っている。
思えば競走、宙返りや鉄棒等の体操が得意だったから、違う部を選んでいれば活躍できたかも と都合よく夢想するが、きっと違うだろう。でもそれなりの年齢に達した時に分かった(遅い!)ような訓話を諸先輩から聴けたこと、また良い仲間と知り合えたことは良かった。
Ⅱ.大学生の頃
運よく東大理Ⅲに受かったが、運が良すぎたのか自分を見失ったのか教養学部のある駒場は遠く、日比谷や渋谷で途中下車したままになる日々に。部やサークルに入らなかったため生活リズムが狂ったようだ。今にして思えばどこか真面目に入部しておけば良かった と後悔している。スキー部、テニス部、ヨット部、ダンス部、応援部、いややっぱりバレーボール部が正解だったか。継続は力なり…。
医学部のある本郷にはけっこう真面目に通った。とはいっても出席したのは解剖実習やBST(ベッドサイドティーチング)等の実習だけで、あとは図書館で自習。夜は水道橋にあるアテネフランセに通っていた。そのような学生生活だったせいか否かは分からないが、卒業後は何かと苦労することに。やっぱり授業にも真面目に出ておくべきだった と後悔している。
Ⅲ.大学卒業後
大学生の時は「医学は内科」と思っていて内科に進むつもりだったが、卒業直前に変更し脳神経外科を専攻した。単純に 格好いい方がいいかな と思い直したようだ。実際には格好いいというより大変なことが多かったが、やりがいはあった。先輩から「忙しくて遊べない(つかう暇がない)からお金が貯まるよ」と言われたが、寸暇を惜しんで遊んだような気がする。お金が貯まった記憶はない。
目の前にある仕事、目の前にいる患者さんの診療に明け暮れる日夜を過ごしているうちに年とってしまった。結局、国立国際医療センター(現 国立国際医療研究センター病院)での12年半とJR東京総合病院での14年半を足した27年間が私の脳外科人生のメインとなった。バレーボール部の顧問だった中村先生はその国立国際医療センターで亡くなったが、その時の三人の担当医は皆開成OBだった。意図したフォーメーションではなく偶然だったようだ。息を引きとった数分後に私の耳にも入り、すぐK先輩に電話連絡した。
「白い巨塔」に例えられる大学病院の医師になるような気が何となくしていたが、違った。こちらの方はオフコース。
お正月に呼び出されて緊急手術したことが何回となくあり-3年続いた時は「なんだかなぁ」とも思ったが-病院からの帰り道、コンビニが開いていても元日の夕暮れはやはりわびしいものだとしみじみ感じた。とにかく忙しかったが、フランス政府給費留学生試験に受かってパリにある病院に留学する機会を得られたこと、また深夜と週末を費やして先輩の指導のもと東大で研究し学位(医学博士)を取得できたことは運が良かった。諸先輩のおかげと感謝している。
60歳でJR東京総合病院を定年退職した。今も現役の名医として虎ノ門にある名門病院で働いているU先輩と違い、私は average neurosurgeon にしかなれなかったが、飽きっぽい性格の私が働き続けてこられたのは脳神経外科が魅力的な科だったからだろう。40歳代の患者さんの手術直後にした説明の際、70歳代の母親が口にした「今日は人生の中で一番嬉しい日になりました」という言葉を今も覚えている。大袈裟な と思ったが、医者冥利ではある。
でも、違う診療科に進んでいたら名医になれたかな?と今も後悔している??
一流の消化器外科医であられる昭和51年卒の上野雅資先生からバトンを受けました。
次は同期の大木さんにお渡しします。
2024年7月掲載
2024年9月追加
<15>【指導者×審判員×保護者】
楓 淳一郎(平成11年卒)
◆1999年卒の私は、現顧問である宮先生の2つ下でのびのびとバレーボールに打ち込みました。男子校に6年間どっぷり浸かった私が、何の報いか卒業後は「女子校の先生」になり、今に至ります。女子バレーの指導に熱中する一方、高体連の審判委員会に配属された私は2007年にB級審判員資格を取得し、高校や大学リーグの主審・副審、Vリーグや国際大会のラインジャッジなどに携わってきました。下記は特に印象深いゲームです。
★2014春高女子決勝「九州文化学園vs東九州龍谷」5セット目(画面右上のサイドライン)
◆関東の私学選抜チーム審判員としてハワイ遠征に帯同したのも良い思い出です。(画像は現地のレフェリーと撮影)
◆A級審判員になるためには、近畿大学の研修大会で実技テスト、さらに筆記試験をクリアする必要があります。2018年にB級キャンプ(2泊)、2019年にA級審査会(4泊)、その後はA級候補生として実績を積んでようやくA級審判員になれました。くじけそうな時、昭和44年卒でA級審判員の片野昭秀先輩が励ましてくださったこと、今でも感謝しております。
◆2021年には東京オリンピックにラインジャッジで参加しました。有明アリーナと品川プリンスホテルをひたすら往復する3週間は無二の経験でした。1964年の東京オリンピックでラインズマンを務めた故中村博次先生の昔語りを「また始まった…」と聞いていた現役時代でしたが、まさか自分が同じ道を歩むことになるとは、なんとも因果なものです。
★2021東京オリンピック男子「日本vsイラン」(画面左下のエンドライン)
その際の寄稿文のリンクがこちらになります。
◆2022年11月、下北沢成徳が共栄学園に敗れて春高出場を逃した3位決定戦は、小川良樹監督のラストゲームとなりました。試合終了後、主審を務めた私のところへ小川監督が歩み寄り握手した際の写真が『月刊バレーボール』2023年1月号に掲載されました。彼は以前から試合後に自ら握手を求める方でしたが、コロナ禍の配慮で「グータッチ」に変えていました。しかしこの時には掌を開いて差し出したのです。心なしかいつもより強く握り返されたような気がして、敗軍の将を前になぜか私が涙してしまいました。(ちなみにラインジャッジは私の勤務校のバレー部員です)
◆私の子どもたちは小学校からバレーをやっていますが、長男の所属チームが全国優勝した際、東京都小学生バレーボール連盟会長を務めておられた片野先輩に間近で見守っていただけたのも、非常に運命的なものを感じました。以下から動画をご覧いただけます。(画面後方に本部席の片野先輩が映ります)
★2019全日本バレーボール小学生大会決勝動画(最初の黄色いチーム)
以前の寄稿文へのリンクはこちらになります。
◆長男は駿台学園中へ進学、中2でセッターに転向、中3の全国大会ではベスト4止まりでしたが、その後JOC(ジュニアオリンピックカップ)東京代表チームのキャプテンに選抜していただきました。下記はJOC優勝後のインタビュー動画です。サッカーW杯で長友佑都選手の「ブラボー!」が流行った直後ということで、仲間にそそのかされて?、赤面もののインタビューになってしまいました(笑)
◆2024年春から末娘も中学校へ進学し、子ども全員が駿台学園バレー部在籍となりました。長男が高2、次男が中3、長女が中1と追っかけをするには体が足りませんが、子どもの試合会場に審判員として参加するなど、上手いこと両立している今日この頃です。開成バレー部で得たものを活かしながら、「指導者×審判員×保護者」というバレーボールの道を、もう少しだけ歩んでみたいと思います。
◆次の寄稿者は、医療福祉分野の研究者として国内外を飛び回っている同期の大多賀政昭くんです。
※過日、OB総会後の講演会にてお話しする機会を頂き、誠にありがとうございました。
その際にお話ししそびれましたが、国際大会におけるラインジャッジは東京オリンピックが最後でした。
ビデオ判定「チャレンジシステム」普及によりラインジャッジが不要となり、ネーションズリーグなどでもラインジャッジは配置されていません。
最後のラインジャッジを経験させていただけたのも、まさにタイミングやご縁であり、好運に恵まれていたと改めて感謝しております。
<14>【中学高校時代のクラブ活動追憶】
草野 昌行(昭和60年卒)
<はじめに>
私は2016年夏から韓国語の個人レッスンを月に2回受けています。すでに8年になりますが学習の成果はほとんどなく、韓国語能力試験の結果も8年前から5級のままで先生を大きく失望させているわけですが、それでも話す・書く能力は上達しているのではないかと自負しています。そもそもこの先生の門をたたいたのも、そのような機会を求めた結果でした。
レッスンの中で自由作文の課題があり、これまでにいくつも取り組んできました。課題は自ら定めます。直近では以下のとおりです。
「夏時間」・「香港と韓国」・「今日のメニュー」・「四世紀の日本」・「天気予報の過去未来」・「統一韓国の夢」・「北朝鮮の気象事情」・・・
そして今回のリレーエッセイのタイトルである、「中学高校時代のクラブ活動追憶」もその一つです。その作文の日本語訳を以下で紹介させていただきます。
作文の目的は韓国語の表現を身につけることであって、内容の正しさは二の次になります。したがって以下の作文は事実をもとにした創作(フィクション)とご認識いただければ幸いです。事実は「創部70年史」の84・85ページに記載させていただいた通りです。
<本文>
私は中学校と高等学校生活を、双方が一体化されたA学園で過ごした。課外活動も中学生と高校生とで一体化されていた中で、私はバレーボール部に所属した。小学校6年生の時の担任の先生が大学時代にバレーボールの選手をされていて、中学校に進むにあたって強く勧められた、ということもあってのことである。
中学時代のバレー部の同級生は8名で、その平均身長は中学校1年生時点ですでに174 cmもあり、中でもB君とC君はすでに180 cmを超えていた。そんな中で160 cmしかなかった私の試合での出番はなかったように思われた。一般的にスポーツは高身長ほど有利であるが、陸上での空中戦となるバレーボールとバスケットボールでは特にその傾向が強いように思われる。
顧問の先生は国際バレーボール協会の公式審判員としても有名な方だった。そしてその口癖は「部活動は教育の場でもある。身長が高いだけでは試合には出せない。その出場には練習量の多さを優先する。」というものであった。高身長のB君とC君は将来を期待されながらも練習を休みがち、今思えば先生はこの2名を激励する目的でそのようにおっしゃったものと考えるが、その当時私はそのまま受け止めて、低身長の自分も中学校3年生になれば先発メンバーとして試合に参加できると信じていた。しかし実際にはそうならなかった。6人目は私ではなくB君であり、その交代要員はC君だった。それでも中学校3年生の時の夏合宿で、キャプテンでセッターを務めていたD君がスパイカーをやりたいと言い出し、その結果として私がセッターとして先発メンバーにて最後の数試合に先発メンバーとして参加することができたのはよき思い出である。
高校生になり、C君は退部し、高校からA学園に合流した同級生3名が加わったが半年程度で全員辞めてしまった。
国内でも有数の受験校であるA学園の部活動は、通常の高校では3年生が引退して2年生が主力メンバーとなる秋の公式戦にて、その2年生が現役を引退するというしきたりがあった。(そして大学受験勉強に集中するのである)
高校バレーは中学バレーに比べてネットがさらに高くなり、中学校3年間で5 cmしか身長が伸びなかった私はいよいよ出番がないものと覚悟した。それでも部活動の練習そのものは楽しく、参加を続けた。
顧問の先生の試合での起用法として、選手交代の際にはできるだけ若い学年のメンバーをあてる、ということがあった。そんなこともあり、高校1年生の時は何回か試合に出た。私のサーブはスピードが遅いながらも完全な無回転のため、相手コートで突然失速し、相手選手はそれについていけずにサービスエースになることが多く、試合に出れば必ず1点は取れる、試合の流れを変えるにふさわしい交代要員だった。
しかしこのことは最上級生である高校2年生の時、試合に全く出場できないということを意味する。事実そうなった。
高校時代の同級生は中学時代の8名からC君が抜けた7名である。私以外の6名が先発メンバーとなり、私と後輩5名が交代要員として参加するのであるが、高校2年生になると私が試合に出る機会はほぼなくなった。私よりもさらに背が低い後輩のE君が、一度交代でコートに入ったまま、最後まで出場というようなこともあった。ただ、それは歴代の先輩の中でも同じような立場で過ごされた方々がいらして、でもみな最後まで活動された。そして春夏2回の合宿の際は、社会人になられても週末にいらして指導をしてくださっていた。そんな姿を励みに私も最後の試合まで部活動に参加することにしていたが、精神的には厳しいものがあったのは事実である。
現役時代の最後の夏合宿も、基礎練習を除けば後輩たちといっしょに球拾いをするだけで・・・一般的に運動部の合宿は極限まで疲労するものであるが、なにか煮え切らない毎日だった。そんな中である日、コーチの卒業生が「今日のゲームでは高校2年生部員のサーブミスの回数を記録して、一番多い者が練習後の清掃を一人で行うこととする。」というようなことをおっしゃった。それを聞いて私は全く関係ないものと思った。サーブミスをするためには試合に出る必要があるが、そもそも出してもらえないのである。それでも1回だけ交代の機会があり、1度だけサーブを行った。失敗しなかった。
ところが練習終了後に、サーブミスの一番多かったのは私だ、と告げられた。私は耳を疑った。私はミスをしていないのである。そして私以外の先発メンバーは、明らかに複数回のミスをしていた。しかも私は19回の失敗、とされたのである。私はそもそも19回もサーブをしていない。それで私はコーチに記録を見せてもらったのだが、私以外の選手の名前の下には「正」の字で数回の失敗の記録が記載されているが私の名前の直下には記載がなかった。しかし少し外れたところに、全体の失敗数の確認目的であろうか、19を示す「正」の字が書いてあった。コーチはそれを示して、ほら、19回だろうが、とおっしゃった。私はがっかりした。そのコーチが見間違えたことよりも、そもそも私の存在をほとんど気に留めてないことに、である。結局その日は一人で掃除を行った。連日の猛練習で疲労がピークになっていた他の部員は、みな見て見ぬふりをして引き上げていった。
11月になり、いよいよ次の日曜日が引退試合、という前日の放課後4時間の練習は、コーチ以外の卒業生も複数名参加されて、そのほとんどが試合形式の練習とされた。一方は先発メンバーチーム、もう一方は卒業生と控えメンバーの混成である。前日ということもあり練習試合は大きく盛り上がったが、その4時間の中で私の出場は1回もなかった。私は完全に忘れられた存在になっていた。中学・高校の5年間の部活動生活の最後のシーンはあまりにも切ないものであったが、その時は「これで明後日からは、バレーボールに触れることなく過ごすことができる。」と、それだけを考えながら、退屈な4時間、そして翌日の試合を過ごしたのであった。
それからすでに40年が経過した。私は現在でもA学園バレーボール部の卒業生組織に所属しているばかりか、同級生の中で年度幹事にされている。試合には全く参加する機会はなかったことを考えると皮肉である。それでも同級生同士は仲が良く、年に1回は交流の機会を持っている。その際の話題の一つは現在のバレーボールに関する話で、私以外の全員が中学・高校バレーから社会人チーム・代表チームの話題に至るまで、みな詳しい。テレビ等でもよく観戦しているようである。しかし私は全く見ないし、それゆえ何も知らない。それでも現在はリベロという後衛で守備に特化したポジションがあることは知っていて、これは高身長であることを必須としないことから、自分にも活躍の機会があるのかも・・・という想いはある。
次は私の同期で、
2024年5月掲載
<13>【バレー部から外科医へ】
上野 雅資(昭和51年卒)
尊敬する1年先輩の市村さんからのバトンを受け、先輩方への感謝を込めて、私のバレーボールの思い出と、これまでの生活を紹介したいと思います。
1. 中学時代
中学入学時に比較的高長身であった私は、キャプテンの稲垣さんに廊下で声をかけられて、光栄に思い入部しました。公式戦が9人制から6人制へと移行する時代で、アスファルトのグランドでの練習でした。中学3年生だけでも50人もいる大所帯で、練習風景は壮観でした。
岩井での夏合宿は試練の連続でした。暑い体育館には、たくさんのOBの方々が指導に来られて、球拾いの間でもパス練習があり休む暇がなく、海岸を往復するランニングの途中で腕立てや腹筋などのトレーニング(「陸トレ」と呼称)もあり、限界を試されるような場所でした。練習中の飲水の禁止も、厳しさを助長していました。
特に、中学3年の夏合宿では、中学と高校の時間割が変更になり、中学の練習が日中に集中することになりました。私は、好成績を期待された高校チームのための変更であると理解しましたが、いつも以上に厳しい合宿となりました。このためか、秋になると、同期の多くが、転部してしまいました。引き留めることができず、寂しさと同時に、自分の人間力のなさも感じました。
2. 高校時代
S49卒の先輩方が卒業されると、一学年上のS50卒は7名、わがS51卒は3名の少人数のチームとなりました。S50卒の皆さん(責任感が強く素早いセットアップの市村キャプテン、決定力抜群のストレート打ちのエースの安藤さん、ピアノの名人で力強い攻撃の杉山さん、いつも笑顔の中心でトスが上がれば決めるセンターの松下さん、ブロックの上手いサウスポーの木村さん、強烈なドライブサーブの竹内さん、イケメンで賢いプレーの海老沢さん)は個性豊かでとても仲が良いだけでなく、勝負に対する厳しさがあり、ミスの少ない強いチームでした。このため、参加した全ての大会で東京都ベスト16を堅持されました。S49卒、S50卒の2学年が連続して全大会で東京都ベスト16の好成績であったことは、私には、たいへんなプレッシャーでした。
私の学年は、根性で支えてくれた島川君と、心優しいマネージャーの上田君の3名でした。このため、1学年下のS52卒の老川君たちの力を借りて、なんとか最後の大会で、都大会に進出し、面目を保つことができました。発足当初に担当していただいた保條先輩はじめ、多くの先輩方に助けていただいたことは、今でも感謝しています。
高校のキャプテンの夏合宿では忘れられない思い出があります。当時、中学のキャプテンが、仲間と消灯後にアイスクリームを買って合宿所に帰ってきたところを、運悪く中村先生にみつかり、私が呼び出されました。中村先生から「お前が、しっかりしないから、こんなことが起こるのだ」と強く叱責されました。高校チームのことしか考えていなかった自分の意識の低さに愕然としましたが、責任の範囲を意識するうえで、その後の人生でのよい教訓となりました。
また、合宿中の陸トレの途中で、一学年下の中心選手から、「勝つために、技術や連携を高める目的で合宿をしているのに、陸トレで疲労するのはナンセンスだ」との意見がでました。自分でうまく答えることができず、困っていたところ、たまたま同行されていた桑田先輩から「社会に出るといろんな苦しいことがあるけれど、この練習を乗り越えたことが、自信となり支えとなることがあるよ。」と話していただき、なんとかチームをまとめることができました。先輩のやさしさは忘れられません。
3. 大学時代
地方国立大の医学部バレー部で6年間すごしました。開成時代と同様に、よい仲間に恵まれ、充実していました。高校までとの一番の違いは、頂点を目指せる大会やリーグ戦が数多くあることでした。何度も優勝した医学生大会をはじめ、一般大学と対戦する春秋のリーグ戦や大学選手権など、一年中、実力の近いライバルとの試合がありました。各学年は2~3名でしたが、県大会で優勝経験のある先輩や、後に運動生理学教授となり日本代表チームを指導することになる理論家の先輩など、チームメイトにも恵まれていました。ビデオを撮り、強豪チームの動作を分析し、練習に落とし込む作業は、とても効果的でした。高校時代と同様、春と夏に合宿もあり、同じように長時間の練習でしたが、自分たちで考えたメニューでしたので、苦しさは感じませんでした。もちろん、生理学の知識や、S55年に発売されたスポーツドリンクにも大いに助けられました。
印象に残る試合は、地元の県立高校との試合です。1セット目は先取しましたが、2セット目以降は、競り負けました。同じような身長の高校生に負けてガックリしましたが、セッターのトスやサーブカットの技術は素晴らしいものでした。そのチームが、翌年の高校総体で全国優勝したときには、高い技術を追求できれば、スポーツ推薦のない開成高校でも全国大会をめざせたのではないかと感じたものでした。
残念な思い出は、地域5県の大学選手権の決勝で、全国大会常連の強豪大から1セット先取し、あと1点のところで、私のトスミスをきっかけに流れを失った試合です。今でもそのトスの軌道は記憶に残っています。
部活が忙かったため?彼女もできなかったので、6年間、朝飯晩飯付きの下宿で生活しました。授業と部活以外では、チームメイトや友人と鍋を囲んで話をするのが楽しみでした。学業では、一番心惹かれて熱心に取り組んだのは解剖学実習です。「初めての患者さんと考えて、献体していただいた方の思いにふさわしい実習をしなさい」との教授の言葉に感激し、部活終了後に夜中まで、スケッチを描いていたことを思い出します。努力を認めてもらい研究報告もさせていただきました。
4. 医師になってから
大学付属の癌研究施設の外科に入局し、4年間大学院生として、臨床をしながら抗癌剤や癌免疫の研究をしました。大学院卒業と結婚を契機に、癌の外科手術のメッカであった癌研病院に推薦していただきました。ここで、あらゆる癌の手術を経験しました。効果的な抗癌剤がない時代だったので、完治が期待できる治療法は手術だけでした。このため、複数の臓器を切除する拡大手術も頻繁にあり、10時間を超える手術も多く、術後の管理にも苦労しました。
早朝から夜中まで働いても、仕事が終わらないような日が続く
時期もありましたが、あまり苦しいとは感じませんでした。
守るべき患者さんがいたこともありますが、開成バレー部の夏合宿で、自分の限界を経験していたことも役立ちました。
卒後10年目からは、大腸癌の治療に専念して、腹腔鏡手術や術前治療などの新しい技術を導入しました。患者さんも年々増加して、私が責任者となった2010年には、大腸癌の手術件数が国内一となりました。多忙でしたが、内科や放射線科と協力して、世界でも認められる直腸癌の治療を報告することができました。2020 年からは、虎の門病院に異動し、治療を続けています。虎の門病院は、大腸癌の手術件数が年間450例と多いだけでなく、循環器科や脳神経科など全ての診療科が一流です。おかげで、がん専門病院では対応困難だった、血管再建が必要な患者さんや、高度な合併症のある患者さんなど、全ての大腸癌患者さんを治療することができます。バレーボール部時代と同様、優秀な仲間に支えられて、緊張感のなかにも楽しく仕事をさせてもらっています。
5. さいごに
振り返ってみますと、開成バレーボール部の中村先生をはじめ、諸先輩から学んだことや、バレーボールを通じて巡り合えた方々との交流が、これまで働いてきたなかでの導きや支えとなっていたと改めて感じます。
さいごに、OB会の設立・発展に苦労された皆さんや、日々OB会のために貢献されている皆さんに感謝申し上げます。開成バレーボール部OB会がますます発展することを願って、稿を終えたいと思います。
次のバトンは、東大医学部卒業後に、人体の最も重要な臓器である脳の治療の名医になられた、S53卒の羽井佐利彦先生にお渡しいたします。
2024年4月掲載
白子智義君(昭和60年卒・白組)からの引き継ぎにより、リレーエッセイをお送りします。
本稿に登場する場所、人物名はフィクションとさせて頂きます。ご笑納下さいます様お願い申し上げます。
高橋 究(昭和60年卒・青組)
<12>【かいせいバレー部合宿の思い出】
■SCENE1 昭和54(1979)年 春
べつに入りたくて入ったわけじゃない、勧誘会のあの日、しゅうきゅう先輩とぶー先輩に声をかけられ、ただなんとなく名前を書いて、ただなんとなく練習に参加したことからバレー部がはじまっただけだ。
真っ黒に日焼けしたヒトが、よっしゃーとか言いながらボールをネットに手でひっかけて、オラオラオラとかいって生徒に拾わせるのがバレーボールなんだと思った。聞けば国際審判員の資格を持っていて、よく見るとたまにテレビに映るヒトだった。全日本女子の選手のどこかを触ったとか触らないとか、そういえば夏の水泳学校で「オマエはでかいから、はみ出しちゃ困るしな」とニヤッと笑って真っ白なサラシから、長めにふんどしを切ってくれたのもこのヒトだった。ようやく先生なんだと理解した。
■SCENE2 昭和54(1979)年 夏
まえしば荘での合宿は、現役部員たち、少なくとも自分にとっては最初のころ地獄だった。岩井までの電車は、各駅停車がほとんどで、特急さざなみに乗ることはまずなかった。特急はエアコンが効いてるけどすぐ着くからイヤだった。各駅停車は岩井に着くまで時間がかかるからまあいいけど、佐貫町を過ぎたあたりから海のにおいがし、うんざりだった。駅にはこれまた真っ黒に日焼けした明らかに漁師だろうと思われるおじさんが、軽トラで迎えにきて荷物を積んでいってくれた。
家族連れが海水浴に来ていてきゃあきゃあ言っている。♪海はーとおあさ―どこまーでつづ―くー、岩井―ビーチはーヤングーのてんち―‥‥(*)。なにが天地だ、こっちは白い体操着で、波打ち際をただ走らされてるだけだ。
(*)註;今でも耳に残るこの曲は、ザ・ブレッスンフォー「房州岩井海岸~岩井讃歌」。YouTubeで聴ける。カップリングされたA面は、なんと春日八郎の「岩井音頭」。
■SCENE3 昭和55(1980)年 夏
昼はむぎ茶、夕食後の自由時間はかき氷。「栄養補給のため」という理由で一人2個、缶詰を持ってきていたが、なぜか食卓にはシーチキンばかりで、親が持たせてくれたフルーツ缶とか大和煮とかコンビーフとかはなぜか食卓に上がることはなかった。
まえしば荘のパンフレットには「ヤングの食欲にもたっぷりお応えします!」とか書いてあったけどな、缶詰なんか出したら失礼じゃないのかな。 「オマエなー、素材缶なんかだれが食うんだよ」とか言われ、誰かがもって帰らされた。フルーツ缶は冷蔵庫で冷やされデザートに。大和煮とコンビーフは酒のアテ。
胃の腑に収まる先がまったく違うことが分かってきた。ここに社会の縮図があった。
■SCENE4 昭和57(1982)年 春
もう半往復、あと半往復と、あごで砂浜を走らせる合宿チーフだった。Tシャツ短パンで走らされるのにもだいぶ慣れた。「ファイトー、イッパーツ!」勝野洋のCMでおなじみの「リポビタンD」は買出しの必須アイテム、15,6歳の奴がぐびぐびとやる。
「男には男の武器がある!シャキーン!」の勝新太郎のアルギンZが発売される少し前だ。少年たちにとって「リポタンパワー(通称)」はてきめんで、浜の北側の先の、造船所まで走れた。
このころになると暇をもてあまし、えなり君と給茶機から飲んだお茶の数を競った、かすかにむぎ茶の風味がする、生ぬるいお茶だった。オレ358ぱーい!‥そんなに飲んでどうする。
■SCENE5 昭和57(1982)年 夏
練習の合間はいつも、あーあと何分寝られるーとか言ってゴロゴロしていた。夕食後のミーティングは修行の時間だ。OBの話はかわるがわる長く、精神論とか昔話に終始しほとんど記憶にない、とにかくはやく横になりたかった。先生はというと、原付を乗り回し、楽しそうに砂浜を方々走っていた。
トイレは和式で水洗じゃなかった。「筋肉痛で(しゃがめず)クソができねー」と叫んだOBがいた。
あとサーフボードを持参し朝夕海岸に通うOB、いつの間にかきて、いつの間にか帰ってしまった。
体育館の西日を背に、サンオイルを塗って焼いているOBもいた。
合宿の帰りは国鉄 両国駅が終着、そこから家まで都バスが通ってて少しだけおトクな感じだった。
■その後のまえしば荘と、その後の私
会社に入って6,7年目の頃、取引先の店主が釣り好きで内房から釣り船を出そうと言った。クルマを出したところ館山だった。同乗は店主と私の上司2人、帰りも岩井を通るので少しだけ寄り道したいと申し出て、せまい道をまえしば荘に行ったところ、宿舎も体育館も取り壊され、基礎だけ残っていた。なにかひとつ終わった気がした。脳裏にはいまもあの岩井のギラついた陽光が残っている。
かいせい在学中に教師からもらったビンタの数では、おそらく学年最多を自負する私だが、なかむら先生からもらったあの一発は忘れられない。進級判定会議にかかって学校に母親が呼び出された時、先生が体育教官室で「成績ごときでお母さんを泣かすとは何事だ」と、喝とともに一発もらった。
効いた。数年前、水泳学校で褌を切り出してくれた同じ手で。
あの時のなかむら先生の御顔と、隣席の組主任のいとう先生の御顔がいまもまぶたに浮かぶ。
出来の良い生徒ではなかったが、わたしの人生の「原体験」は、これらにある。
あと数年で私は父親を終える。子に3人恵まれ、全員、中高一貫校に通った。長男はバレーボール、次男は硬式野球、長女は新体操と、学校生活を謳歌した。あの頃の私と同じように、かけがえのない友人達を得、輝く思い出を胸に、社会に出て、多少のお役に立つことができる、自立した市井人になってほしいと願う。
次は、私の同期で、学年幹事でもある、草野昌行君にバトンを渡します。
2024年3月掲載
<11>雑想記
飯塚 公啓(昭和37年卒)
開成バレー部での想い出は多々あるが私の中学から高校の時代(昭37年枠)はバレー部存亡の危機の状況にあった。
理由の一つは先ず部員数の不足。同学年では故,稲毛智鉄君、上田一成君,安井高明君の四名、一年先輩では三浦・三崎・小板橋・小田木・菊池・大木の諸先輩六名、更に一年上では平松和久先輩の一名であった。又、この時代は競技ものものが九人制から六人制に移行する過渡期にあり混乱状態でもあった。
更には顧問の先生が温厚で「明るく、仲良く、楽しく。」をモットーとする上迫先生から日体大を卒業したばかりの熱い男、中村博次先生に交替となり、 スローガンも「試合に勝つバルーを目指す」に変更されました。
メンバー不足から高校の試合に中学生部員を参加させる等のヤリクリをして、それでも「出ると負け」のチームを どうすれば部として成長させられるのかと、思い、悩み続けた頃でもあった。
これらの難題を克服する為に同級四名が中心となり後輩部員達の全面的な支援を受けて活動した内容に付いては話が長くなるので省略するが雰囲気だけを多少伝えると、
①顧問の中村先生には当時フトン屋さんの娘である婚約者(其の后、結婚)が在り、店の近くのアパートで一人暮らしをしておりました。ある日、私と同学年グループで中村先生のアパートに泊り込みで話し合いをすることになりましたがフトンが足りず急遽、婚約者に連絡。借りたフトンを抱えてアパートに運ぶ途中で、時間が深夜でもあり、警察官から不審尋問を受け大騒ぎになった事あり。
②校舎裏の坂道を登り切った所に(当時は中学校の新校舎なし)時々、屋台が出ており顧問の先生のジャケットを借りて一緒に(秘)オデンを食べ乍ら談議を重ねていた事。
③長野県白馬村での夏合宿での出来事。等々を挙げておきます。尚、この中には平松先輩の妙な踊り等も含まれます。
免に角、バレーボール自体に汗を流す、と同時に中学、高校の学園生活を、(今から思えば)楽しんでいた頃でした。今年八十才を迎える自分としては貴重な人生経験でもありました。開成を卒業后、本日に至る迄、人生を思う場面では必ず自分一人の力では今日迄生きて来られなかった、と思い知らされます。
特に若い後輩諸君には、非常に有り難いことですが、開成の卒業生と言う事実は生涯自分の人生に着いて廻るという事を忘れないで欲しいと思います。夫々が自分の夢を抱き、自分の道を歩んで行く中で自分が努力することは当然の事として何等かの場面で信頼し合える開成の仲間をバレー部の活動を通じてお互いに育てて欲しいと思っています。お互いの信頼を基に、みんなで一緒に将来に向って飛び出せる様にとの思いを込めて本文の締めに一句、
『つつましき 梅が小枝に 雪衣 忍ぶ夢路に 春こそ来たれ』
バレー部仲間の人生が豊かで有ります様に
完
2024年2月掲載
*編集者注 お寄せいただいた原稿の内容のまま掲載いたしました。
<10>Connecting the Dots
木村 哲哉(平成11年卒)
私どもの代(平成11年卒)は毎年忘年会or新年会を開いており、最低でも年に1回は近況報告をしています。同輩たちは医者・公認会計士・教師・研究員など、公的資格を持った「まっとうな」仕事をしっかり勤めています。一方私はというと、何回かごとに「また転職したのか」と言われる始末で、職場を転々としてきました。私は性分として常に「新しい刺激がある場」にいないとすぐに次の刺激を求めてしまうきらいがあります。例えば、いわゆる「行きつけの料理屋」というものがなく、常に行ったことのないお店を探しては飛びこんでみる、頼んだことのない料理を注文する、というようなことをずっとやっています。仕事もご多分に漏れず、大学卒業以来20余年で、現職を含めて6つの会社に勤めて来ました。
大学卒業後に最初に勤めたのは戦略コンサルティング会社ですが、その最大の理由も、「色々な会社の経営戦略アドバイスって飽きることがなさそう」という理由からでした。そこには7年超勤めましたが、それが在職期間最長記録となりました。その後、六本木の携帯ゲーム会社、大阪の外資系製薬企業、社員25名の教育系ベンチャー企業と、業界も規模もカルチャーも全く違う会社を渡り歩き、その後、プライベートエクイティ投資ファンド、そして現職の再生系コンサルティング会社に至ります。
財務経理や人事など、業界や会社を問わずに専門性を磨ける職種ならいざ知らず、私は「経営戦略」「事業戦略」という役割をやってまいりましたので、専門性があるようでないような、悪く言えば「何でも屋」をやってきたようなキャリアです。実際、数多の面接の中で、たまに(実はあまり聞かれませんが)「何が専門ですか」と聞かれると答えに窮することもありました。ベンチャー企業からの転職のあたりでは、これまでのキャリアで何を培ってきたのか、悩むこともありました。
ただ、プライベートエクイティ投資ファンドで、投資先企業の改革担当として会社のあらゆる面を見ざるを得ない状況の中で、それまでの経験が全て活きていることに気づきました。ゲーム会社時代に事業指標を数値化し管理する仕組みを作ったことや他企業との提携を推進したこと、製薬企業時代に経営会議を運営したことや全国の営業所をどさ回りして飲み歩いた経験、ベンチャー企業の際にWeb広告運用をしたことや法人営業をしたことなど、すべてが生きた経験として役に立ちました。
転職の際は、長期的なキャリアプランというよりも、その時々で「面白そうか」「自分が活かせそうか」「意味があるか」などを考えながら職場を選んできたため、一見するとなんの関連性も積み重ねもないように見えるキャリアですが、結果としてすべての経験が活き、スティーブジョブズの言う”connecting the dots”のように繋がっていました。
おそらく今後もある特定の会社に骨を埋めるようなことは無いのだと思いますが、それに後ろめたい思いをせず、”connecting the dots”の精神で、”like a rolling stone”で気の向くままに仕事人生を転がって行きたいと思います。
次は同学年の我らがキャプテン、家族まるごとバレー漬けの楓淳一郎くんにバトンを渡したいと思います。
2024年1月掲載
<9>「コロナ禍明け?の近況報告」
市村幹司郎(昭和50年卒)
リレーエッセイ4トラック目 昭和49年卒の老川さんから引き継いだ同50年卒の市村です。
まずは50年・51年卒の合同同期会開催の報告から。
去る10月13日(金)にコロナ禍以来となる合同同期会を今回も松下君のお店、都営地下鉄大江戸線東大前駅近くの「ボーリージャー」で開催しました。
タイミングが合わず欠席を余儀なくされたメンバーもいるなか、それぞれ齢を重ねて、体に少々ガタは来ていますが、遠方から駆けつけてくれた者も含めて元気な姿で楽しいひとときを過ごすことができました。
次回は夫婦同伴で、という案も出てきており、継続的にこの会を続けていきたいと思います。
次に個人的なご報告。
2020年に『マラソン全国走破への道と「コロナ時代」』と称して当HPでご報告していた、コロナ禍のため残していた福岡県も、3月に開催された小郡ハーフを完走し、全国制覇を果たすことができました。
14年12月の宮崎・青島太平洋マラソンを皮切りに、コロナによる3年の空白期間を含め、結果として8年半を費やし、1/3の16都道府県でフル、残りをハーフマラソンで ほぼ歩くことなく完走できたことは家族の協力なしには実現できなかったと思っているところです。
制覇に当たっては、以前も触れたように、各大会に前後して実施した小旅行や名物料理を味わうことも大きな目的の一つで、それを果たせたことも成果と考えています。
今後は「現役ランナー」としては一段落、卒業し、続けてきたスポーツボランティアにより注力しているところです。
東京オリ・パラを始め、以前から続けている東京マラソンや横浜マラソンなどに加えて、湘南国際や東京レガシーハーフ(先日パリ五輪予選を兼ねた雨中の大会)、国立競技場での短距離リレーフェス、浅草のリバーサイドリレーマラソン、年代別となるチビリンピックやねんりんピック、また、変わったところではインラインスケートやアームレスリング、お台場でのGRAND CYCLE TOKYO の自転車ファンライドの大会など、それぞれ特徴ある運営に関わっています。
コロナ禍の間は声掛けやハイタッチもできませんでしたが、それぞれの大会で様々な形で参加者やボランティアメンバーと触れ合うことができることが一番の楽しみとなっています。
最近ではJ1マリノスの日産スタジアムに加えて、J3 Y.S.C.C.のニッパツ三ッ沢競技場のボランティアを始めましたが、弱小ながら(失礼)毎回懸命に応援を続けるサポーターの姿に感銘を受けています。
同じく当時は弱小だった(またまた失礼)プロバスケットチームの横浜ビー・コルセアーズのボランティアを本拠地の横浜国際プールで務めたことがありましたが、最近では有名選手の加入もあって好成績を収めるようになり、ボランティア希望も通らなくなるなど様変わり。その経緯を別の視点で眺められることも楽しみの一つかもしれません。
朝早い集合もあって体力勝負のところもありますが、今後もできるだけ様々な大会に関われればと考えているところです。
次回は冒頭の合同同期会にも参加してくれた昭和51年卒の上野雅資君にバトンタッチしたいと思います。
2023年12月掲載
<8>合宿での思い出
白子 智義(昭和60年卒)
1. 石賀さんのレシーブ理論
1学年先輩の石賀さんから引き継ぎましたので、まずは石賀さんのことから書きたいと思います。先回石賀さんがレシーブ理論のことに触れられていましたが、石賀さんのレシーブ理論は、現役のときから私たちの学年の中では有名でした。体の正面でボールを受けることを強調されていたと記憶しています。当たり前のように聞こえますが、このような重要な基本を実践できるのが、石賀さんのすごいところです。いつだったかの合宿で「マッハはどう対応しているのですか(とても体の正面では受けられない)」と聞いたことがありますが、「コンマ3秒で調整する」とのことでした。基本の徹底、それに尽きるのですね。
2. マッハ
合宿では名物でしたが、あまり良い練習ではありませんね。ボールへの恐怖感をなくすことと根性は身についたと思いますが。しかし、これボールを打つ方もつらいのです。OBになってからわかりました。打つOBの方も、受ける現役の方も大変な練習のわりには、あまり意味がない。だいたい、そういうことの方がよく覚えているものなのかもしれません。他にもいろいろな練習があったはずなのですが、今となってはマッハ以上に鮮明に記憶しているものはありません。
3. 時間の使い方
中1か中2のころの合宿で、中村先生が、私たちの学年の全員を前芝荘の一室に集めて何やらお話をされていたのですが、練習開始の時間が迫ってきて、下級生の私たちは練習の準備をしなければと焦っていました。おそるおそる「そろそろ体育館に行かなければなりません」と切り出したところ、中村先生は「3分あれば、掃除して、飯食って、〇〇して、風呂も入れるから、まだ行かなくていい」と言われ、練習開始直前まで解放してくれませんでした。先輩方に怒られたのは言うまでもありません。しかし、私には、この言葉が後々まで記憶に残りました。例えば、試験を受ける時など、残り時間3分などといわれると焦って何もできなくなりますが、中村先生の言葉を思い出すと、不思議に焦らなくなりました(焦らない代わりに内心では大笑いで、結局は何ができるわけでもないのですが)。社会人になってからも、仕事をする上で、(3分では難しいですが)15分あるからこれができるというような発想に自然になっていました。時間の使い方がうまいねと言われることがあるのですが、原点は中村先生このお言葉にあるようです。
4. 洗濯と掃除
普段は自分ではなかなかやらないことですが、合宿の時ばかりは、これはやらざるをえません。最初の合宿で見よう見まねで洗濯機を使ってみたことが懐かしく思い出されます。前芝荘の合宿の最終日はみんなで掃除でしたが、つらい合宿も終わりということもあって、掃除の時間はなぜか少しうれしかったように思います。このような何気ない経験も、後々役に立つもので、社会人になって通算6年半ほど海外に単身赴任しましたが、洗濯も掃除も炊事もほとんど苦になりませんでした。今では洗濯は妻に任せきりですが、掃除と炊事は結構やっています。それも合宿で鍛えられたおかげなのでしょう。
5. 次の方のご紹介
次は、同学年の高橋究さんにお願いすることになりました。中1でクラスが同じで、いっしょにバレー部に入り、帰る方向もいっしょでした。つい先日も彼が赴任している高知を訪問しましたが、相変わらずの昔話から最近の話題まで、会うと話はつきません。どのようなエッセイとなるのか、今から楽しみです。
以上
2023年11月掲載
<7>開成板橋都電会始末
上田 一成(昭和37年卒)
板橋区の志村と言われる地域から8名が都電を使って開成に通っていた。
小生は一番遠い志村橋から乗り巣鴨、篭町で乗り換えて道灌山下まで乗っていた。中学では柔道部に入っていた。部活が終わって帰りの電車が排球部の飯塚君、稲毛君と一緒になる事が多く、排球部に入るよう誘われた。1年以上の誘いで高校1年より排球部に入ることになった。当時は9人制で身長が低くても後衛のポジションでやることが出来た。おかげで高校の時、クラス対抗スポーツ大会が行われていて、バレーボールと柔道に出場し優勝した事があった。
都電で通っていた8名は全員、通った大学は別々だったが、月一回位の間隔で土曜日に志村坂上の麻雀屋に集まり徹夜で遊んでいた。大学生活が終る年の1月に記念として温泉に行こうという話しになり、千葉県の養老渓谷の温泉に電車で行く事になった。飲んで食べて麻雀して温泉に入ったが、たまたま温度管理が悪くぬるい温泉だった。この会の名前を付ける話しが出て「開成板橋都電会」と言う事になった。各自就職して暫くは続いたが結婚や転勤で集りは無くなった。
開成を卒業し30年経過した頃、あのメンバーで集り将棋をしようと話が出て、常盤台の税理士事務所の2階で集り、月一回で日曜日の午後1時半集合で始まった。排球部の稲毛君は2回位の参加、飯塚君は将棋しないので不参加だった。将棋は小学生の頃、よくやっていたので直ぐ思い出した。千駄ヶ谷の将棋会館に行き対局時計を2台購入し、本物に近づけた。毎回集まると中学高校の気分になり言いたいことを言っていた。
平成7年になり将棋の駒で有名な天童市に行こうということになり、10月に6名で車1台で出かける。高速道路で山形市に出て山寺によって天童市のホテルで泊まる。温泉の風呂場で将棋が出来るし、館内のあちらこちらに将棋関係の物がおいてあった。翌日は街中の将棋の店で駒と将棋盤を購入し蔵王を回って帰路に着いた。
平成11年には福島県猪苗代町で開成の後輩が経営しているホテルに車で出かける。行きは郡山市の開成山公園で休み、翌日は桧原湖でモーターボートに乗る旅行でした。
将棋の場所は新宿のマンションの事務所から志村坂上の工場の食堂と変わったが2カ月1回の間隔で平成20年まで続いた。
都電が無くなって約60年、現在生きている人が6名、あの頃を時々思い出すこの頃です。
次の寄稿者は同期37年卒業の飯塚公啓さんにお願いし、了解を得ています。よろしくお願い致します。
2023年10月掲載
<6> 映画「THE FIRST SLAM DUNK」について
月刊CGWORLD +digitalvideo vol.298より
石川 達大(平成9年卒)
私は新卒でバンダイ系列のアニメDVDメーカーに入社しました。現在は専門学校を経営する学校法人に勤務しています。仕事をする過程でCG(コンピューターグラフィックス)に関する知識が少々増えましたので、掲題のバスケットボールアニメ映画の魅力について、信頼性の高い専門誌を参照(https://cgworld.jp/magazine/cgw298.html)しながら書くことにしました。
「SLAM DUNK」が週刊少年ジャンプに連載されていたのは1990年から1996年。私が開成にいた時期とほぼ重なっています。ほどなくアニメ化もされ、オープニングに登場する江ノ電 鎌倉高校前駅付近の踏切は、今や東アジア全域にわたり認知された聖地巡礼スポットです。
その大人気作品を、原作のクライマックスである山王工業戦に、桜木花道に代わり主人公に据えられた宮城リョータの回想を中心とする新たなシーンも加えて映像化したのが、昨年公開された「THE FIRST SLAM DUNK」です。この映画は原作者であり本作の脚本・監督も務めた井上雄彦の絵がそのまま動いているかのようなムービーを目指して作られました。原作や過去のアニメシリーズにあったデフォルメ的な表現は極力排除し、どこまでもリアルに見えるような演出がされています。
メインとなる試合のシーンはモーションキャプチャーという技術を用いてその基礎が作られました。モーションキャプチャーとは人間などの動きをカメラを用いて三次元(3D)座標のデジタルデータに変換し、それをCGで再現する技術のことです。各キャラクターはモデルと呼ばれる人形のような立体CGデータとなり、モーションキャプチャーデータにそのモデルを乗せることでキャラクターが本当にバスケットボールをプレーしているかのようなアニメーションを作ることができます。
もちろん、実際の作業はこんなに単純ではありません。モーションキャプチャーで捉えられる人体の座標はそのごく一部ですし、もともと平面に描かれたキャラクターをそのまま3Dにすることはできません。リアルに見せるためのディテールの工夫も、ユニフォームのシワや髪の揺れ、時間の経過に伴う汗の量の変化などと枚挙に暇がありません。しかし何から何までリアルに作ればよいというものでもなく、三井の3ボイントシュートが入った瞬間のネットの揺れなど、物理シミュレーションの結果とは異なる動きにして見栄えのほうを優先した表現が採用されたシーンもあります。
そして完成された映画はその圧倒的なリアリティとドラマチックな展開で多くの観客を魅了し、アニメ史上有数の大ヒットとなりました。自分がスポーツ少年の端くれだった頃の大人気漫画が、21世紀の技術で映像エンタテインメントとしてよみがえったことに、私もひとかたならぬ感動を覚えました。映画のエンディングに、私自身が専門学校で指導した人物がスタッフとしてクレジットされていたことは、あまり軸が定まっていたとは言えない自らの職業人生の中でも、数少ない誇りとするところです。
次回はコンサルティングやインターネットビジネス、メディカル、教育、投資ファンドなど幅広く活躍されてきた、平成11年卒の木村哲哉さんに執筆をお願いしています。
2023年9月掲載
<5>『思えば嫁さんより長いつきあい』(昭和49年卒同期会報告)
老川 知永(昭和49年卒)
大変お待たせいたしました。リレーエッセイ4トラック目のスタートとして昭和49年卒業の同期会の模様を写真とともに掲載いたします。
私たち49年はOB会費学年別納入額がいつもトップ。総会出席者が少ないと声がかかればさそいあって無理にでも出席。と物心両面でOB会を支えてきたのは皆さん御承知のとおりでございます。
また同期の団結も強く、今でも年に2回は集まりその他個人同士の付き合いもかなり濃密に行われています。
今回も7月15日に11名が集結いたしましたがメチャ盛り上がりました。写真にうつっている少年のようにはじける笑顔を見てもらえれば想像して頂けるかと思います。
誰かが近況報告を始めるとみんなで茶々を入れ最後に柏女君のダジャレで締めるというのがいつものパターンです。おもしろいですよ~。
今回はいつものメンバーの松原君 稲垣君 清水君 荻野君は都合が悪く欠席でした。
さて我々の学年は中学まではボーズ頭。バレーボールも中学は9人制、高校は6人制という過渡期の学年でした。おまけに中村先生担当の学年ということもあり、先生が張り切って無理やり1年生を入部させたので体験入部を含めると総数100名を超えたときもあったと思います。学年の約3分の1ですね。
しかしあのコンクリートの上でしごかれ、体のそこら中が傷つきあごは裂け練習着がボロボロになるうちにみるみる部員は減っていきました。そらそうだわね。(笑)
当時の1年先輩の矢澤さんにOBになったあとで聞いたところ、数が多すぎて練習にならないので必要以上に練習を厳しくしたとおっしゃっていました。でも人数が減っても練習はなぜか厳しいままでした。私は中2の時に膝のオスグット病というのになり手術しましたが、その時のお医者さんが私の傷だらけの体を見て家庭内暴力かと勘違いしたみたいだったのでコンクリートの上でバレーボールの練習していることを言うと、そりゃ正気の沙汰ではない。膝も絶対治らないよ。と言われたのをよく覚えています。確かにいまだに少し痛いのですが。
さて中村先生も面白い先生でしたが当時はその上を行く先生方があまたいらっしゃいました。もう時効だと思いますのでほんの一部をご紹介します。
いつも酒の匂いがしていたけれど二日酔いではなく実は朝から酒を飲んでいたらしいという世界史の山下先生。独特のなまりで優雅な授業をされた生物の寺田先生。(寺田先生の息子さんは私より数年下ですが一時わがバレー部に所属していました)
あてられて変な答えをすると両拳で生徒のこめかみをぐりぐりする幾何の森河先生は昼になると職員室のベランダでものすごくおおきなおにぎりを七輪で焼き醤油をかけて焼きむすびにして食べていました。
現在ではモラハラ・パワハラになるのかもしれませんが思い出すだけでも楽しい先生方でした。断っておきますがこの先生たちは素晴らしく優秀で授業も本当に面白く我々の大学入試にもものすごく貢献して頂いたと思っています。また生徒たちとの距離感もすごく近かったと思います。
とにかく冷暖房はおろかストーブもなく、教室のガラスは割れまくっていて冬になると授業の前におしくらまんじゅうをして部屋を暖めていたような時代に、それなりのお年の先生方がさぞや寒い中で講義をされていたのだなと考えると本当に頭が下がる思いです。
さて同期会は西日暮里『一合』でやったのですが終わりごろになると上の階から「開成エ~~ル」という懐かしい雄たけびが聞こえてきました。やはりここは開成御用達なんですね。ちなみに一合の店長さんは中山君の知り合いです。
このあとのリレーエッセイは私たちの1年下の昭和50年卒の市村さんにお願いしています。彼は仕事の傍ら様々なボランティアにも参加してきたので話題は豊富だと思います。
また今回のリレーエッセイは昭和59年卒の清水さんの発案で始めました。指名制ではありますが皆さん気持ちよく楽しく書いていただいています。きっと投稿するきっかけがなかったんでしょうね。今後もずっと継続し二回り目三回り目と永遠に続いていくことを願っています。
2023年8月掲載
<4> バレーボール人生と経営理論
石賀 和義(昭和59年卒)
【はじめに】
最近、大学の経営学部の先生になりました。なので、マイケル・ポーター先生の経営戦略論(差別化戦略などを提唱)とジョン・D・クランボルツ先生の計画的偶然性理論(キャリアの8割は予想外の偶然に左右されるが、偶然を活かす積極的行動が大切という理論)をキーワードにして、自分のバレーボール人生を思い返してみます。
【中学1年生】
中学1年生のとき部活浪人でした。部活探しをしていたとき、同級生の松本さんに「バレーボール部に来たらいいんじゃない」と声をかけてもらいました。スポーツは不得意で若干コミ障でしたが、「あのメンバーならやっていけるかも」との思いもあり、思い切って入部しました。まさに、人生はちょっとした偶然で決まるようです。
因みに、リレーエッセイの創始者の清水さんとテニス部の鈴木さんとは同級生で、3人とも大学、就職先が一緒でした。鈴木さんと小生は大学の先生になったので、清水さんが大学の先生になれば3人とも同じ道を歩むことになりますね。
【レシーバー】
バレーボール部では、アタッカーのポジション争いから脱落して退部する人がいました。自分は身長が低くて、そもそもハンディキャッパー状態でしたから、誰も好まないレシーバーでがんばることにしました。今思えば、差別化戦略であり、自分の居場所もできました。アタッカーはレッドオーシャンだけど、レシーバーはブルーオーシャンでした。
合宿では、左右を反復しながら、ひたすらアタックを受けるマッハという練習がありました。自分は反復横跳びが好きで、マッハは苦にはなりませんでしたが、眼鏡をしてマッハをするなんて、今思えば「狂気の沙汰」ですね。
初めてテニスをしたとき違和感がありました。バレーボールのレシーブはボールの球筋に対して体を垂直に対峙させますが、テニスでは体を球筋に平行に位置させ、ラケットの距離を空けます。この適応が難しく、バレーボールの最適化はマイナスもあるのだなあと実感しました。
【中村先生】
中村先生は、授業を受けたことがなく、遠い存在でしたが、卒業後は焼鳥屋へ連れて行ってくれたりしました。あるとき、「いしがあ、今度、リベロって制度ができたんだ。レシーブの専門職で、石賀がやっていた役割だ。今度またバレーボールをやらないか」と薦めてくれました。しかし、就職後は、バレーボールというよりスポーツ全般から足が遠のいてしまいました。先生には申し訳なかったなあと反省しております。
【大学生活】
昨年から大学の先生をやっていますが、金融と地域活性化の組み合わせは珍しいらしく、就職活動を含め意図しない差別化が図られているようです。
ところで、本学の1年生ゼミはランダム抽出なのですが、2年連続で女子バレーボール部の学生さんが在籍しています。2年生ゼミでは、ビーチバレーの西日本大会で優勝した学生さんがいて、1年生ゼミの学生さんとペアを組んでいます。あらためて計画的偶然性を感じています。
【白子さん】
最後にリレーの話です。とあるOB会で昔話が盛り上がった際、「石賀さんってレシーブの理論を構築していましたよね」と指摘してくれたのが1つ下の白子さんでした。次は白子さんにお願いいたします。
2023年8月掲載
<3> 弁護士53年を振り返って
小田木 毅(昭和36年卒)
一般社団法人 食肉加工協会
元監事 弁護士
1.私は、昭和45年4月、石井法律事務所(註)に入所、50年を機に独立、令和2年10月個人事務所を開業、今年は弁護士54年目になる。
私が担当した食品業界関係の思い出深い事件といえば、平成12年の雪印乳業(株)の大阪食中毒事件と平成14年の雪印食品㈱の牛肉偽装事件である。
本稿では雪印食品(株)の牛肉偽装事件を振り返ってみたい。
註: 創立者である石井成一弁護士は、第二東京弁護士会会長、日本弁護士連合会会長、国家公安委員を歴任
された弁護士界の大御所である。
2.雪印食品牛肉偽装事件
(1)平成13年9月、日本産牛肉に牛海綿状脳症(BSE)にかかったものがあることが農水省から発表され、農水省は、BSE対策として全頭検査前の国産牛肉買い取り事業を行った。
BSE発生後、外国産牛肉は売れず在庫の山となっていた状況下において、雪印食品㈱関西ミートセンターは、外国産牛肉を国内産と偽って国内産牛肉のパッケージに詰め、農水省に買い取り費用を不正請求、取得した。
日本産牛肉より取得価格の安い外国産牛肉を国内産と偽ることにより内外価格差からの利得をも見込んだ詐欺行為であった。
事件は、1月23日取引のあった冷蔵会社の内部告発にて発覚、1月28日、朝日新聞に大きくスクープ報道され、会社も牛肉偽装を発表、翌日、社長は責任をとって辞任、食肉部門からの撤退を発表、事後、毎日「雪印」の看板を掲げた工場建物を背景にテレビのワイドショーにてとりあげられ、1、2週間内にスーパー内の「雪印」商標を付した全商品の撤去を余儀なくされ、2月22日経営再建を断念、3月30日をもって営業業務を全て終了、翌日付にて全社員解雇、4月26日臨時株主総会にて4月30日をもっての解散決議がなされた。
牛肉偽装発覚から僅か3カ月にて、52年の歴史を有し、嘱託・パート社員を含め従業員1,500名、年間売上高770億円の東証2部上場会社は、解散決議にまで追い込まれた。
(2)この事件の教訓としては、
① 内部告発から朝日新聞報道まで5日あったが、現場責任者は、あくまでも偽装を否定していたため、会社自ら偽装を公表、謝罪し、買い取り費用を返還、関係者を処罰するなどの善後策をとる機会を失し、会社はマスコミ報道の事後対応に終始するのみであった。
朝日新聞報道前に善後策をとっていれば、解散決議にまで追い込まれることはなかったと思うと残念である。
② ハウスマークである「雪印」という同一商標使用の危険性である。
問題となったのは牛肉偽装にて不正に買い取り費用を請求、取得したことである。
ところが、テレビのワイドショーにて「雪印」「雪印」と発言される毎に、商標「雪印」の商品はすべて問題であるかのように世間からは受け取られ、1、2週間内にすべてのスーパー店内から「雪印」商品の撤去を余儀なくされ、この時点で経営再建は困難と判断された。
3.雪印乳業大阪食中毒事件、雪印食品牛肉偽装事件が起きたのは、今から21~23年前のことである。
当時は、現在のような企業におけるコンプライアンス(法令遵守)やマスコミ対応の重要性は、さほど問題となっていなかった。
この事件後、企業におけるコンプライアンスやマスコミ対応の重要性が認識され、実践されるに至ったことは、両事件に関与した弁護士としてはせめてもの救いである。
次の寄稿者は、昭和37年卒 上田一成さんにお願いし、了解を得ております。
<2> H9年卒 同期会 開催報告
市原 将樹(平成9年卒)
5月19日、平成9年卒の同期会を開催しました。長いコロナ禍で、集まる機会を探っても感染者の増加に阻まれるといった状況が続いていましたが、ようやく実現しました。何年かぶりの開催とあって、遠くは茨城から仕事帰りに駆けつけるなど、多忙な合間をぬって9人が参加しました。
ご存じの方も多いかと思いますが、平成9年卒には、現バレー部顧問の宮くんがいます。(やはり「宮先生」と呼ぶのは慣れません・・)。
場所はどうしようかと思案していると、ちょうどいい機会なので新校舎・新体育館を見学しないかという提案をしてくれました。それでは、と厚意に甘えることにして、西日暮里に集まりました。
この日の時点では、正門はまだ工事のフェンスに覆われていましたが、道路からは校舎の全貌を覗うことができました。
校舎に入り「完成したばかりにしては、中は汚いなあ(笑)」などと話しながら歩いていると、教員室の前に掲示されている時間割表が目にとまりました。先生方の名前が書かれた数センチ四方の色の付いたプラスチック板が並んでいる、あれです。(写真がなく、うまく表現できません。分かりますか?)。「デジタルの時代にずいぶんアナログだな」といった感想も出ましたが、新しい校舎もよく見てみると昔を思い起こさせる部分がところどころにあって、懐かしい気持ちになりました。
もちろん体育館も訪問。エアコンが付いた、広くてきれいな体育館に、「ここで合宿をすることもできるのでは」との声も聞かれました。また、他の部活と練習が重なってもコートを2面張って効率的に練習ができるようにと設けられた、ポールを立てるための「穴」もきちんと確認して参りました。
写真:新体育館にて
左から 市原、遠藤、宮、石川、金田
そして、道路を渡って反対側の居酒屋「一合」に場所を移して懇親会です。私たちも高校を卒業してから25年以上が経ちました。医療、教育、司法、行政、報道、企業経営と、それぞれ進んだ道は違いますが、いつの間にか中堅と呼ばれるような立場になってしまいました。肩書きがつき、部下を率いて、目標の達成に知恵を絞る一方、中間管理職の悲哀や経営に携わる難しさも感じているところです。
プライベートでは子どもの進学が関心事の1つで、こんな場面もありました。「うちの子どもは受験で都内の私立S中学に入学した。バレー部に興味があって・・・」、「バレー部だったら開成と対戦することもあるのでは?」などとひとしきり盛り上がった後、遅れて到着したメンバーが「うちの子どもはS中学っていう学校に通っていて・・・」。「え??」。なんと子どもが同じ私立中学に1学年違いで通っていたことが判明。不思議な縁を感じる一幕でした。
ただ、母校への入学者は、まだいません。子どもの受験を経験したメンバーや宮くんの話によると、我々が通っていた当時より、はるかに入試が難しくなっているとのこと。果たして、この中から親子鷹、親子バレー部員は生まれるのでしょうか。
当然、部活や合宿のことも話題に上りました。「前芝荘」に「紀伊国屋」。水を飲めない前時代的な練習、夜のいたずらや先輩方の醜態。そんな話をしていると、「今度、夏合宿に行ってみようか」なんていう話も飛び出しました。なんとか実現させたいものです。
わたしたち平成9年卒は、「迷九会」と自らを称し、お正月を中心に毎年集まってきました。あるときはメンバーの自宅で、またあるときは、中村博次先生のお墓参りを計画して。家族を連れて来るときもあれば、先輩や後輩を交えて実施したこともあります。コロナ禍で開催できなかった数年間を経て、今回集まることができ、改めて、このつながりを大事にしたいと感じた次第です。
さて、ここからはOB会ホームページ運営担当の1人としてのお願いとなりますが、先輩方、後輩の皆さんも、それぞれの代で集まりがあれば、是非、このホームページにご寄稿頂ければと思います。前後の代の活躍や近況を知りたい方も多いと思いますし、新たな交流も生まれるかもしれません。よろしくお願いします。
このコーナーの原稿執筆は、リレー形式で引き継いでいくことになっています。次は、我が同期の誇る奇才で名文家の石川達大くんにお願いしています。楽しみにお待ちください。
2023年7月掲載
<1>「ミュンヘンへの道」から「ハイキュー!!」へ
清水 誠一(昭和59年卒)
記念すべきリレー・エッセイの第1号として、OB会の幅広い世代で共有できる話題を提供できればと思います。
私(1965年生まれ)にとってバレーボールとの最初の出会いは、1972年のミュンヘン・オリンピックの男子バレーの金メダル獲得です。そのオリンピックに前後してテレビで放映された、アニメと実写を組み合わせた「ミュンヘンへの道」というドキュメンタリー風の番組に小学生の私は魅了されました。そこで紹介された、全日本選手たちの世界で勝つための並々ならぬ決意と、(一人)時間差攻撃やドライブサーブなどの新しい技の開発にかけた知恵と苦闘に、ワクワクさせられました。間違いなく、開成中学に入学してバレー部に入部したきっかけになったと思います。
ただ、当時のバレーを題材にしたアニメやドラマを振り返ってみると、「アタックNo. 1」にせよ「サインはV!」にせよ、厳しい指導者のもとで、ひたすら努力で試練を乗り越えていくという、悲壮感漂う根性物語であった記憶があります。前者の「苦しくたって~、悲しくたって~」で始まる主題歌に象徴されています。同時に、中高6年間、そうした根性中心の部活に大きな疑問を持たなかった自分がいますし、卒業時にはそれをやり遂げた達成感を感じたものでした。
その後、大学、社会人では趣味としてバレーを続けた一方、度重なるルールの変更(ラリーポイント制やリベロの導入など)や、アイドルを用いた派手な演出で始まる国際試合、それでもなかなかオリンピックに出場できない全日本チームの低迷(とくに男子)を見るにつけ、一時期、バレーとの距離がどことなく離れていく気がしたものでした。
そんな形で月日は流れ、コロナ禍で自宅で過ごす時間が増えた中、動画配信サービスで、男子高校バレーのアニメ「ハイキュー!!」(原作は2011年から)に出会いました。そもそも、バレーボールの漢字表記である「排球」をタイトルにするとは随分イケてないアニメかなと思ったら、どうしてどうして、少年時代に見た「ミュンヘンへの道」に通ずるワクワク感に溢れていました。そこでは、ボールの軌道や、スパイクとブロックに跳んだときの空中での視界、フライング・レシーブをする際のぎりぎりの感覚などが、まるでコートの中でみているかのように描かれています。また、セッターのトスの球質、キャプテンの役割、ピンチサーバーの心構え、強敵に対してもフルセットを通して勝つための戦術など、高校時代に少し感じた思い、いや、当時もっと気付いておけばよかったと思うバレーの奥深さが見事に伝わってきます。何よりも主人公たちに悲壮感はなく、純粋にバレーが好きで上手くなりたいという彼らは生き生きとしています。
ちょうど、1年遅れの東京オリンピックで、男子バレーの躍動に久々に興奮した時期にも重なり、もしかしたら、こういうアニメがバレーに新たな息吹をもたらしているのではと感じたところです。高校時代からすでに遠く離れた我々のような世代も、今まさにバレーに打ち込んでいる若い世代も、ワクワクしながらバレーボールの魅力を楽しめればと思います。
次は、私の同期で、職場も長くともにし、現在は神戸の学界に転じた石賀和義君にバトンを渡します。
2023年5月掲載