会員の活躍

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ある法律家の一週間

〜バレーボール的世界観の断章〜

 

 

          龍谷大学名誉教授、立正大学客員教授
             一般社団法人 刑事司法未来代表

               石塚 伸一(昭和49年卒)

1.はじめに

 私は、1976(昭和46)年に高校から開成に入学した。いわゆる「5組」である。当時の入学定員は50人。絶対的少数派だった。フライングスタートの中高一貫に後から入学したので、初年度は一週間に10コマ数学の授業があり、物理、化学、生物、確か地理も1年で習得しなければならなかった。全国から集まった並いる秀才も、部活、とりわけ運動部に入る人は少なかった。
 私は、小学校の時、病気で1年半学校を休学していたので1年遅れて学習を再開していた。中学時代は入試で「落第」扱いをされたこともあり、いささか心も痛んでいた。拾ってくれた開成は、私にとって頑張りを適正に評価してくれるところだった。バレー部には二十人以上もの同期がいたので、レギュラー争いは熾烈だった。合宿のたびごとにチームが変わった。いろいろあった末、キャプテンは「マツ」に決まった。
 私は、当初、サイドのアタッカーであったが、1年くらいで高さに限界を感じセッターに転向した。高校の練習のない日には出身中学の練習に参加し、コーチの真似事もさせてもらった。朝暗いうちに家を出て朝練(アサレン)、2時間目の休みには早弁(ハヤベン)をして、7時間目が終わると練習、土日は試合というような日々が続いた。まさに「バレー漬け」であった。二年になると少し余裕ができた。2年の新人戦では、春高校バレーで全国準優勝した中央大学附属高校に1セット目では8対0、12対3で勝っていた。ふと次のセットのことが頭をよぎった。バレーは流れのスポーツである。心の隙間に「欲(よく)」が入り込んだのだろう。流れが変わると逆風は止まらず15対13でセットを取られた。2セット目は本来の実力であろう、大差の敗北だった。
 大学入試は不本意入学でうろうろとしたが、ようやくやりたいことが見つかり、刑事法学、その中でも刑事政策学がライフワークになった。
 2023年3月、法学部の教員を退職した。35年の教員生活にピリオドを打った。この半年は、これまでとはいささか異なる生活の軸で日々を過ごしている。以下、近況報告を兼ねて、最近の一週間の活動を紹介させていただくことにする。

 

 2.非常勤講師の時代(東京)

 私の教員生活は、法学部を卒業し、大学院の博士課程を退学した1985年4月から始まった。課程博士の学位を出さないことが慣習とされていた時代である。なんの地位も、身分もなく野に放たれた研究者の卵たちの生活は自給自足。塾の講師や家庭教師をしながら、先生や先輩に頭を下げて、大学の非常勤講師の仕事をもらう。「春のからっ風」の真っ只中であった。出身校の通信教育インストラクターや非常勤講師、先輩に紹介してもらった非常講師職で教歴をつなげ、奨学金の返済を猶予してもらう。論文を掲載してもらえるジャーナルを探すが、ことごとく一敗地に塗(まみ)れるという生活が2年ぐらい続いた。

 

 3.北九州市立大学時代(九州)

 そんなとき、人生の転換期がやってきた。北九州の公立大学で刑事政策の専任教員を公募しているというのである。指導教授から推薦があり、先輩からの話だから心して準備するようにと言われた。論文を3本、研究計画と履歴書・行政目録を整え、推薦状をもらって先方に送る。その後の出来事はよく分からないが、面接に来るようにとの報が入った。前日に新幹線で小倉に入り、午前11時からの面接に備えた。幸運なことに合格。採用の運びとなり、1987年10月に北九州大学に赴任した。
 当時、私立大学の大学院卒業者にはほとんど就職の当てがなく、とりわけ刑事政策という第3の刑事法科目(第1が刑法、第2が刑事訴訟法という解釈学科目である。)には全く就職の展望はなかった。出身校では10学年上の先輩たちが非常勤で繋いでいた。その後の第2次ベビーブームの入学定員の臨時増とその恒常化によって、「アカデミカー・アルバイトロージッヒカイト(高学歴者の失業問題)」は少し解消されることになる。
 数年で東京に戻る予定だった在九州は10年半続いた。自由で、進取を好む北九大法学部の中で、ドイツへの留学の機会をいただき、ゲッティンゲン大学では短期間ではあったが客員教授の職を兼務した。そろそろここも卒業かなと感じていた頃、京都の龍谷大学から招聘があった。

 

 4.龍谷大学時代(京都)

 龍谷には矯正・保護講座という刑事政策、すなわち、犯罪者や非行をおこなった人たちの社会復帰に関する特別研修講座があり、そこを盛り立ててくれないかというお話しである。専業刑事政策研究者のわたしにとってはどこを探してもないような最高の研究条件であった。
 
1998年、子どもが東京の中学校に進学し、帰京の準備は進めていたが、途中下車して京都での教員生活が始まった。途中下車は思いの外長く四半世紀になってしまった。その間に刑事政策に特化した研究・教育・実践を一体として行う「矯正・保護総合センター」の立上げと恒常化事業に参加した。司法改革の流れの中で法科大学院を立ち上げ、10年でそれを閉めることになった。日本初の「犯罪学」の名を冠した研究所「犯罪学研究センター」を立ち上げた。いずれも、国の文教政策の荒波を乗り越え、猫の眼のように変わる大学政策の中で、研究と教育の自由な場を確保するための試みであった。止(とど)まれば沈む。瀬戸際の勝負だったと思う。

 

5.弁護士登録(実務は宝の山?)

 その間、ロースクール(法科大学院)の教員には「実務と研究を架橋」するという新たな任務が与えられ、弁護士登録(第二東京弁護士会)することになった。主たる活動領域は刑事弁護である。港合同法律事務所という刑事弁護の親方の下で色々なことを学んだ。たとえば、通る可能性のほとんどない勾留に対する準抗告や保釈申請。ダメだったことを被疑者や被告人に伝えに行くときの憂鬱。一条の光を見ていた人を暗黒の淵に追い込むわけである。そんな気持ちを打ち開けると親分は、「しんちゃん、何を言っているの。負けたんじゃない。裁判官や検察官が正当な権利を認めなかったんだから、一緒に闘おうという団結ができるチャンスじゃない」。たしかに、有罪率99.99パーセントの刑事裁判は、敗北の連続である。負けることが見えていると諦めていては、0.01パーセントの無罪すら獲得できない。本当のプロの構えだと思った。
 
国選弁護人名簿に登録していたので、万引き、覚醒剤、痴漢、強盗、特殊詐欺、文書偽造、無免許運転など市井の事件も担当した。世間の耳目を集めるような事件では「カレー毒物混入事件」や「母子殺害事件」などの弁護団にも加わった。北九州の門司港で起きた「母子殺傷事件」は学生たちと連続傍聴し、判決確定後も人権救済や再審弁護人として活動したが、数々の問題を残しながらも執行されてしまった。死刑事件は弁護人にとっても辛い。国会閉会中の金曜日に執行されることが多い。6・7月と
12月の木曜と金曜は、午前10時過ぎまでは息が抜けない。11時を回るとホッとする。死刑弁護人に課せられたルーティーンだ。死刑再審は雪冤するか、執行かの二つにひとつである。終わりのない弁護だと言っても良い。

 

6.法学部唯々の教授(大学人のルーティーン)

 大学教員と弁護士の二足の草鞋を履くいたこの20年、仕事の重心は大学にあった。大学人としての日常は、行政(雑用)、教育(サービス)、研究(趣味)の三位一体である。報われることのない雑用に追われ、研究や教育の手を抜く人が多い。学会参加やゼミ旅行を口実に勤務地から離れることを息抜きにしている人もいる。海外研修を外国旅行だと思っている人もいる。筒井康隆の著作に『文学部唯野教授』(岩波書店、1990年)という本がある。大学の勤め人の本質を突いているとの評は言い過ぎかもしれないが、教員の主たる関心は、似たり寄ったりかもしれない。
 研究費は、「自分で稼げ」というのが今の大学の基本方針だ。わたしは、1992年から1993年のゲッティンゲン大学での在外研究のとき、受入先のハンス=ルートヴィッヒ・シュライバー教授は学長職を務められていた。そこで学んだことは、大学の研究室は研究職の人たち工房であり、研究は共同作業であることである。正教授は、研究費を稼いできて、若手の研究者やその卵たちの研究場を確保する。「一人でやるのが勉強。チームでやるのが研究」というスタンスだ。研究者である以上、自己陶冶のための勉強は当然である。さらに加えて、研究助成の申請や事務処理は研究者としての勤めであり、雑用などではない。教育には、基礎知識の提供と専門研究の指導があり、研究分野の後継者の育成という目的もある。そのためには、常に最新の情報とトレンドに精通し、そして将来の展望を示す必要がある。だから、内外の学会や会議に参加し、自らも研究成果を報告し、志を同じくする同僚たちとの交流を深める。気力と体力のいる生業である。研究者になりたいという学生には、ます、「やめなさい」ということにしている。

 

7.刑事司法未来での半年(代表は辛い)

 この4月からは、弁護士活動、犯罪学・刑事政策学の後継者の育成、そして市民的活動に活動の軸を移すことにした。
 この一週間はこんな感じである。月曜「大学院で授業」(大崎)、火曜「定期検診」(御成門)、「地方検察庁刑事確定訴訟記録閲覧」(岐阜)、水曜「安全・安心街づくり委員会」(京都)「弁護団会議」(zoom)、木曜「上告趣意書提出」(郵送)「助成申請作成会議」(深草龍谷)、金曜「健康診断」(深草龍谷)「弁護団会議」「メタバース模擬裁リハーサル」(zoom)、土曜「開成白組クラス会」(新宿)、日曜「被告人質問準備」(高輪)などなど。
 この間、4月「薬物政策シンポジウム」(台湾)、5月「ドイツ刑法学会」(フランクフルト)、8月「タイ薬物政策調査」(バンコク)、9月「ワークショップ&リリース日本の死刑と再審」(ベルリン)、同月「第23回ヨーロッパ犯罪学会」(フィレンツェ)に海外出張で出かけた。立正大学や沖縄国際大学で講義を持たせていただいた。いくつかの場所で市民の方にお話させていただく機会もいただいている。
 活動の拠点は、高輪の柘榴坂にある刑事司法未来(CJF)である。2021年2月に立ち上げた一般社団法人で、日本の刑事司法の未来を担っていく人たちの支援を目的としている。キーワードは、犯罪学・刑事政策、社会的孤立回復支援、法教育などである。本年度は、特に、犯罪学・刑事政策の学びの場としてポットキャスト「丸ちゃん教授のツミナハナシ」の放送と「高校卒業までにすべての人が裁判を体験するための「メタバース模擬裁判」の開発に力を入れている。刑事司法未来のホームページをご参照いただきたい。
 わたしたちにとって、この一歩は小さな変化かもしれない。将来、「この一歩は日本の刑事司法にとって偉大な飛躍だった」と言われることを夢見て今日も奔走している。

 明日は前橋で公判です・・・。
                                
 2023年10月11日 

2023年11月掲載

2023年 荒川区大会参加記

令和2年卒 小川 修平

 202372日、私にとっては、大学生活の一つの顔にもなってきた、OBチームでの大会の出場でしたが、今年は夏季大会に進出ということで、荒川区オープン大会に出場してきました。

 なんと、筆者(小川)の誕生日翌日ということで、前日(当日?)かなり羽目を外してしまった私は、メンバー表とユニフォームを携えたまま、まさかの遅刻、なんとか受付を代わりに済ませていただくところから今大会は始まりました。
 
区大会ですから、みんな荒川区近隣に住んでいることを想定されているため、荒川スポーツセンター八時半、は我々にとっては実はかなり大変なんです。

■第一試合 荒和会OB

 第一試合は、過去の区民大会でも何度か当たっている主催者のチームです。年齢は親以上に離れているようなチームですが、我々は前回大会で得失点差で敗退しているため、得失点差の重要性を痛感しています。初戦から気を抜かずに行きます。
 
第一セット、我らがエースの中島先輩が躍動します。サービスエースを5本奪い、25−7で第一セットを取ります。
 
第二セットは、メンバーを変えながら、トスを合わせながら、それでいて、しっかり取り切ることを目標に臨みます。しかし、相手も昨年から若い選手が加わり、食い下がってきます。
 
最終的には25−14でセットを奪い、2−0で勝利しました。 

 今大会も一次リーグが二つあり、その一位同士での決勝というレギュレーション、開成チームの入ったリーグは5チームリーグということで、総当たりではなく、二試合ずつの結果で勝敗が決まります。そのため、今大会も得失点差の勝負になる可能性が高いということで、他の試合も目を離せません。 

■第二試合 江北倶楽部

 第二試合は江北倶楽部、江北高校のOB会のチームのようです。江北高校といえば、現役時代に何度か練習試合をした相手、顔見知りというほどは親しくはなりませんでしたが、チーム名に懐かしさを感じます。
 
第一セット、相手のセンターが左利きという、少し変わったチームではありましたが、遅れて登場した橋本の活躍もあり、第一セットを25−14で先取します。
 
第二セット、まさかの筆者(小川)がセッターとして出場します。得失点差に余裕があることもあり、練習不足は否めませんでしたが、非常にいい思いをさせてもらいました。このセットも、私のトスが暴れ回りますが、どうにか25−21で取り、試合に勝利、2連勝で決勝進出をほぼ確実にします。 

■決勝 ガチャピン

 決勝戦の相手は、ガチャピン、ユニフォームのデザインが某フジテレビのキャラクターそっくり、そしてなんといっても、前回区民大会の優勝チームです。
 
前回大会の時はしぶとく繋ぎながら、とても速いトスを叩いてくるチームでしたが、スパイク練習を見ていると、なんだか今年は非常に攻撃的なチームのようで、我々のように毎年メンバーがかわっているのかも知れません。

賞状と景品、特別に優勝景品のボールを

開成チームももらいました。

 第一セット、いきなりブロックアウトで相手にブレイクを許すと、相手のサーブが開成コートを襲い、20−25で落とします。それでも、セット終盤にはブロックに光明が見えるなど、次のセットに望みをつなぎます。
 第二セット、第一セットにつかみ始めたブロックが機能しだすと、橋本のライト攻撃が面白いように決まり始めます。センターにも効果的なスパイクが決まり、このセットを25−16で取り返し、勝負はファイナルセット、十五点マッチに持ち越されます。
 第三セット、序盤からお互い点数を取り合い、中盤までは非常に拮抗したゲーム展開となります。しかし、コートチェンジを挟んで相手にブレイクを許すと、その差をひっくり返すことができずに、10−15で落とし、セットカウント1−2で敗戦、準優勝となりました。 

 閉会式では、開成の参加を久しぶり、と言っていただき、そして今後もぜひ出場してほしい、というお言葉をいただき、そして決勝の悔しさもあり、11月の区民大会でのリベンジを強く誓いました。

                    2023年7月掲載

上段左から、正本(R5)、橋本(R3)、能丸(H 31)、會津(R2)、王(H 28

下段左から、今川(H 29)、桃井(H 28)、小川(R2)、前川(H28)、中島(H29

2022年 OB現役交流会報告

令和3年卒 高校バレー部コーチ 中西 泰晴

 年の暮れも1227日、高校バレー部ではOBチームとの交流試合が行われました。Aチーム、Bチーム共に3ゲームずつOBチームと対戦し、結果はOBチームの全勝となりました。現役の時よりも卒業後の方が様々なプレッシャーから解放され、バレーが上手になるというのは開成バレー部においてよくある話ではあります。そのため、今回OBに負けたという結果ばかりに気を取られるのではなく、試合の中身をよく振り返ってほしいと思います。特にAチームではサーブでの崩しや攻撃の組み立てなどの面で前回と比べてまた更に成長が見られました。OBチームとの試合の中では、普段の相手とは違うプレーが色々とあったかと思います。ぜひ現役の皆さんは今まで気づけていなかった自分たちの傾向を見直す良い機会にしてみてください。 

 また、現在高2の現役生たちは1月末の新人決勝大会で引退の予定となっています。例年に比べて早めの引退となりますが、これは運動会での重役(組責、チーフ等)が多いことが主な理由のようです。これまで開成バレー部は代々運動会期間中も忙しい中バレーとの両立を頑張る部活でしたが、新型コロナウイルスの影響も相まってここでもある種の転換点を迎えているのかもしれません。 

 OBの私からの意見としては、新人決勝大会を終えた後にもう一度関東大会までバレーを続けるかを話し合っても良いかと思いますが、いずれにせよここからは開成生として学校生活で一番重要な時期に差し掛かってくるので、よく考えた上で決めてほしいと思います。とにかく、今はあと1ヶ月ほどバレーだけに集中できる貴重な期間を一日一日大切に過ごしてほしいと思います。

2023年2月掲載

2022年荒川区民大会報告

令和2年卒 小川 修平

今年も荒川区民大会の季節がやってまいりました。(まだ二年目ですが…)

20221127日、今年も若手のOBの皆様方7名にお集まりいただき、出場してまいりました。

会場に着いてみると、なんとなく昨年よりも賑やかな感じがしました。コロナ禍で一度は下火になったものの、再びチームが増えてきた、と言うことのようでした。よくよく周りを見てみると、昨年見た顔もチラホラ、今年こそは決勝、と決意を新たに試合に臨みます。のはずが、なんと、試合球を勘違いし、現役から別の種類のボールを借りてきてしまう痛恨のミス、少し落ち込む小川でした。

さて、気を取り直して一試合目。スターティングメンバー(敬称略)は、レフトに平井、赤津(ともに平成31年卒)、センターに會津(令和2年卒)、王(平成28年卒)、ライトに小川(筆者)、セッターに安部(平成23年卒)、リベロに前川(平成28年卒)で挑みます。

相手はチームあまちゃんず、3〜40代のチームですが、スパイク練習ではセンターから鋭いスパイクが飛び、我々は身構えます。

しかし第一セット、相手の執拗なブロックと粘り強いレシーブに苦しめられますが、レフトの赤津、平井両先輩のコースを突くスパイクで相手のセンターエースを封じ、さらには私、小川のサービスエースもあり、25-23で辛勝します。ちなみに余談ですが、赤津先輩はバレーボールをするのが半年ぶりだとか。ブランクを感じさせない動きに唖然とさせられます。

続く二セット目。感覚を取り戻した先輩方の活躍もあり、25-21で危なげなくセットを取り、勝利を収めました。しかしながら、相手チームのつなぐバレーには苦しめられました。この区民大会は社会人のチームも多く、他の試合でも名ラリーが数多く生まれていました。

と、ここで、中山先輩(平成24年卒)が到着され、チームは8名に。脚が攣りそうだった小川がホッとしたのは内緒です。

二試合目は、チーム平和会。昨年同じリーグに所属しながら対戦機会のなかったチームでした。スターティングメンバー(同敬称略)は、レフトに平井、中山、センターに會津、王、ライトに小川、セッターに安部、リベロに前川で挑みます。

この時点で、すでにリーグ戦を全勝したチームがおり、我々が決勝に進むためには勝利はもちろんのこと、点差も必要でした。

そして迎えた第一セット。ここまで打数の少なかったセンターで會津がオープンスパイクを打ち始めると、面白いように決まりだします。なんだかハイキューの烏野対音駒のようですね。會津に引っ張られるようにチームも勢い付き、前川先輩を中心とした粘り強い守備も光り、このセットを25-15で奪います。

第二セット。得失点差を考えるとここは相手を10点台前半に抑えておかなければいけないところでした。しかし、相手の長いコースを狙うサーブと、強固なレシーブを前に、効果的な攻撃をしきれず苦戦し、競り合う試合展開になります。ここで活躍したのは、王先輩、會津の両センターでした。サーブで崩し、ブレイクをもぎ取ります。さらに、中山先輩のブロックの上から叩くスパイクがさく裂し、このセットを25-19で勝利、二連勝となりました。

以上でリーグ戦を終了し、開成OBチームは、2勝0敗も得失点差で敗退し、同率の3位と言う結果に終わりました。我々が得失点差で敗れたチームは決勝に勝利し、優勝していたため、なんとも悔しい3位でした。

今大会、小川の選ぶMVPはここで初登場、セッターの安部先輩です。2試合4セット、堅実に打ちやすいふわっとしたトスを上げ続ける姿はセッター見習いの身として非常に勉強になりました。

今回で二年目となる荒川区民大会ですが、今回もたくさんの先輩にご参加いただき、とても楽しいものでした。

この大会やOBチームの話を大学などで友人にすると非常に羨まれることが多く、開成バレー部のOB会の結束の強さを実感しました。

さて、私も来年には大学四年生です。そろそろ増えてきた後輩OBとも大会に出たいと思ったり、もっと上の年次の先輩とバレーしたり飲んだりしたいと思ったり果ては社会人と大学生と2チームで出場するのも、と夢は膨らむばかりです。あと一年でどこまで実現できるか、非常に楽しみです。

末筆となりますが、今回の荒川区民大会出場にあたって、さまざまなサポートをいただき、総会や年度幹事会での宣伝の機会をいただきました、OB会長松原先輩をはじめとする執行部の皆様、手続き面や大会運営とのご連絡を担ってくださいました大内先輩、費用面について援助いただきました会計の金田先輩、他にもたくさんの先輩方に温かいお言葉をいただきました。
諸先輩方へ厚く御礼申し上げます。

2022年12月掲載

選手集合写真。左上から、王(H28)、會津(R2)、安部(H23)、中山(H24)、左下から平井(H31)、

小川(R2)、前川(H28)、赤津(H31)(敬称略)

講演:『私の履歴書;自動車における安全技術の進化と深化 
    百年に一度の大変革も〇〇から

神奈川工科大学 創造工学部教授 井上秀雄(昭和49年卒)

講演風景

OB会総会での初めての試みとして、今回昭和49年卒の井上
秀雄さんに講演をお願いしました。内容は以下の通りです。

1.交通事故死傷者ゼロに向けて
2.衝突安全
3.予防安全
 -VCS(横滑り防止)-PCS(衝突回避)
 
-運転支援(ADAS)等
4Intelligent Safety
 -自動運転/運転知能、リスク予測制御、
 
人間機械協調制御Sイノベ)
 -DIVPプロジェクト(仮想空間での自動走行安全性評価環境の構築)
5.まとめ

産・学における豊富な経験を動画を交えて分かり易く説明していただき、聴者に大変好評でした。熱演で予定時間を超過し、幹事がはらはらする場面もありました(笑)

ご厚意により講演の際の資料の抜粋をいただきましたので、以下に掲載いたします。

2021年荒川区民大会報告

令和2年卒 小川 修平

八月某日、かつて荒川区民大会に若手O Bで出場していたことがあった、今年、再び出場してみないか、大内先輩(H 14年卒)からこのようなお話をいただきました。

これは面白そうだ、ということで、そこからO Bの先輩方に声をかけて、お忙しい中、平成24年卒から令和2年卒まで計9名の先輩にお集まりいただきました。

大会に申し込むという経験はなかったので、初めてのことだらけで戸惑うこともありましたが、大内先輩初め、後輩の李君にもご協力いただき、無事に出場することができました。

当日体育館についてみると、若いチームもありましたが、自分よりも親の方が年齢が近い、あるいはそれより高いチームもあって区民大会の一般男子部門という、経験したことのない雰囲気を感じました。

一試合目は、Z E R O  V Cという、自分達と同じような年代のチーム、しかも何やらみたことのある顔…(後で聞いてみたら、自分が現役の時に練習試合をしたことのあった東京成徳高校の現役とO Bの混合チームだったようです)。

第一セットは、酒井先輩(H27年卒)のビッグサーブも飛び出し、幸先よくセットを奪います。しかし、第二セット、私小川のトスが緊張からか、乱れ出します。相手のサーブもなかなか切れずに、第二セットを落とすと、勝負は最終セットにもつれます。第三セットも悪い流れを断ち切れず、福田(H27年卒)、酒井両先輩の奮闘も、13–15(特別ルールにより第三セット15点マッチ)で惜敗しました。

二試合目は、荒和会O Bというチーム、どうやら主催者団体のチームだったようです。選手たちの年齢層はどちらかというと、孫がいそうなお歳のチームでした。この試合では、せっかくなら楽しもうということで、ほぼ全員が普段やったことのないようなポジションで出てみようということで、ポジションを全てシャッフルして臨みました。しかし、流石の年の功というべきか、苦戦させられます。相手の足の長いスパイクをうまくあげられず、僅差の勝負となりました。最終的には、本職ではないとはとても思えない先輩方の活躍により、一セット目を奪取します。二セット目も同じような試合展開でしたが、無事に勝利を収め、通算成績一勝一敗で大会を終えました。

試合結果としては、二つあったリーグ戦の一方で4チーム中3位ということで、全体では6位という結果に終わりました。大学生主体というチーム構成にあっては、もう少し高い所へ行きたいところでしたが、決勝戦への進出、優勝は来年以降への宿題ということにしたいと思います。

一度もチーム全体で集まって練習することなどはなく、完全に急造チームでありましたが、先輩方の貫禄あるプレーに何度も助けられ、やっぱり先輩はすごいなあと思ったり、あるいはもっと年齢層の高い他チームの人たちが元気にバレーをやっているのをみて、大人になってもバレーを続けられたら楽しいだろうなあと思ったり、非常に楽しい大会でした。

自分の卒業以後、コロナの関係でO B会が開かれなかったり、体育館の建て替えで現役の部活が外部施設での実施となりなかなかコーチ以外のO Bが練習に行きづらかったりして、あまり開成バレー部のO B会というものに実感を持って触れられていなかった中でしたが、自分が開成バレー部のO B会の一員であることを実感する機会となりました。また、お集まりいただいた先輩方の中にはお子さんがいらっしゃる方もいたり、広い年代間で試合に出ることの面白さもありました。(緊張と稚拙なプレーで足を引っ張りまくりましたが(汗))

今回は9人の出場にとどまりましたが、来年以降はより広範な年代のO Bの先輩方や現役の顧問の先生方などにお声がけして規模が広がることや、また今回とりあえず開成感満載で登録したチーム名をどうにかしたり、あるいは無観客が緩和されるなど、もっと賑わうことを願っています。

最後になりますが、お話をいただいてさらにエントリーの段階で様々にお手伝いをいただいた大内先輩、そして後輩ながらサポートをしてくれた李君、ユニフォームや出場料等金銭面の融通をしてくださった金田先輩や、お忙しい中試合に出場くださり不手際だらけの手配にお付き合いいただいた先輩方に深く御礼を申しまして、区民大会の出場報告とさせていただきます。

2021年12月掲載

選手集合写真(敬称略、括弧内は卒年)

後列左から、王(H 28)、酒井(H 27)、福田(H 27)、前川(H 28)、中山(H 24

前列左から、藤本(H 29)、小川(R2)、會津(R2)、今川(H 29

トスをあげる酒井さん
(本当にセッター初めてですか?)

スパイクを打つ福田さん(スーパーレシーブを撮りそびれてすみませんでした!)

スパイクを打つ今川さん
(うまく撮れました!)

サーブを打つ會津さん
(同期がいて助かりました!)
ラストポイントのスパイクを打つ小川さん
(もっとがんばりましょう?)

私とバレーボール その5

昭和44年卒 片野 昭秀 

 前回の投稿から半年たってしまいました。その間新型コロナウイルス感染の蔓延、その中でのオリンピック、そして小学生バレーボールでは感染防止対策を施しながら如何に大会を無事に開催するかで知恵を絞りました。(執筆をサボってしまった言い訳です…。)

さて、本題に入ります。

 こんなルールがあるんだ 

 ブロックの反則の中に「アンテナの外側から、相手空間内のボールをブロックしたとき」とあります。長いことバレーボールに携わっていますが適用されたことを一度も見たことがないルールです。

 どのような状況か想像してみてください。

 Aチームのトスが流れアンテナの外側にいってしまいました。そのボールをBチームに返球したときにBチームがアンテナの外側でオーバーネットをしてブロックをしたという状況です。この場合たとえブロック後のボールがAチームのコート内に落ちたとしてもBチームのブロックの反則になるということです。Aチームから返球されたボールはそのままにすればアンテナの外側を通過するのでAチームの反則になるプレーです。

 ではどうしてこんなルールがあるのでしょう。それはそんな馬鹿げたことをするなと戒めのためということです。

  そんな馬鹿げたことがある?

 馬鹿げたことというと以下の事例はある試合で実際に起きたことです。

 相手チームの3回目の接触後のボールはオーバーネットしてブロックしてよいということは以前触れました。この試合中に、Aチームの3回目の接触後のボールがネット近くにきましたがとてもBチームのコートには届きません。ところがよりによってそのボールをBチームの選手がネット越しにブロックしたところ、あきらめずフォローに入っていたAチームの選手の手にあたりました。これはAチームの1回目の接触となります。その後トス、スパイクと続きAチームのポイントとなりました。Bチームの選手のブロックにボールが触れなければボールはそのままAチームのコート上に落ちBチームのポイントとなるはずだったのに余計なことをしたために折角のポイントを失ってしまいました。こんな馬鹿げたことも起こり得ます。  

 笑ってしまう話

・審判台上で選手からボールをぶつけられた。

 大学の試合でのことです。勿論ワザとではありません。トスが大きく流れてしまいサイドラインから離れ審判台の後ろまで来ました。レフトのスパイカーは大きく回り込みそのボールを無理な体勢からスパイクしました。位置が位置ですから相手コートを狙ったはずのボールは審判台上にいる私めがけて一直線、狭い審判台上では逃げようにも逃げられないしそんな余裕もありません。見事私のお尻に命中、痛かったぁ。(笑)
 

・試合中に後ろから肩を叩かれた

 日本リーグ(現在のVリーグ)での出来事です。ブロックにあたったボールがラインズマンをしていた私のはるか後方まで大きく跳ねそれを追いかけていった選手が見事にそれをつなぎラリーが続いていきました。私は選手の邪魔にならない様に逃げた後定位置に戻りました。次の瞬間いきなり後ろから肩を叩かれたのです。試合中のことなのでびっくりしました。なんとボールを追いかけていった選手がコートに戻っていく途中私の肩に触れて行ったのでした。コートに戻る選手にはボールは眼に入っていても小さい私は間近に来るまで眼に入らなかったようでした。(笑)
 

・副審が消えた

 大学男子1部リーグ、観客も大勢入っている試合での出来事です。

 ラリーが終わり副審を見ると見慣れない学生が笛を片手に立っているではありませんか。当の副審は私の方に歩み寄ってきます。何事かと思うと当人曰く「腹が痛くなってしまった。トイレに行かせてくれ。あの学生にあとは頼んだから。」と言ってその場を離れトイレに消えました。まさか学生に副審をさせ試合を続けるわけにもいかず、仕方なくレフェリータイムアウトをとりしばらくした後本人は帰ってきました。「いいぞ!○○〇レフェリー!」「気持ちよかったですか!」会場にいた学生たちは本人が帰ってくるなり大喜びで、からかうことからかうこと。あってはいけない出来事でした。(○○〇には排泄物を表す言葉、ひらがな一文字ずつが入ります)(笑)

 

 連載の最後に 

 私の考える他のスポーツにはないバレーボールというスポーツの持つ素晴らしさについて触れたいと思います。

 ナイスプレーをしたときの賞賛、ミスプレーをしたときの激励を間近でお互いの肩をたたき合い、お互いの手に触れながらできる、それがバレーボールというスポーツの持つ素晴らしさだと思っています。

 他のスポーツではどうでしょう。

 野球の場合、ナイスバッティングをした選手はホームランを打った場合を除きベンチからはるか遠くのベース上にいます。ナイス守備をした外野手は遥か遥か遠くにいます。内野手は外野手よりは近いと言っても9人全員が手の届くところにはいけません。サッカーはシュートが決まった時は全員で賞賛できます。それ以外は全員で賞賛・激励という訳にはいきません。そんなことをしていたらたちどころに逆襲にあいます。バスケットボールはサッカーよりコートが狭く選手同士近くにいるのでファウルがあった時は可能ですがワンプレーごとに全員が集まれません。卓球、テニス、バトミントンはできるといっても二人だけです。

 そのように考えるとバレーボールだけが、試合中コートにいる全員が一つになり肩を叩き合い手を触れ合いながらお互いを誉め励まし合って進めていけるスポーツです。それがバレーボールというスポーツの他のスポーツにない特性でバレーボール独自の素晴らしさと思っています。 

 5回にわたって連載させていただきましたが、今回でひとまず終わりにさせていただきます。ダラダラとした拙文をお読みいただき有難うございます。 

 これが掲載される頃には現役高校生新人大会の結果が出ているでしょう。高体連のHPによると、3日目は開成の新体育館で行われるとのこと。新体育館のお披露目記念で何としてもシード権を勝ち取り関東大会出場へ向けて弾みをつけて欲しいです。私たちも早く新体育館をこの目で見たいものです。

2021年11月掲載 

東京オリンピック体験報告

                                平成11年卒 楓 淳一郎

平成11年卒業の楓です。この度、東京オリンピックのバレーボールにラインジャッジとして参加してまいりました。応援してくださった開成バレー部卒業の皆様方へ感謝の意を込めまして、以下にご報告させていただきます。

720日に品川プリンスホテルにチェックインするところから、私のオリンピックが始まります。受付で「楓様、2021日ですね」と告げられて覚悟が決まりました(笑)

最初の数日はウェアの受け取りやリハーサルを行い、いよいよ24日からは10日間のグループリーグ戦です。ラインジャッジは全部で27名、それを3グループに分けて、朝番(12試合目)、中番(34試合目)、遅番(56試合目)と一日ずつローテーションしながら担当します。遅番の場合、6試合目終了が深夜1時を過ぎることも多く、その後に翌日のネット設営、有明アリーナからホテルまでの送迎バス45分、その後に入浴や洗濯…となると、就寝が3時を過ぎます。国内にいながら時差ボケという状況で、なかなか辛いものがありました。(決勝トーナメントに入って試合数が減ると徐々に生活のリズムも戻りましたが)

試合はいずれも見応えのあるものでしたが、私が担当した中で印象深いのは、81日男子日本vsイラン戦です。日本がフルセットの激闘を制し、29年ぶりのベスト8進出を決めた試合です。以下からご視聴いただけます。私は画面左下でエンドラインを担当させていただきました。

https://sports.nhk.or.jp/olympic/highlights/content/b4f706a5-ddf5-468f-8836-db67e5fe8662/

試合後の1枚:左から二人目

コロナ対策のため体育館との往復以外は外出禁止で、コンビニに買い物へ出ることもできない、いわゆる「バブル方式」の生活でした。3日目には早くもホームシックになりましたが、閉会式翌日の89日にチェックアウトするまで、終わればあっという間の3週間でした。コロナ禍での開催となり様々な思いが交錯したオリンピックでしたが、無観客の寂しさはあっても、改めてスポーツの持つ魅力やバレーボールの奥深さを体感することができました。故中村先生には遠く及びませんが、何とか務めを果たせたものと安堵しております。1964年の前回大会での思い出を何度も聞いて(聞かされて?)いたからこそ、「東京2020」を目指すモチベーションができたものと思います。改めて天国の中村先生には深く感謝申し上げます。そしてA級審判員を目指す中で道に迷いそうな中、激励し導いてくださった片野先輩にも厚く御礼申し上げる次第です。恩返しには足りませんが、今回の経験を後進にも伝え、開成の後輩たちにも何らかの形で還元できたらと考えております。

結びとなりましたが、このような報告の場を設けてくださったOB会の諸先輩方に深く感謝申し上げるとともに、開成学園バレーボール部の益々の活躍を祈念いたします。この度は誠にありがとうございました。

追伸

私がラインジャッジを担当した中で、非常に思い出に残っている試合をご紹介させていただきます。

2014春高女子決勝「九州文化学園vs東九州龍谷」 ※楓は画面右下

https://www.youtube.com/watch?v=2uDf7mx58bU

九文のエース田中瑞稀(現JT)の魂のスパイクと東龍の繋ぎに心が震えました。フルセットのデュースという激闘でしたが、「5セット目って何点で終わりだっけ?」と分からなくなってしまう、春高屈指の名勝負です。これぞバレーボール、胸が詰まる極上のラリーをぜひご覧ください。

2021年9月掲載

東京オリンピック

                                平成11年卒 楓 淳一郎

 私事ではございますが、東京オリンピックにラインジャッジとして参加する予定です。720日~89日の間、有明アリーナと品川プリンスの往復のみで外出不可と生活には大幅に制限がありますが、約3年の研修や英会話のトレーニングの成果を発揮したいと思います。また、勤務先である佼成学園女子高校のバレーボール部員たちも、コートアシスタントとして参加させていただく予定です。

思えば、故中村先生は前回のオリンピックでのラインジャッジの逸話をよく語ってくださいました。57年の時を超えて恩師と同じ東京オリンピックでレフェリーをできることに運命を感じています。在学中は先生に迷惑をかけてばかりの私でしたが、これもご供養と思い、誠心誠意、務めたいと思います。

レフェリーの大先輩でもある片野さんに見守られながらバレーを続けている我が子たちも含め、「バレーボール」が繋ぐ浅からぬ絆を感じる毎日です。開成バレー部卒業の名に恥じぬよう、また故中村先生、そして片野先輩のご指導に報いることができるよう、オリンピックとその後の審判活動に精進してまいります。開成学園、そしてバレーボール部のさらなるご活躍をお祈り申し上げます。 

あいにくと私がラインジャッジ中の良い画像がありませんでしたので、代わりに私がラインジャッジを務めた試合の中で一番印象に残っているゲームの動画URLをお知らせいたします。

 2016年リオ オリンピックの女子最終予選、日本vsタイの試合です。フルセットの末、レッドカードが2枚出て日本が逆転という壮絶な試合でした。国際大会の魅力を改めて感じていただけるゲームだと思います。

 私は画面右上、エンドラインを担当しています。

 

  https://www.youtube.com/watch?v=k5W8B5k5PCk

 2021年7月掲載

私とバレーボール その4

昭和44年卒 片野 昭秀

前回の投稿後某OB会員から以下のような返信をいただきました。

「そういえば私たちが現役の時の三人レシーブで打ち手の片野さんのボールがすごくスナップが効いて当たりそこねがなく、少し当てるだけでキレイにあげることができたのを覚えています。コントロールも抜群でした。」(無断で引用しました。悪しからず) レシーブ練習をする際選手に気持ちよくさせることが非常に大切です。ミートよくしっかりとドライブ回転をかけてボールを打つとレシーバーの手に当てただけでボールは気持ちよく上がっていきます。嘗てそれを感じ取っていただいていたことが分かり大変うれしく思います。レシーブ練習の際、打ち手はそこを意識してボールを打たなければなりません。自分の思ったままにレシーブしにくいボールをレシーブできないところに打っていたらレシーバーの上達はありえません。 

さて、本題に入ります。今回はスパイクとアタックの違いから始まります。

 通常私たちはスパイクもアタックも、相手コートに向かいボールを強く打つ動作のこととして同じ
意味で使っています。ですが、ルールブックには「サービスとブロックを除き、ボールを相手チームに送るすべての動作はアタックヒットとみなされる。」とあります。アタックとアタックヒットと言葉は似ています。ルール上のアタックヒットは、レシーブしたボールが相手コートに向かって飛んで行ってもラストボールをパスで返してもどちらもアタックヒットとなります。

 次に、バレーボール競技の特性で試合の目標は、と聞かれたら何と答えますか。ルールブックには
以下のように書かれています。「相手コートにボールを落とすために、ネットを越してボールを送る
こと、そして相手チームの同様な努力を阻止すること。」普段何気なくプレーしていますが文章にするとこうなるわけです。

このようにルールブックを読んでみると案外知らないことが多々出てきます。今回はその辺りを話します。

 

 サービスを、投げたり片手にのせたまま打ったりしてはいけないか?

 サービスの実行という項目がありそこには、「ボールがトスされたか、手から放たれ後、片方の手
または腕のいずれかの部分で打たなければならない。」とあります。では、なぜいけないのでしょう。バレーボールではボールを明瞭にヒットしなければなりません。ボールをつかむことや投げることは
明瞭にヒットすることに反します。従って投げたり片手にのせたまま打ったりしてはいけないのです。

 つかんだり投げたりしてはいけないのですが、ラリー中にそれに似たプレーが出現し許されている
プレーがあります。さて、どんなプレーでしょう?それは相対するチームの2人の選手がネット上で
同時にヒットした場合です。この場合ボールへの接触が長引くことがあったりボールが止まってしまったりすることがありますがそのままプレーは続行されます。ボールをレシーブするチームには3回の
ヒットが許されます。従ってボールがアウトになれば反対側チームの反則になります。

 3回ボールに触れた後とても相手コートには返せないと空中にあるボールをつかんでしまいました。キャッチ(ホールディング)の反則になるのでしょうか。この場合は持つ前に触るのが先ですから
フォァヒット(オーバータイムス)の反則になります。持ってしまったのが1回目、2回目、3回目
ならば当然キャッチの反則です。

 

 ネットタッチorタッチネット、どちらの言い方が正しい?

 ラリー中に相手チームの選手がネットに触れた時ネットタッチを縮めて「ネッチ!!」と思わず叫びますね。ですがルール上は、タッチネットが正しい言い方です。

さらに、

・「ボールをプレーする動作中の選手による両アンテナ間のネットへの接触は反則である。」

・「相手チームのプレーを妨害しない限り、選手は支柱、ロープ、またはアンテナの外側にあるネットや他の物体に触れてもよい。」

・「ボールがネットにかかり、その反動でネットが選手に触れても反則ではない。」

とあるようにネットに触れたからと言ってすべて反則になるとは限りません。また、タッチネットの
反則になるのはアンテナ間の網目の部分ということです。

 

 ブロックだったらどんな場合もオーバーネットして相手チームにあるボールに触れていいの?

 ブロックとは

・ネットより高い位置で、

・相手チームから来るボールを、

・ネット近くで、

・阻止する。

この4つの条件を満たす動作をブロックと呼び、加えてブロックの試みが必要です。そして、
ブロックの試みとはブロックの動作でボールに触れないものです。さらに相手チームのアタックヒット後ならばネット越しに相手チームにあるボールに触れてもよいことになります。

 条件の一つに相手チームから来るボールとあります。自分たちに向かって来るボールならばオーバーネットしてブロックしても構いません。向かって来るボールですからネットに平行なトスやパスは
オーバーネットしてのブロックはできません。ただ3回目の接触後は必ず相手に返球しなければなりませんからオーバーネットしてブロックしてよいとなります。

例を挙げると、ネットから離れた位置でネットに向かいトスを上げました。タイミングが合わず
スパイカーが空振りをしました。空振りの後ブロッカーがオーバーネットしてブロックをしました。
この場合相手チームから来るボールなのでオーバーネットしてボールに触れてもよさそうですがここに一つ条件があります。トスしたボールは2回目の接触なのでもう一度プレーできます。スパイカーの
陰にフォローに入ったプレーヤーがいてその選手がまだボールに対してプレーできる状況の場合、これはオーバーネットしてボールに触れたら反則になります。状況判断が難しいところです。

また、私のような低身長者、いや高身長者であっても、ネットから離れたネットより低い位置で相手コートからくるボールに触れた場合その動作がブロックらしいものでもこれはブロックとは言わず
レシーブとなりその後2回しかボールに接触できません。

 

35年ほど前に日本バレーボール協会公認A級審判員資格取得講習会を受講しました。その時に
ルールブックを隅から隅まで読み深め条文をすべて暗記しました。大分忘れてしまいましたし、その
当時とルールが変わったところもありますが大筋においては変わりません。

 

今回はここまでにしてもう少し続きます。

2021年6月掲載

私とバレーボール その3

昭和44年卒 片野 昭秀

 今回はスパイクについて書いてみようと思います。 

 私が子供の頃、東京体育館等で試合が行われ選手が退場した後一般観客がコートに入ることができました。そして何をするかというとほとんどの人間がネット近くでスパイクを打つまねごとをします。そこでサーブレシーブのまねごとをする人間はまずいません。バレーボールを始めたものにとって豪快なスパイクを打つことは誰しも憧れるものです。私も同じでした。ネットの上からスパイクを打ちそれが相手のコートに突き刺さり得点する快感。何度も夢に見ました。ですが中学入学当時身長130㎝のチビにはスパイクの練習をさせてもらうことはありませんでした。高校時代も同様でした。自分にはスパイクを打つことはあり得ないと思っていました。それが大学に入り仲間と話をするうちに、将来的にバレーボールに関わっていくのならスパイクの一本も打てるようになろうと思うのは自然の流れでした。

 スパイクを打てるためにはネットの上ボール2個分まで届くことが最低の高さです。ネットの高さが243㎝、ボール1個の直径が21㎝、従って最高到達点285㎝が必要です。私は背が低いのみならず腕も短く指高は200㎝、従って85㎝ジャンプしなければなりません。一口に85㎝と言いますが当時の私は垂直飛び50㎝、ランニングジャンプ70㎝がいいところ、全く届きません。そこで目標として目を付けたのがバスケットボールのバックボードでした。バックボードの下までの高さが290㎝、ここに届けば目標クリアとしました。科学的なトレーニング方法がまだ紹介されていない時代です。とにかくぴょんぴょん跳ねていました。目標達成はかないませんでしたが285㎝前後には届いたと思います。

 実際にネットに向かってスパイクを打つのは、練習の前後に行いました。ここで助かったのは周りには将来バレーボールを教えたいと思っている人間が何人もいたことです。スパイクについて素人の私は彼らにとって格好の材料でした。手取り足取り教えてくれました。私が工夫したのは手の振り上げです。何としても高さを確保したいのでバックスイングをできるだけ大きくし、そして左手とともに右手の肘を右耳の位置まで一気に振り上げそこからインパクトするようにしました。このフォームですと高さは出るもののスイングの際肩に負担がかかるのと手のひらが上を向き肘が前に出やすくなるので現在このフォームを取り入れる指導者は殆どいません、お勧めできません。

 次はどうやって相手コートにボールを打ち込むかでした。理屈上の高さには届いたものの実際にボールを打ってみるとそうは簡単にいきません。そこで教えてもらったのが、トスをネットから離してもらいそのボールに強い前回転を付ける(ドライブをかける)ことでした。そのためには手のひらでしっかりボールをとらえるつまりミートをよくすることでした。このミートをよくする練習は一人でもできます。壁に向かいます。ボールを打ち壁の1~2m手前にバウンドさせ壁にぶつけます。跳ね返ってきたボールをそのまままた打ち先程と同じところにバウンドさせ壁にぶつけ戻ってきたボールをまた打ち続ける、という練習をしました。これはミートが悪いと続けることができません。次にジャンプをしてボールを打ちこれを続ける練習をしました。こうしてミートをよくしより強い前回転がかけられるように練習しました。また、レフト側から相手コートの逆サイド奥の角を狙うと、正方形の対角線の長さである9×1.4mまでの範囲に打ち込めばよくなりコートを広く使えます。このようにしてスパイクを打ってみると、威力はありませんがスパイクらしきものは打てるようになりました。

 練習を続けるうちに今度はゲームの中でスパイクを打ってみたくなりました。これも当然と言えば当然です。東京学芸大学バレー部には女子部があります。その練習に参加させてもらいゲーム形式の練習の際に使ってもらいました。当時学芸大学女子部は関東大学リーグ1部に所属していました。そして今と違い女子1部下位チームですと選手の体格はさほど大きくありませんでした。さらにゲーム形式の練習をするにあったてはレギュラーの相手となるスパイクを打てる選手はさほどいないのが現状で、私くらいの身長でそこそこスパイクが打てるとなると練習相手としては格好でした。そこでゲーム中にスパイクを打つ楽しさ、打つこつそしてスパイカーの気持ち等を学びました。

 このように、努力し、工夫し、練習の場所が確保できれば低身長者でもスパイクを打つ快感を得ることができるということを体感しました。

 

 そこで皆さん、スパイクとアタックの違いをご存知ですか。次回はその辺りを話したいと思います。

2021年5月掲載

私とバレーボール その2

昭和44年卒 片野 昭秀

 

前回、私とバレーボールについて述べました。その後もう少し詳しく思いを書いてみたくなり再度ペンをとった次第です。

昭和44年4月東京学芸大学入学式当日、式の開始を待っていると前にいた人間が隣にいる知り合いらしき人間に「バレー部に入るだろ、俺は入るから一緒に入ろう」と話しているのが耳に入りました。これ幸いとその人間に声を掛けました。彼は振り向きざまに「あれ! お前、開成じゃないか! 俺だよ、上野だよ!」。上野高校とは5校リーグ戦(注)と国体予選で対戦していました。言われてみると確かに見覚えのある顔でした。式が終わった後一緒に部室に行こうと話がまとまり大学バレー部員としての生活が始まりました。彼らとは4年間、泣いたり笑ったり言い合ったりしたよい仲間です。

本題に入る前に、関東大学バレーボール連盟(通称学連)と東京学芸大学のポジションを簡単に説明します。

現在は、各部12チーム編成で9部まで、登録数約100校となっています。私が在籍した昭和44年~47年は、各部6チーム編成で11もしくは12部まで、登録数約70校と記憶しています。春と秋のリーグ戦ごとに各校の順位が決まります。上位になると一つ上の部の下位と入れ替え戦を行い、下部では自動的に入れ替えが行われ最終順位が決まります。それに加えトーナメント大会の全日本大学選手権、東日本大学選手権(当時は関東大学選手権)があります。東京学芸大学は、現在1部に在籍し最高5位、全日本8位、東日本4位が最高の成績で強豪校の部類に入っています。私が入学した昭和44年は4部、その後4部と5部を行ったり来たりしていましたので全体からすると中の上くらいの力でした。

4月入部したての頃は春のリーグ戦が始まる直前ですので新入生はパス・対人レシーブはさせてもらえましたが、他は当然のごとく球拾いが仕事、いや球拾いが練習です。しかも私のようにチビで高校時代に何の実績のない者はなおさらです。たまにシートレシーブに入れてもらったときは嬉々としてコートに飛び込んでいきました。入部の際目標はと聞かれ「セッターになりたい」と答えました。それを主将が覚えてくれていたのか、ある日練習の最後に「片野、トスを上げてみろ」と指名があり半分びっくりしながら半分喜んでコートに入っていきました。「高く、アンテナの外側まであげろ」と言われ始まりました。トスを上げるたびに先輩たちが口々に「高くあげるんだ!」「アンテナまで延ばせ!」と言うのですが当時高校ネットの高さは2m30㎝、大学は2m43㎝この13㎝の差、加えてアンテナの位置がサイドバンドよりボール1個分20㎝外です。トスを上げる事にはある程度の自信はありましたがこの13㎝と20㎝がどうしても縮まりません。高くあげると届かない、届かせると高くなりません。加えてアタッカーの打ちやすい死んだボールがあらない、自分のパス力のなさを思い知らされて練習は終わりました。

身長160㎝、指高200㎝、垂直飛び50㎝の私にとって致命的なのはブロックに参加できないことです。どうあがいても指先しかネット上に出ません。それでも高校時代は、私がフォワードの際はブロック2枚、私は常にブロックの後ろでフェイントとワンタッチボールを拾うというフォーメーションでそこそこ試合はできました。ですが大学は2枚のブロックでは全く通用しないことが春のリーグの試合を見てよく分かりました。パス力のなさと併せ、セッターをやるという夢はあきらめレシーブに専念することにしました。

レシーブ専門といっても現在のようにリベロというポジションはありません。1セットに1回バックライトに来た選手に代わりコートに入りサーブを打ち、3回のローテーションで再び交代、バックのポジションだけ務めるものです。ピンチサーバー、ピンチレシーバーと呼ばれました。そのために人1倍のレシーブ力がなければなりません。そこで行きついたのが、腕の面をしっかり作り正面で受け止めればどんな強いスパイクボールでもこわくはなく、さらに正面に入るためにボールの行く先を読み取ることがすべてのボールに対してのレシーブ力を高めるということです。そこに至る際に大変役に立ったのが当時やっていたスパイク練習です。当時メンバーは13人しかいませんでした。そのうちの9人が3人ずつレフト・センター・ライトの3ヶ所に分かれスパイクを打ちます。残った4人の内2人はネット近くでボールを次々渡します。最後の2人が打たれたボールを拾いネット近くの人間に返します。3ヶ所からくるボールを2人で拾うのですからボールが飛んで行ってから取りに行っても間に合いません。ボールの行方に先回りして待っていないと次から次へとくるボールに対して間に合いません。その練習を続けるうちに9人のスパイクを打つコースは殆ど読み切ることができるようになりました。試合の時はその延長で、相手がどのコースに打ってくるか練習中にしっかりフォームを観察したものです。

ピンチサーバーは1セットに1回1試合では最大5回、ピンチというように文字通りチームが不利な時に登場することが多いです。その状況で、相手を崩しあわよくばポイントになるサービスを打ち、ナイスレシーブをし、大きな声を出しコート内を走り回ってチームの雰囲気を変えるそんなピンチレシーバーを目指しました。サーブは1回、レシーブする機会は1回もないことがあります。その数少ない機会がうまくいったときは自分の存在感を示せたと悦に入ったものでした。折角コートに入れてもらってもサーブで崩せなかったり、ボールが来なかったりすることが数多いです。そんな時でも大きな声を出しコートを走り回りチームを元気づけることはできます。キャプテンとなった年のリーグ戦会場で優勝を争った相手チームの監督さんから「私のチームも君のような元気のあるピンチサーバーが欲しいんだよ」と言われた時は嬉しかったです。この話はおまけがあり、それから十数年経ったある日、審判で大学リーグの会場に向かったとき偶然前述の監督さんとバッタリ出会いました。挨拶がてら昔の話を持ち出したところ、「あの時の選手は君か!」と覚えてくれていて感激しました。

レシーブの際に心がけていたことの二つ目は、さわったボールは味方のいる方に上げることです。そうすれば誰かが繋いでくれます。当たり前のことですがこれが難しい。どんなに強いボールをレシーブしてもどんなに遠くにあるボールに触れてもそれが次につながらなければナイスレシーブにはなりません。ですのでとにかく味方のいる方へそのために、後ろから前へ、外から中へと動くようにして、最悪でも自分の頭の上にあげることを意識していました。特にセッターには「何処へボールをあげたらよいかはっきり示せ、そこにボールをもっていく。」と伝えていました。また当時はブロックに触れた回数もカウントされました。従ってブロック後のワンタッチボールをただ頭の上に上げただけでは次にチャンスボールを相手に返すことになります。ワンタッチ後のボールをトスにすることで攻撃につながっていきます。さらにサーブ権がないと得点にはならないので、得点に大きくかかわるプレーです。ブロッカーには「ワンタッチをとれ、そうしたらトスにもっていく。」アタッカーには「必ずトスにするからいつでも打てるように準備しておけ。」と要求していました。

飛んでくるボールのコースを先読みする、味方のいる方へボールをつなぐ、この二つが私のレシーブの極意でした。 

今回は一先ずここまでにし、またの機会に続きをしたためたいと思います。 

注) 五校リーグ戦  

開成バレー部OB昭和37年卒の方々が主将飯塚公啓先輩を中心として、勉学・スポーツを共に切磋琢磨していこうと提唱された。永遠のライバルである麻布高校、都立の進学校小石川高校、上野高校、日比谷高校に呼び掛け昭和35年に開成を会場として第1回大会が開催された。

70年史によると、途切れ途切れではあるが平成18年まで開催された記録がある。このように脈々と引き継がれてきたが、都立高校の部員不足による活動低下、大会増による開催時期確保の困難さなどで平成20年頃より中断している。

現在は都立3校も復活しているので再開を臨みたい。 

麻布OB昭和43年卒谷山雅裕先輩、開成OB平成9年卒宮利政現顧問、お二人にも話を伺いました。

 昭和46年度全日本大学選手権のプログラムを添付しました。この年は開成出身者が7人エントリーされています。バレーボール名門校ならばいざ知らず、一校から7人もエントリーされている高校はありません。以下紹介します。
(プログラム掲載順)

■東京教育大学(現筑波大学)・柳宏さん(昭和46年卒)
 現在、都留文科大学バレーボール部長です。
 
女子部は関東リーグ2部1位、1部に手が届くところに
いる強豪チームです。

立教大学・吉田耕一さん(昭和43年卒)
 
バレー部OBではありませんが当時学連委員長の要職を務められていました。

東京大学・田中俊一さん(昭和43年卒)
 
私の1学年上、ポジションはセッターでした。

東京学芸大学・片野昭秀(昭和44年卒)
 筆者

千葉大学コーチ・片野清昭さん(昭和42年卒)
 2歳年上の私の兄です。

一橋大学・鵜沢豊さん(昭和43年卒)
 田中さんと同じ学年のセッターです。当時は2枚セッターが主流でした。

武蔵工業大学・丹沢和夫さん(昭和43年卒)
 バレー部OBではありません。残念ながらどのような方か存じ上げていません。

2021年2月掲載

私とバレーボール

                                  昭和44年卒 片野 昭秀 

 教員志望だった私は東京の教員養成大学、東京学芸大学に進学しました。大学でもバレーボールを続けようと思っていた私は迷わずバレーボール部の門を叩きました。そこで出会った人間は開成の人間とは全く違う人種でした。

 東京学芸大学は国立大学です。私が入学した昭和44年当時国立大学の授業料は月額1000円でした。ネット情報によると公立高校は800円、私立高校は4340円となっています。従って経済的に裕福な人間は少なかったです。  私は理科が専攻でしたが、バレー部員は保健体育科の人間が主流を占め、彼らの多くは卒業後体育の教員になってバレーボールを教える、という思いを持っていました。それ故殆どの部員が週5日授業終了後17時~20時3時間の練習、オフの日はアルバイトをしながら学費、生活費を稼ぐという毎日を過ごしていました。それはバレー部に限らず他の運動部員も同様でした。

 将来バレーボールを仕事の一環とする思いを持つ彼らは、バレーボールとは何か、それを指導するとは何か、何のために指導するのか、そのためにどのような指導法があるのかということを常に考えていました。開成時代そこまで考えの及ばなかった私にとって、彼らのバレーボールに対する取り組む姿勢は全く斬新なものでした。そんな仲間の中で4年生になりキャプテンを任せられました。開成バレー部の時代とともにこの時代が私のバレーボール人生の礎になったと言っても過言ではありません。

 そのような大学時代を過ごした後私は小学校の教員となりました。小学校に部活はありません。バレーボールを続けたいと思っていた私には何か物足りないものがありました。その中で学芸大学のバレー部の先輩たちを中心に、東京の小学生にバレーボールを普及させるための組織「東京都小学生バレーボール連盟」を結成するという動きが立ち上がりました。 その一環として連盟主催の審判資格取得講習会が昭和53年に行われました。 その講習会は開成で行われ講師が開成バレー部の恩師である故中村博次先生でした。 講習会後の打ち合わせが体育教官室で行われ私は受講生でしたがその席に呼ばれました。 そこで中村先生の「片野を日本協会公認B級審判員に推薦しなさい。」との鶴の一声で何が何だか分からないうちに公認審判員になりました。

 B級審判員として活動を始めた後、東京都バレーボール協会の推薦で日本バレーボール協会公認A級審判員となり活動が広がりました。 全日本小学生大会の決勝戦をはじめ、大学選手権の決勝戦でも笛を吹きました。 残念ながら故中村博次先生と同じ国際審判員には手が届かなかったので国際試合や日本リーグ(Vリーグ)の笛は吹けませんでした。 ですがラインズマン(現在はラインジャッジ)では89ワールドカップの優勝が決まるキューバVSアメリカ戦(注)、代々木体育館満員の観衆の中で旗を振りました。 また私のジャッジの仕方がとても良いとビデオ・写真でラインズマンのお手本とされたこともありました。 今となってとても良い思い出です。

 開成出身のA級審判員として平成11年卒の楓さんが活躍されています。楓さんの息子さんは6年生の時に東京代表で全国大会に出場し見事に優勝しました。 このことはHPやFBに掲載されていますのでご覧になった方が多数いらっしゃると思います。 私はそのとき会長職にいました。 公私にわたり大変うれしかった出来事です。 また、開成バレー部は中村先生、私、楓さんと国際・A級審判員を3人輩出しています。 東京広しといえど、このような高校バレー部は稀有な存在です。

 東京都小学生バレーボール連盟の上部団体、日本小学生バレーボール連盟では理事、全国大会の実行副委員長などを務めました。 東京都バレーボール協会では理事を務め現在は監事をしています。  日本協会ではかつて情報処理部員として個人記録集計システム(現在のJVIMS)立ち上げに携わり、同時にFIVB(国際バレーボール連盟)がVIS(個人記録集計システムの国際試合版)を導入した際に日本バレーボール協会関係への普及にも関わりパソコン片手に日本各地を歩きました。

 最後になりますが、自分が所属する母体の東京都小学生バレーボール連盟では、B級審判員に推薦された後昭和55年より連盟の役員となり現在に至っています。 その間、審判委員長7年、副理事長6年、理事長8年、副会長4年を経て現在は会長を務め小学生バレーボールの普及発展に尽力しています。

 (注)この年のワールドカップは8チーム総当たりのリーグ戦で行われた。 キューバ無敗、アメリカ1敗で迎えたこの試合は最終日に行われ、キューバが勝てば全勝で優勝、アメリカが勝てばセット率の関係でアメリカが優勝、いずれにせよ勝ったチームが優勝、世界ナンバー1を決める試合だった。 結果、キューバが勝ち優勝、負けたアメリカは4位になった。

2020年12月掲載

松下産業が「朝日がん大賞」受賞

S50年卒の松下和正先輩が社長を務める松下産業が「朝日がん大賞」を受賞しました。

 この賞は、公益法人日本対がん協会が対がん運動に功績のあった個人または団体を表彰するものです。松下さんの会社では、10年以上前から、がんに罹患した職員やご家族を積極的に支援する部署を設けて、がん治療と仕事の両立ができるように支えてきたことが高く評価されました。

 がんの臨床に携わる者として、治療よりも仕事を優先してしまい、残念な結果に終わってしまう患者さんもいるなかで、大変ありがたい取り組みであると思いました。昔から後輩にやさしく、思いやり深い松下先輩ならではの業績と感じ、たいへん誇らしく思い、報告させていただきました。

日本対がん協会ホーム>ニュース:2020/9/1報道向け発表>「朝日がん大賞」「日本対がん協会賞」受賞者決定

S51年卒 上野 雅資 2020年9月掲載

 自動運転の技術最前線
   ~産学官連携研究開発プロジェクト2件の紹介~

 

 

井上秀雄  Hideo Inoue

神奈川工科大学 創造工学部
自動車システム開発工学科 教授 

開成学園バレー部OB S49年卒 旧姓 山崎

 

1.まえがき

 早いもので,開成を卒業してから46年が経ちます.最近のことは良く忘れるくせに,中学・高校・大学とバレーボールを続けてきた記憶は鮮明に思い起こされ懐かしい想いです.私は,早稲田大学理工学部卒業後,トヨタ自動車(株)に就職し,一貫して,走る・曲がる・止まる,そして安全や環境に寄与する車両の制御システム全般の研究開発に携わってきました.私が責任者として手掛けたエポックとしての開発例は,1995年 世界初の横滑り防止システムVSC(Vehicle Stability Control)2006LS460の統合安全システム1)Integrated safety system,これも世界初)等があります.前者は,単独事故の低減に大きく貢献しました.逸早く標準装備とした結果,米国のSUV系の単独死亡事故(ロールオーバー等)が約65%も低減したことが米国運輸省道路交通安全局(NHTSA)から報告されています2)2007).後者は,グローバルな運転支援システム全体の元祖となり,歩行者等障害物検知の自動ブレーキ(AEBS)ACC/LKA,パーキングアシストなど各社の装備拡大に繋がっています(これらも事故低減に貢献).

 そして,リーマンショックの前後の時代には,トヨタ自動車のR&D企画部を担当し,クルマ造りのアーキテクチャーとしての基礎を充実するだけでなく,自前主義体質を変えようと,システム思考で,産学連携のオープンイノベーションやIT業界連携など,次世代のCyber physical systemとしてエコシステムの変革に備え,様々な布石を打つことに奔走してきました.最近の豊田章男社長の「もっと良い(私は自分が納得できる)クルマ造り」「CASE時代のmobility会社への変貌」又,「トヨタが作る未来都市Woven City3)(裾野市 東富士研究所付近)」等の報道を見るにつけ,2010年前後当時の提案活動が漸く花開いたと,嬉しい限りです.

 現在は,本学で,ドイツ工科大学の様に,強靭な自動車工学の基礎と先進の研究と人材輩出の体制が,日本でもできないものかと2016年よりチャレンジしています.この原稿を頼まれた時に,これらの自分の生きざまを振返ると,開成時代にバレーボールをやってきた,サーブで始まりブロック・レシーブ・アタックと,常に前へ,次へと,ひた向きな行動の繰返しの経験そのものだったかな,と感じています.改めて青春時代に縦横の皆様との英知ある環境から潜在的に築かれたものと深く感謝します.

 思わず前置きが長くなりましたが,本稿では,自動運転/運転支援に関し,特に安全性確保のために私が取組んできた産官学連携研究開発プロジェクト2件を紹介致します.

 

2.自動運転に関する産学官連携研究開発プロジェクト2件の紹介

 これまで,あまり一般には語られてきませんでしたが,自動運転の安全性論証には,3つの律速点があります.この解決無くして,まともな実現はないと思ってきました.それは,

① 熟練ドライバの様に,経験に基づき見えている状況から見えない歩行者の飛出しなどを予測する(「かもしれない運転」の様な)リスク予測知能の不足

② 自然界相手の走行環境をセンシングするセンサ技術の物理的限界の検証が不十分.いくらAIで認識能力を上げたかに思えても,所詮,知覚されないものは認識できない.このため,どれだけやれば安全性保証したかが言えない(How safe is safe enough?).

③ 信頼性・安全性評価は,実車走行の実績評価に頼らざるを得ず,莫大なコスト(人・物・金)がかかる.天気予報の様な,検証データに基づく仮想環境シミュレーションでの評価環境構築が必要.また,個社の頑張りだけでない,包括的な活動が希薄.

の3点です.1つ目の産学官連携プロジェクトは,①に関し,科学技術振興機構(JST)戦略的イノベーション創出プログラム(Sイノベ)の採択テーマとして,201012月より研究開発を推進し,2019年度で終了したものです.又,2つ目は,②,③を取り扱ったもので,「内閣府 戦略的イノベーション創出プログラムSIP2期自動運転(システムとサービスの拡張)」の採択テーマとして,201812月~現在,推進中です.それぞれ,私はプロジェクトリーダーの責務を担っています.以下,それぞれ紹介します.

 

  2.1. JST_Sイノベ;「高齢者の自立を支援し安全安心社会を実現する自律運転知能システム」
                                     
4) 5) 6) 7) 8)

 高齢者が自立して元気に生活していくためには安心安全な移動手段としての自動車が欠かせません.又,全国知事連合と共同で実施したアンケートでは,高齢ドライバは自身の運転に不安がある一方で,元気に自分で運転を続けたい意志のある方も多くいらっしゃいました.この様な背景のもと,本研究では,高齢者の運転能力の低下をバックアップし,熟練ドライバの様な先読み技術で事故を回避する自律運転知能システムの開発・実用化を目的としました.(図1)

図 1  S-innovation vision

 プロジェクトの構成メンバは,神奈川工科大学,トヨタ自動車,日本自動車研究所,東京大学高齢社会総合研究所,東京農工大学,豊田中央研究所の6機関で,トヨタ時代から本学に移っても,(言い出しっぺだったせいか)私は責任者として本研究開発推進役を担ってきました.

 図2に予防安全のリスクフェーズの考え方を示します.この中で熟練ドライバの知恵と経験に学ぶと,「潜在リスクを読む(かもしれない運転)」技術がないことが解ります.本プロジェクトではこの点に注目し研究を進めてきました.成果の概要を図3に示します.

図 2  Risk phase concept on active safety

図 3  Edge technologies produced by S-innovation project

 本研究は,一般に言われる自動運転とは違い,①運転リスク予測制御技術(図4,5),②ヒヤリハットデータベースによる走行危険度推定AI(図6),③人間機械協調技術(図8),④リーン地図利用の外界環境認識プラットフォーム技術,⑤産学連携で一元化した開発環境(Closed open style)⑥公道実証(FOT)と分析方法,など日本独自のイノベーティブな技術を達成してきた点が特徴です.現在は,これらの成果が認知され,自動運転/運転支援の安全性,社会受容性にも欠かせない技術として産業界が実用化に取り組んでいます.

 更に,図6で示された「ドライバ運転行動要因のリスク指標」「走行環境要因のリスク指標」は,システムに実装されリスク予測制御として効果を発揮するだけでなく,運転・交通流シミュレーションにも組込み,リスク予測制御の効果予測も可能にしています(図7).

 元々,Sイノベのビジョンでは,高齢社会課題を世界に先駆けて(?)迎えた「課題先進国日本」ですが,これを英知で解決し,「課題解決先進国日本」として,同じ高齢社会課題を後発で迎えるグローバルな各国へも貢献することも目標に掲げていました.近年はグローバルにもこの技術に注目し始め,自分たちのシステムに取り込もうとしてくれています.尚,この「課題先進国日本」を「課題解決先進国日本」に! の考えは,東大元総長の小宮山先生のものです.私たちは,小宮山先生のお考えを具体的に実行してきたわけです.

 このプロジェクトは,Ⅰ基礎原理,Ⅱ応用実装(プロト車両),Ⅲ公道実証の3ステージでそれぞれ3年×3回の約10年続けた研究開発です.ステージ移行審査は厳しいチェックが入りますが,当初ビジョンからブレない研究成果を全うし,各ステージをクリアし10年続いた,日本の自動車業界では珍しいプロジェクトです.10年は長いと言う方もいらっしゃいますが,欧州のプロジェクトはこの様な10年プロジェクトは当たり前で,技術の連続的発展にはこれくらい掛かります. 

図 4  Hierarchical structure on risk predictive control

 2010年と言えば,米国のDarpaチャレンジで自動運転が叫ばれ,Googleなどが一躍,脚光を浴びたころです.このSイノベプロジェクトは同時期にスタートしました.社会課題の解決を目的として自動運転とは違う日本文化に基づく発想で,リスク予測技術や人間機械協調制御技術などを構築してきました.そして現在,自動運転にこれらの技術が反映されようとしており,先見性があったと廻りからは言って頂いています.しかし,私たちは,先見性があったとは思っておらず,最初に立てた高齢社会へのビジョンを達成するために10年後の出口を明確にし,バックキャストすることで,マイルストーンをおき,何よりも,ブレずにチーム研究を実行してきた結果です.お蔭様で,JSTの最終審査は「S評価」と高く評価して頂きました.

図 5  Optimal trajectory planning using risk potential physical modeling

図 6  Framework for near-miss incident data driven AI based risk predictive control

図 7  Virtual traffic and vehicles simulation platform to estimate the risk predictive control

図 8  Haptic shared steering control

 最後に,プロトタイプ車を各大学周辺の公道約10㎞で,約100名の高齢ドライバパネラーの実証実験の結果を示します(図9).肯定的な意見がほとんどで狙った通りの結果でした.因みに,自動運転に対する米国JD-power社の消費者アンケートの結果を図10に示します.この二つは,一概に比較はできませんが,真逆のユーザー意見です.機械はやはり人間に信頼されてはじめて使われるものだと痛感しました.人馬(車)一体感のでる,人間機械協調制御(Steering shared control)は今回,詳細には触れませんでしたが,これも面白いものです.機会があれば,どこかでご紹介します.

図 9  Elderly drivers’ impression for S-innov. Vehicle

図 10  User opinion for Automated Driving 9)

2.2. SIP-adus2期自動運転;「仮想空間での自動走行安全性環境整備手法の開発」10)

 

 このプロジェクトは,自動運転の安全性評価(Safety assurance)の観点からシミュレーションを中心としたVirtualなプラットフォーム環境を構築し,システムの評価効率を上げようとするものです(図11).その為には,自動運転システムその物をモデル化するだけはなく,自然界とも言うべき走行環境のモデル化も必要です.自動運転におけるセンサのモデル化は,特に重要で,ミリ波レーダーの電波,カメラにおける可視光線,Lidarと呼ばれるレーザー光としての近赤外光の,反射特性(再帰,拡散,鏡面反射など)や透過特性が,雨や霧,太陽光などの周辺照度,等周辺環境の影響で,どの様に変化するか気の遠くなるような物理現象を捉え,それぞれのセンサの電磁波原理に基づく長所と弱点を把握しなければなりません(図12).

図 11  Scope & Objectives on DIVP

図 12  Ray-tracing model between environmental and sensor model

 しかし,あまりに壮大なことでこれまで,実計測に基づく一致性を検証したセンサーモデルはありませんでした.カメラの画像認識は,最近のDeep learningなどのAI学習などにより各段に認識技術が向上したと言われていますが,走行データを網羅的に学習させるので,一度,問題が起こるとどの部分を改良すれば適切なのかがわりません.安全性保証を,どこまでやれば安全と言えるか,How safe is safe enough? などと国際議論が進められてきましたが,いまだに有効な糸口には辿り着いていません.本プロジェクトでは,このセンサと対象となる環境との間の電磁波の反射特性に注目し(図12),それぞれの電磁波原理に基づく物理シミュレーションを原理計測の一致性を検証して構築する.そして,業界センサ専門家たちの暗黙知を整理しセンサの弱点条件と凡その原因を形式知化する.そのシナリオ条件に基づき,仮想環境モデルと,電波伝搬と呼ばれるパストレース,レイトレースモデルを構築する.それらを,又,検出対象の計測実験によりモデルに反映する.更に,認識出力では多くの要因を含むため,一度,センサが信号として検出しているかの知覚出力で評価するようモデル化する.というような研究開発アプローチをとっています.(ここまで読んで頂いた方には,敬意を表します.兎に角,ややこしい話に足を突っ込んでいる訳です.)

図 13  Project design for DIVP

以上の様に壮大な目標を持ったプロジェクトの為,それぞれ専門性のある8つの会社と2大学の計10機関の研究コンソーシアム形式で進めています(図13).とんでもない業界混成チームです.これで上手く行くのかと国の各省庁は最初,心配されたと思いますが,実は,この様なアプローチには良いお手本がありました.それは「天気予報」です.かつては当たらないものに「天気予報」が挙げられていましたが,今ではその予測は消費者の信頼を得て毎日の生活に欠かせない情報になっています.この「天気予報」の研究開発の歴史を紐解いてみると,3つの重要な要因が見えてきました.それは,①物理的な原理モデルの追求,②ハイパフォーマンスなコンピューターの進化の利用,③種々の統計的データの蓄積(物理モデルと統計モデルを組みあわせる.又,データベースとして構築)です(図11).この三位一体のアプローチをお手本として,原理モデル作成→実験による一致性検証→ギャップ原因の解析→モデルの改良のサイクルをひた向きに追求することで各機関の役割が明確になります.まだ,スタートしてから17か月の経過ですが,急速に成果が出てきて,業界,省庁からの注目と期待が高まっています.Lidarはかなり実機に近い出力をシミュレーションだけでできるようになってきました(図14).カメラも専門メーカーの一致性の高いモデル化が進んでいます.ミリ波レーダーセンサの電波は,オン性能としての信号か,ノイズかの見分け方,更には,対象物のマルチパスの課題など最もモデル化が難しいものですが,基本的な反射はシミュレートできるようになってきました.

図 14-(a)  Simulation model examples; Dynamic Lidar modeling

図 14-(b)  Simulation model examples; Integration model on camera, 

Lidar, Radar, and Automated Driving vehicle

昨年10月のSIP-adusの国際Workshopでも,このDIVPDriving Intelligence Validation Platform)プロジェクトの活動を発表(図15)したところ,欧米からも注目され,ドイツとは国家機関を通じてプロジェクト同士で連携することになり,この7月より国際連携プロジェクトがスタートしました.又,SIP-adusの他プロジェクトのお台場での自動運転デモは,オリンピック延期やコロナ禍の影響で,トーンダウンせざるを得ず,逆に,本仮想環境の安全性評価DIVPプロジェクトとの連携が強まっています.DIVPプロジェクトは,今年中には,日本自動車研究所(JARI)等での,アセスメントとしてのNCAPシナリオをVirtual proving groundとしてモデル化予定ですし,これまで他のプロジェクトが自動運転の実証実験を実施してきたお台場エリアを,センサ不調条件を模擬するVirtual community groundとして20213月までには,モデル化する予定です.

図 15  Presentation from Prof. Hideo Inoue on SIP-adus Workshop 2019

DIVPコンソーシアムは,独禁法や利益相反の観点から,お互いの企業のノウハウ・尊厳を守りながらも,センサーモデル等の一致性の検証で協力し合い,評価プラットフォームを構築しなければなりません.そして,シミュレーションの構造やインターフェイスの標準化で全体が繋がることを共通の目的に推進しています.その運営は,競争と協調が混在し,とても大変です.しかし,感覚的には,中学・高校のバレー部の,「部活」と似ており,お互いの人格を尊重しながら共通の目的の為に繋がりをもちひたすら前に進むことと同じです.これもお蔭様で「ブカツ」のノリで,地で行けています(国には,とても「ブカツ」のノリとは言えないので皆様との間の機密です).早くOEMや業界が本DIV-プラットフォームシミュレーションを使って自動運転の安全性検証を進められる日が来ることを祈願して止みません.

3.おわりに

 書いているうちに,だらだらと長いだけの寄稿になってしまいお恥ずかしい次第です.ここまで,読んで頂いた根気のある方には,本当に感謝致します.ありがとうございました.社会人になってからの私の経験は,一貫して自動車産業の安全技術の進化に貢献してきたと自負しています.又,まだ,現役で頑張っていられるのも開成バレー部時代に,先輩方,後輩,同僚との縦横の時空間での環境で,知らずのうちに潜在的に身についた習慣や教訓があってこそのことと,この寄稿を書いていてありがたく思います.手前みその経験話で恐縮でしたが,「開成バレー部魂」はこんな所にも宿っているとご理解下さい.OB会,そして現役の学生諸君には,ほとんど貢献しておらず失礼していますが,現役諸君からの刺激も受けたいですし,又,OB皆さまと思い出話を語り合える日も待ち望んでいます.コロナ禍に負けないよう,皆様のご健康とご多幸を祈願し,本稿の締めと致します.

 

                             2020713日 井上 秀雄

〔参考文献〕

1)  NHTSA Technical Report, Statistical Analysis of the Effectiveness of Electronic Stability Control
   (ESC) Systems – Final Report, DOT HS 810 794, July 2007
   https://crashstats.nhtsa.dot.gov/Api/Public/ViewPublication/810794

2)  トヨタ自動車(株)広報資料 https://global.toyota/jp/detail/1617355

3)  トヨタ自動車(株)広報資料 https://global.toyota/jp/newsroom/corporate/31170943.html

4)  井上秀雄,et al, 超成熟社会に向けたクルマの知能化,自動車技術会シンポジウム(No. 06-14)
 
「自動運転への最新技術情報」講演,20145

5)  Hideo Inoue, Research into ADAS with Driving Intelligence for Future Innovation, 26th IEEE
  International Electron Device Meeting 2014, Keynote Speech, 15 December 2014

6)  井上秀雄,et al,高齢者の自立を支援し安全安心社会を実現する自律運転知能システム,
  JST戦略的イノベーション創出プログラムSイノベシンポジウム,講演資料,20169

7)  Hideo Inoue 他 Intelligent Driving System for Safer Automobiles Invited Paper,
  Journal of Information Processing Vol.25,Information Processing Society of Japan, January 2017

8)  井上秀雄,運転支援・自動運転における安全技術の進化と安全性評価について,自動車機能安全
  カンファレンス2019基調講演,講演資料,201912

9)  JD-Power 2018 survey results, https://www.businessinsider.jp/post-170748

10) SIP-adus Workshop 2019 報告書 https://www.sip-adus.go. jp/evt/workshop2019/

11) 〔新聞記事〕,井上秀雄,JST 高齢運転者の事故防止へ 自律運転知能システム,
   
交通毎日新聞記事,2017年5月25日

12) 〔新聞記事〕,井上秀雄,政府支援 仮想空間で自動運転開発,読売新聞朝刊,2020112